『赤信号』



大学最寄駅近くを歩く後姿を見ただけですぐにわかった。
-----彼女だ。
すっと、背筋を伸ばして坂道を登る彼女。
大学近くということもあって、このあたりは学生向けのアパートばかりだ。
歩道を、何の用事もないような学生がふらふらと歩いていたりする。
それなのに、すぐに見分けられる、彼女の後姿。
さらりとした髪は、きちんと肩のあたりで揃えられ、ほんの少しだけキャラメル色に染まっている。 低くも高くもない身長、太っているわけでも痩せているわけでもない体型。ごく普通の。

冬の陽は落ちるのが早い。
夕方5時半を回った頃だろうか。
すぐそばの国道10号線は、いつもと同じようにラッシュが始まっていたけれど、 住宅街に一歩入ったこの道は駅の明かりだけが辺りを照らしている。
ブレーキを踏み減速して、ハザードを出しながら彼女の数メートル手前の路肩に車を止めた。
ミラーを見ると、少し驚いたような顔をした彼女が走ってくる。
「びっくりした。どうしたの?どこか行ってた?」
外の冷たい空気にさらされていたせいか、こちらを覗き込んでくる彼女の頬と鼻の頭は うっすらとピンク色になっていた。
「うん、本屋に行ってた。経済学で使うやつ」
僕は、助手席に置いてある紙袋を手に取って見せた。
「そうなんだぁ。その本、私購買で買ったよ?もう残りなかったの?」
「・・・最後の一冊を、和泉に取られた」
サークルの同級生であり、僕の親友の名前を出すと、彼女はくすくすと笑いを揺らした。
その笑顔に、僕も自然と気持ちが浮き立つ。
好きなコの笑顔はいつ見ても、嬉しい。
その気分のまま、「アパートまで送っていく」と言った僕の言葉に彼女は一度は遠慮する素振りを見せたものの、 二度目の誘いに素直に頷いた。

大学に入って、初めて言葉を交わした同級生。
それが彼女だった。
出席番号が前後ということもあって、語学系の授業も一緒、テストのときは 必然的に顔を合わせることになる。しかもサークルまで一緒となれば 親しくなるのに、そう時間はかからなかった。

「ありがとね。寒かったぁ。家までそんなに遠くないんだけどさ・・・この坂道登るのがね」
助手席に乗り込んだ彼女は冷たくなった手に、はぁ、と息を吹きかけていた。
ふと、その膝元に目が行く。
大切そうに男物のブランドの袋を置いてある、膝の上。
どろりとした気持ちが胸の中に浮かんだのが、はっきりと分かった。
「そっちこそどこか、買い物行ってた?」
「うん、ほら・・・クリスマスだしね。あいつに」
彼女の頬が、ほんのりとと朱を刷いたように見えたのは、きっと寒さのせいなんかじゃない。
鉛を飲み込んだような気持ちが車内を重たくさせる前に、僕は車を発進させた。

あいつ-----同じサークルの、僕の、親友。和泉。
教科書を先取りされてしまったように気がついたら彼女は。
あいつのものになってしまって、いた。
和泉くん、と彼女が口元をほころばせながらその名前を呼ぶたびに走る、きりきりとした胸の痛み。
僕は、彼女への気持ちも、この痛みも。
どちらも胸の奥から追い出せずにいる。

だけど。
この気持ちはきっと、赤信号で止まる日が来る。
いつかどこかで、引っかかる。絶対に。
だから、それまでは。

「もうちょっと暖房強くしようか?」
「ううん、もう大丈夫」
ほっこり、と彼女が微笑んだ。
もう、彼女の頬も鼻の頭も冷たくぴかりと光ったような色ではなくなっている。
そうか、と言って、僕は暖房のスイッチに伸ばしていた手を、ハンドルに戻した。
車は大学裏手の坂道をぐんぐんと登っていく。
坂を登りきったところで、彼女が住むアパートが見えてきた。
「ありがとね。あ・・・あそこの信号の手前でいいよ」
彼女が数十メートル先の信号機を指差す。
信号は青。
緑がかったようなその色を、ほっとしたような気持ちで見つめた。
「いや、アパートの前まで行くから」
「でも、それだとそっちが遠回りになっちゃうでしょう?ここの信号曲がったほうが近いし」
「いいから」
僕は、少し強めの口調で言った。

-----行かせて欲しいんだ。
せめて、青信号の間だけは。

アクセルを踏む右足に、思わず力がこもった。

このまま行かせて欲しい。
だけど。
僕の気持ちはやっぱり、止められてしまうものだったのだろうか。

あと少しと言うところで、信号の色は黄色から赤色に、変わった。
変わってしまった。

「ほら、信号も変わったし。もうここでいいよ。降りるね。私はまっすぐ行くけど。 そっちは左折したほうが近いでしょ?」
彼女が申し訳なさそうな笑みを浮かべ、ドアに手をかけた。

-------待って。
降りるな。
シートベルトを外そうとした彼女の手を、思わず掴んだ。
彼女の手は、冷たくはなかったけれど伝わってくるのはほんの僅かなぬくもりだけ。
やっぱりあの短い時間じゃ暖められないのだろうか。
僕じゃダメだったんだろうか。
「どうしたの?」
大きく見開いた彼女の瞳。視線は、本当に真っ直ぐで。
「いや・・・。それじゃあ、また明日な。コケるなよ」
すっと、手を離した。
なるべく自然でありますように、と願いながら。
あまりにも真っ直ぐすぎる視線が、痛かった。
彼女がドアを開けた瞬間に飛び込んできた冷たい風に気持ちが負けてしまわないように、 左折のウインカーをつけた。
「やだなぁ。家すぐそこだってば。そっちこそ事故らないように気をつけてね」
またね。
彼女の口元がその形に開かれるのと同時に、ドアが閉じられて。
桜貝と同じ色をした爪を持つ小さな手が、僕に向かってゆっくり振られる。
そして信号は青に変わった。
さっきと変わらない緑がかった青色。

彼女は真っ直ぐ。
そして、僕は左にハンドルを切り。
すぐに彼女の姿は見えなくなった。


本当は、ずっとずっとこのまま一緒に乗っていたかった。
だけど、そんなの彼女が困った顔をするだけ。
前に進んじゃいけない気持ちって、きっとある。絶対に。

だから、僕は自分でこの気持ちにストップをかける。


赤信号を、点灯させる。


フト気がついたらこの話って槙原敬之の「彼女の恋人」と同じパターンじゃん(汗)
運転してて「赤信号で気持ちをストップする」ってフレーズを思いついて
ばーっと書き始めたら・・・アラ?・・・まぁいいか。

物語の舞台になった大学裏の坂道には信号なんぞ存在しません(爆死)
だけど、あの学生街が妙に好きなのでこの話に使っちゃいました。
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