『君をしそ』


春というにはまだ少し早い日差しが、誰もいない教室いっぱいにふりそそいでいる。
黒板には、まだうっすらと卒業式の名残があった。
色とりどりのチョークで書かれた「ご卒業おめでとうございます」。
一応掃除はされたんだろうけど、色付きチョークって、きちんと拭かないと落ちないから。

卒業式も終わったのに、こうして学校に出てきたのは、入学予定の大学に出す 書類を貰い損ねていたからだ。あまりの自分の間抜けさにほとほと呆れてしまう。 来週からは、18年間住み慣れたこの場所を離れて、東京での新生活が待っているというのに。
事務室で書類を貰ったあと、ぶらぶらと校舎をめぐってみようかと思った。
1、2年生はまだ授業があるから、特別教室が集まった校舎と、誰もいない3年の教室だけだけど。
ついこの間までここで過ごしていたなんて嘘みたいだ。
こうやってあのときと同じように机に座ってみても、何か違う。
もう、制服を着てないせいかもしれないし、教室に誰もいないせいかもしれない。 たった1枚の卒業証書を貰ったくらいで、何が変わるんだろうって思ってたけど。

高校生活は、薄いベールの向こうにあるみたいだ。

きっと、これから年を重ねるにつれて、そのベールはもっともっと厚くなって。 透けて見えていたものも、もっともっと霞の向こうの遠い過去になってしまうんだろう。

遠くに聞えるのは、きっと階下の2年生の授業。
古典なんだか、漢文なんだかわからないけど、あれは国語科の沢村先生の声。
短歌を朗読するたびに「いい歌ですねえ」と目の横のしわを、さらに深くさせていた先生を思い出して 思わず「ふふふ」と笑いがもれた。





3年にあがって、最初に受けたのは、沢村先生の授業だった。
古典------万葉集。
春の午後。うらうらとした陽気の中受ける古典の授業はまるで眠ってくれと言わんばかりで。 受験生とはいえ、進級したばかり。クラス全体もまだそんなに緊張感がなくて。
窓の外では、桜が風に吹かれて最後の花びらを散らしていた。

「・・・で、現在の花と言えば桜ですが、万葉の時代は梅を指し・・・」
沢村先生の声が、遠く聞える。頭の奥が、とろうり、ととろけるような感覚。
ああ、眠い。いいや、寝ちゃえ。
ノートの上で、シャーペンの文字がまるでつる草のようにぐるぐると線を描く。
それをどうにも止められないまま、まぶたを閉じたとき。

つん、と額をつつかれた、ような、気がした。

「・・・あ?」
何?俺、今寝ようとしてたんだけど。

かなり不機嫌な顔をしていたと思う。
授業中寝ようとしていたことを棚に上げて。
それでも前の席のヤツは、先生に見付からないようにこっそりと、小さく折りたたんだメモ用紙を渡してくる。 満面の笑みを添えて。
「ねえねえ、今眠ってたでしょ」
「あー・・・。眠る直前」
「やっぱり」
さらに笑みを深くする。
春の日差しを受けて、桃色に光る頬がやけに印象的だった。
前の席、ということは出席番号1つ違いの・・・名前なんだっけ。
津本、とか言ったような。

何だコイツ。俺が寝ようとしてたところを狙ってきたのか?
だとしたら何て意地の悪い、いや性格のいいヤツなんでしょうかねぇ。
かなり嫌味をまぶした視線を向けてやる。もちろん教卓で授業している先生にはわからないように。

そんな視線に気がついているのかいないのか、相変わらず津本はにこにこと笑いながら、言う。
「眠るんなら、問題解いてみない?」
思いもよらない言葉に、目を丸くしてしまった。
「はあ?」
「この紙に書いてあるから」
「え?」
「解けたら、教えてね」
「はあ・・・」
その返事を了解と受け取ったのか、津本は、くるりと前を向くと何事もなかったかのように 授業に参加し始めた。

わけわからん。
なんなんだ、一体。
机の上に置かれた、小さなメモ用紙。
放っておこうかな、と思った。本当は。
だけどこのまま放っておいたら「こんな問題も解けないの?」って思われそうで。
それも何だか癪だったし、何よりいい眠気覚ましになるんじゃないか?

そう思い直し、ガサ、とメモ用紙を開いてみる。
そこには数字が------おそらくこれが問題なんだろう------書かれてあった。

『H5B3E4D4I3(笑)』

・・・わからん。
大体、ここは文系クラスだって。俺、こういうの苦手なんだから、実は。
思わず頭を抱えた。きっと、わかるやつにはすぐわかってしまうんだろう問題。
けど、わからん。
悔しいけど、ヒントを貰うことにした。
ルーズリーフの端を破り、殴り書きのようにして、津本の背をつつく。
『ヒントくれ、ヒント』
くるりとふり返った津本は、おそらく先生の目を気にしてだろう、 何事もなかったかのように俺の手からルーズリーフを受け取った。

そして待つこと、数十秒。

津本は後ろを振り返らずに、ぽい、とメモ用紙を机の上に落としてくる。
メモ用紙には『50音』とだけ書かれてあった。
なんだこりゃ。わかんねーよ。
もう一度頭を抱える。 結局俺は、授業終了までその問題を解くことができず、休み時間に答を聞くハメになってしまった。

「なあ、津本サン。あの答え教えて」
んー?とふり返った津本の顔は、いかにも「嬉しい」という表情を浮かべていた。 一体何がそんなに嬉しいんだか。
ちょっと、悔しい。
「あれはね『よくねてる』って書いてあったの」
にこにこ、と笑う。
相変わらず桃のような頬を揺らして。

「・・・へえ」
納得してない表情をしていたのを津本もわかっていたようだったけれど、それ以上教える気がないのか またくるりと前を向き、机の中に教科書をしまうと、すっと席を立ってどこかに行ってしまった。
追いかけることもできずに、俺は真っ直ぐに伸びたその背中を見つめた。

それ以来。
授業中眠たくなると、いつも津本から問題を出された。
まるで背中に目がついているかのように、いつもいつも。
そして俺はその度に答えがわからず、津本の背中をつつくハメになる。
一度くらいは解いてみたいと思うけれど、事実、 家に帰ってメモ用紙をじっと眺めてわかった問題もあるのだけれど、 じゃあ、その手順を使って次の問題を解こうとすると、案の定次の問題は違う法則性を持っていたりして。
さっぱりわからない。

どうして津本はいつもいつも俺に問題を出すのか。
どうして俺は飽きもせず、津本の問題に付き合ってしまうのか。

答えは『おはよう』だったり『おつかれさま』だったり。
『きのうはないた』だったりして、一体どうしたんだと尋ねたら、 タムラマサカズが父親役のドラマの再放送を見て、泣いてしまったという答えが返ってきたりして。 呆れた様子の俺を見て、津本はまた嬉しそうにくすくすと笑った。
そのたびに、胸の奥がうずいたのは。
その頬に触れてしまいそうになったのは。
きっと、津本が嬉しそうに笑うからだけじゃなくて。




結局1年間、俺は津本の出す問題に一度も答えることができず。
卒業式を迎えた。
卒業式だからと言って、俺と津本が特に何かあったというわけでもなく。
淡々と、本当に淡々と式が終わってしまった、という感じで。
ただ、卒業式の後、津本からまた問題を出された。
式を終えて、教室に戻る途中の廊下。
男子は白、女子はピンクの造花を胸につけた卒業生でごった返す廊下。
ほんの少し怒ったような、困ったような、・・・何かをこらえているような、 そんな津本の顔。
初めて見る津本の表情に、どうしていいかわからず当り障りのない話題を選んで口にした。
「京都の短大に行くんだってな。知らなかった。体に気をつけてな」
「そっちこそ東京の大学に行くんでしょ」
津本の表情は変わらない。最後くらい、頬が揺れるのを見てみたいと思っていたのに。
あのさあ、と何か面白いことでも話そうと切り出したとき。
「最後だからちゃんと解いてね。あ・・・ヒントは『火曜の最初の授業』だから」
津本がそんな言葉と一緒にメモ用紙を、ぐい、と差し出してきた。
受け取ったメモ用紙は、白にグレイのラインが入ったいつものタイプではなく、 卒業式を意識してか、桜の花びらが印刷された、この時期にぴったりなものだった。
「努力してみる」
そんな風に言って受け取ったものの、やっぱりわからない。

『12・3209』
メモ用紙に書かれていた、最後の問題。

卒業式のあと、教室に戻ってHRを受けている間も。
そのHRでクラス全員、一人ずつお別れの言葉を言っている間も。
ずっとずっと考えていたけれど、わからない。
そしてそのまま、津本とはさよならの挨拶もせず、別れてしまった。
話し掛けようとしたけれど、津本は津本で女子グループたちと別れを惜しんでいたし、 俺は俺でやっぱり悪友たちと一緒にいたから。
だから、最後に見たのは彼女の桃のような頬じゃなくて、いつもまっすぐ伸びた背中が 校門を出て行く姿だった。
でもそれで良かったのかもしれない。
結局は卒業して離れ離れになってしまうんだから。
最後まで、この問題は解けないほうがいいのかもしれない。
1年間続いた問題の意味も、それから自分の気持ちも、思い出にしてしまったほうがいい。

津本の桃のような頬を忘れるには、そのほうが。





卒業式の日を思い出して、一つ息を吐いた。
ぐるり、と教室を見渡す。
まだ、黒板の横の壁には1年間の時間割がでっかく貼ってある。
きっと春休みに入る前には、剥がされてしまうんだろうけど。
火曜1限、最初の授業------古典、万葉集。初めて問題を出された日。
ふ、と頭の中を何かがよぎった。光のようにすばやく一瞬だけ。
気がつけば、教室を飛び出していた。
足は自然と図書館へ向かう。


中校舎3階の図書室は、授業中ということもあってか、誰もいなかった。
西側に大きく窓が開いている図書館は、しん、と静まり返っている。
駆け出したせいで、荒くなってしまった自分の息だけがやけに響いた。
「あら、お久しぶり」
司書さんが、隣の司書室から親しげに声をかけてくれたけれど、それには申し訳程度に頭をさげて 古典の書棚を探す。

万葉集。
万葉集、巻十二。

------あった。
慌てて固い表紙のそれを本棚から取り出してページをめくる。
ほんの少しだけ、指先が震えて冷たくなっているような気がした。
緊張しているのが自分でもよくわかる。

万葉集巻十二・三二〇九。
『春日なる』から始まるその歌を見たとき、また俺は駆け出していた。
司書さんが驚いた顔をして、それから思い出したように
「図書館では静かにね!」
と全然静かじゃない声をあげているのが遠くに聞えた。

好きなんだと思う。
多分、きっと、絶対に。
あの、桃のような頬を見たときから。
好きになっていたんだと思う。

------春日なる

思い出になんか、させない。
思い出になんか、させるもんか。
だってまだ何も始まってないから。

------三笠の山にゐる雲を

校門の横の桜の木はまだ蕾。
晴れているのに、白く霞んだ春独特の空。

------出でみるごとに

初めて解けた問題。
最初からわかっていたのに、解こうとしなかった答え。

---------------------君をしそ思ふ


『春日なる 三笠の山にゐる雲を 出でみるごとに 君をしそ思ふ』


君をしそ、思ふ。

高校時代、「恋ひ恋ひて」という万葉集の中から恋歌ばかり集めた本を買いました。
その中でも一番好きな歌です。
いつかこの歌を使って何か書きたいって思ってたんですぐぁ
力量不足で、最後のほう、尻つぼみになってしまって残念っす。ああ上手くなりたいなあ。

Photo by Crimson

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