『じゃあ、これからも』


さっきまで、ちょこんと隣に座って俺の髪を引っ張っていた依里子は、 気がついたらキッチンに立って、コーヒーを飲んでいた。
ミルクも砂糖も入れずに。

よくブラックで飲めるよな、と思う。
自分には到底、逆立ちしたってできない芸当だ。
コーヒーは大好きだけれども、それは甘くないとダメだし、しかも 猫舌ぎみなので、ミルクをいれて少しぬるくなっているほうがいい。

ビデオに見入っているフリをしながら、ちらりと彼女の様子をうかがった。 流しの前にいる依里子は、必然的に俺に背を向ける形になっている。
その首筋に、栗色に染まった髪が、さらりと流れていた。
依里子は俺にできないことをいとも簡単にやってのけてしまう。
仕事だって、なんだってそうだ。
コーヒーのブラックだって。
「昔は飲めなかったのよ」とあっさりと言われたときは、心底驚いた。
どうしたら、ブラックが飲めるようになるんだろうか。
俺には死ぬまでわからないような気がする。

でも、さらりとやってのける割にはどこか、抜けていて。
気がつけばFAXを裏表逆に送信していたり、上司の背中にお茶をこぼしてしまったり。

心配で目が離せない。


------いや、目が離せないのは心配だからだけじゃない。


きっと、2年たった今でも、依里子のことを大切に思っているせいだ。

正直、付き合い始めたときのようなときめきは、ほとんどないけど。 依里子が隣にいると、ミルクも砂糖もたっぷり入れたコーヒーを飲んだときのように、 ほっとするし、甘い気持ちになる。


惚れてるんだなあ、と思う。


でも、いまさら「好きだ」とかそんなの言葉に出して言えない。
照れくさい。

画面の中では、ブロンドのハリウッド女優が、派手なアクションシーンを繰り広げていた。

この女優になら、いくらでも「かわいい」とか 「美人だ」とかいくらでも誉め言葉が出てくるのに。



「・・・寛治」
依里子が、キッチンから声をかけてきた。
「何?」
「あたし、今日はもう帰る」
「なんで?もっとゆっくりしてけばいいやん」
「ビデオ、つまんないもん」
形のいい唇が、わずかに揺れた。
何度も触れたその唇。
「あー・・・。んじゃビデオ消す」
俺はビデオのリモコンを手に取り、停止ボタンを押して、ごろりとだらしなく 横になっていた体を起こした。
あらためて、依里子のほうを向く。
依里子の唇がこんなふうに揺れるときは、必ず何か言いたいのを押し殺しているときなんだ。 この2年で、そういうこともちゃんとわかるようになった。

「別に、見てればいいじゃない」
くるりと背を向けた依里子の表情は、わからない。
「よーりちゃん」
わざとふざけて呼んでみた。
「よりちゃん?苦いコーヒーのみ過ぎたせいで、心の中までいがいがしてるんじゃないですか?」
「・・・何バカなこと言ってんのよ」
「あ、それともブラックって、腹の中も黒くすんのか?」
「どうしていつもそう、ふざけてるの?」
依里子が急にこちらを振り返った。
唇は、もう揺れてはなかったけれど。
その瞳が少しだけ潤んでいることに気がついて、俺は思い切り焦った。
「どうした?」
「どうもしてない」
「泣きそうやん」
「悪い?」
「や・・・悪くはないけど。その理由を言ってくれんと、困る」


ほんと、困る。
好きな子に泣かれるのが一番、困る。
そして泣かしてる理由は、他でもない、俺。

どうしようもなくて、何度も首筋をさすってしまった。

「依里子」
「何よ」
「こっち、来ん?」
「行かない」
「来いって」

それでも依里子はこっちへ来ようとしない。
意地を張って、うつむいて、キッチンの床ばかり見ている。
仕方がないから、自分から動くことにした。
狭いアパートだから、今自分のいる場所からキッチンまで、わずか数歩。
俺が立ち上がると、依里子がぴくんとふるえたのがわかった。

「泣かしてるの俺なんよな」
「・・・・・・・」
「何で泣いてるんか、言ってくれんとわからん。俺、鈍いけん」
依里子の前に立って、彼女の頭をぽんぽんとなでた。
栗色の髪から、ふわりとシャンプーの香りがする。
依里子はうつむいたまま、かすれた声でつぶやいた。

「・・・苦くなるもん」
「は?」
「あっためすぎると、苦くなるもん」

何だそりゃ。
わからん。

「あのな?依里子ちゃん?バカな俺にもわかるように説明してくれんかな」
俺はだだっこをあやす親のようだと思いつつ、もう一度頭をなでた。
依里子は、しばらく黙ってなでられるままになっていたけれど、 少し落ち着いたのか、やっと顔を上げた。


その機会を逃さないように、俺は冷蔵庫をあけ、ミルクのパックを取り出した。
突然のことにあっけに取られている依里子のマグカップに、一気にどぼっとミルクを注いでやった。

「な・・・」
何なの、と言いかけた彼女をまあまあ、と制す。
「ってかさ、コーヒーが苦かったら砂糖入れればいいやん?熱かったらミルク入れて 冷ませばいいやん?ついでで悪いけど、俺は依里子のためやったらいくらでも甘くも まろやかにもしてやるけどな」


そこまで一気に言うと、俺はさすがに恥ずかしくなって依里子から目をそらして 残っているコーヒーを飲み干した。
甘い液体が、ゆっくりと体の中を流れていく。

本当は。
たっぷりと砂糖を入れたコーヒーなんかよりももっともっと甘いものが目の前にあるのに。
それは今、とんでもなくすねていて。
甘いどころかすっぱいかもしれない。
でも、甘かろうが酸っぱかろうが、俺はそれが何よりも大事で。


------大好きで。



俺は、すっかり空になったマグカップを流しに置いて。
それから目の前の甘くてやわらかい彼女を抱きしめた。
さっきよりも強くシャンプーの香りが鼻をくすぐる。


腕の中で、依里子が小さく身じろぎをした。
ひょっとして、逃げられるんじゃないかと思わず腕に力をこめてしまう。

でも、彼女の口から出てきた言葉は、否定でも責めるものでもなかった。
すうっと入ってくる、か細い声。


「・・・じゃあ、これからも甘くしてくれるかなあ?」


俺は返事の変わりに、もう一度依里子の髪をなでた。

当たり前やん。
ってか、そっちこそ甘くして。
当分、苦い思いは、したくないです。


やっぱり、俺は甘いコーヒーのほうが好きだから。



ああ、慣れない甘い話書くもんじゃないですね・・・。

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