『泳ぐ日』 水の中は好き。 仰向きになって、沈んでみる。そして目を開きながら浮かび上がる。 水の輪が何十にもできてキラキラと光る。光りながら迫ってくる。 このままずっとこの光を見ていたいって思うけど、その輪に吸い込まれるように 外界に放りだされる。そして目に飛び込んでくるのは、夏の空。青い青い空。 夏休みは地区ごとに学校のプールが開放される。 カマボコ板で作った、名前と電話番号を書いた札を手洗い場の横に置く。 冷たいシャワーで体を慣らしたあと、消毒液の中に下半身を浸す。 カルキの匂い、水の匂い、プール脇に生える草いきれの青い匂い。 毎年同じ。小学校に入学したころからの。 でも、今年は一つだけ違うことがある。 「おにーちゃんは、泳がないの?」 プールわきに腰を下ろした、白いTシャツの人に声をかけた。 白いTシャツに、グレーのラインが入った水着。 今年から、引率の母親だけでなく監視員がつくようになった。 毎日プールに来ているせいだろう、赤く日焼けした頬をゆるませて振り向いてくれるその人。 「泳ぐよ。・・・だけど俺が泳ぐときは、誰かが危険な目にあってるときだから」 だから、泳がないほうがいいだろ? 一重の、黒い瞳が優しく細まる。 風が短い髪をわずかに揺らした。 「ふうん」 なんとなく納得いかなくて、曖昧にうなずいた。 一緒に泳ぎたいんだけど。 あの光の輪を見たいんだけど。 紺色のスクール水着を、なんとなくつまらなく思った。初めて。 10年間生きてきて、初めて感じたもやもやした気持ち。 こんにちは、と言えば夏の太陽に負けないくらいの笑顔を返してくれる。 さようなら、と手を振れば「また明日な」と、夕方のそよ風みたいな優しい別れの言葉をくれる。 首から下げた黄色い笛が、眩しく光っている。 もっともっと知りたくなって、日焼けした頬が見たくなって毎日プールに通う。 「サヤちゃんって、あのおにーちゃんのことが好きなんじゃないの?」 プールから帰る途中。 スイカの味のする草を口に含みながら、チサちゃんが言う。 チサちゃんの肩にかかったビニールの水着入れがぷらぷらと揺れていた。 「そーなのかな」 「絶対そうだよ」 「よくわかんない。お兄ちゃんみたいな感じ」 「でもさあでもさあ、お兄ちゃんより好きでしょう?」 「お兄ちゃんいないからなあ。・・・でも毎日あいたい、な」 「それって恋っていうんだって」 「そう、なのかな」 スイカの味のする草を、ぷっ、と吐き出した。 恋、かあ。 恋を知らないって言ったら、嘘になる。 幼稚園のとき、初めて男の子を見てドキドキした。 かけっこがとても早かった男の子だった。 でも、そんな思いも1ヶ月もしたらすっかり忘れてしまっていた。 恋。 毎月買ってる少女漫画雑誌は恋の話ばかりだ。 でもどれもこれも小学生の恋愛なんて載ってない。 高校生か、せいぜい中学生、とか。 なんとなく掴みきれない。曖昧すぎて。 「こくはく、とかしないの?」 「こくはくー!?」 チサちゃんの突然の言葉に驚いて大声を出してしまった。 先頭を歩く、引率のお母さん ------ 今日は田中君のお母さんだ ------ が ちらりとこっちを向く。 「何言ってんの。大体いくつ年違うの?」 「え。サヤちゃん、あのおにーちゃんの年知ってるの?」 きょとんとしたチサちゃんの顔。 そういえば、何も知らなかった。 あの人の年も名前も、何をしている人なのか。 「しちゃえばいいのに」 チサちゃんはのん気に言う。相変わらず、肩からビニールの水着入れをぷらぷらさせながら。 道路の向こうはゆらゆらと揺れて見えて、駐車場のフェンス越しに黄色い向日葵が咲いていて。 ふと、首にかけられていた笛を思い出した。 □ お盆はおじいちゃんちに帰った。もちろんお盆の間はプールはおやすみ。 「夏の友」はまだ終わらないけれど、漢字の書き取りプリントと算数のドリルは仕上げた。 あとは読書感想文、31日までの日記。工作。毎年同じように残る苦手な宿題。 そして、何も変わらないまま夏が逝く。 お盆が過ぎたら、プールは終わってしまった。 このまま、きっと冬がきてプールはみどり色に濁って、茶色い葉っぱが浮かぶようになる。 □ 工作の宿題のために、ボンドを買おうと自転車を走らせていた。 小学校裏にある小さな文房具屋。日曜日は閉まってしまうけれど、今日は水曜日。 夏休み中だけど、多分大丈夫。あいてるはず。 近道をしようと、プール脇の細い道を通る。 幼稚園とプールの間の、細い細い道。自転車1台が通るのがやっとの。 「あれ」 「おお」 まるで狙ったみたいだなあ、とその人が笑う。 もう頬は赤くない。ただ、こんがりときつね色にキレイに焼けた肌があるだけだ。 「どうしたの?」 「いや、最後にプールの片付けっていうか、そういうの」 「ふーん」 「お前は?」 「ボンドを買いにきた。工作で作るやつ」 「へえ」 工作か、懐かしいな。 薄い唇がゆっくりと動くのをじっと見つめていた。 あの唇に触れたら、どんな感じなんだろう。 水みたいにはね返されてしまうんだろうか。 水みたいに受け入れながらも、最後は押し出されてしまうんだろうか。 その場に自転車を止め、フェンスをよじ登った。 そろそろ日が翳り始めている。 文房具屋さんはもう閉まってしまうだろう。だけどそんなこと関係なかった。 いつもと同じように白いTシャツを着た人の隣にいってみたかった。 「どした」 「別に。・・・もう泳げないね」 「そうだな。もう水が汚くなり始めてるな」 「ねえ、聞いていい?」 「何?」 「・・・名前、何ていうの?」 それは、私にとって告白と同じだった。 名前も知らないずっとずっと年上の人。 もっともっと近くに行きたくて。 夕方の風がはたはたと白いTシャツを揺らしていった。 永遠にも思える長い、でも多分ほんの一瞬。 「健太郎」 薄い唇が動いた。聞きたくてたまらなかった名前がすうっと落ちてくる。 「健太郎っていうんだ」 「ああ」 「あたしはサヤだよ。牧野沙耶」 「知ってる」 「何で!?」 「カマボコ板」 「あー・・・」 何となくおかしくて、くすくす笑ってしまった。 何だ。知ってたのか。 恥ずかしいような嬉しいようなくすぐったい気分。 「じゃあ、健太郎は何してる人?夏はもう終わるよ?」 いつまでもプールの監視員じゃないんでしょう? 質問を視線に乗せて、尋ねてみる。 「内緒」 「内緒って。つまんない。教えてよ」 「ダメ」 「・・・・・」 「決まりなんだ。この仕事入ったときの。」 「そうなの?」 「うん」 「じゃあ仕方ないね」 「ごめんな」 「いいよ」 仕方ない。「内緒」って言われたら。それ以上聞けない。 だだをこねるなんて、子供の手は使えない、使いたくない。こんな場合は。 人を好きだっていう気持ちに年齢は関係ないし。それはきっとこんな場合にも。 結局はそういうことだ。教えてもらえない。 「ばいばい、またね」 自転車に戻ろうと、フェンスに手をかけた。 よじ登ってきたときと違って、フェンスはもうひんやりとしていた。 「おう、またな」 またなっていつ? 聞いてみたい気持ちを押さえる。 健太郎が手を振って、私も手を振りかえした。いつもと同じように。 プールから帰る私を見送ってくれるその姿。 でも、今日はちょっとだけ違った。 「沙耶」 ふいに名前を呼ばれてどきりとした。 「何?」 「俺さぁ、きょういくがくぶ、ってとこに通ってんだ。 ・・・だから『またな』。いつかわかんないけど。会えるかどうかもわかんないけど」 楽しかったよ、この夏。 健太郎の目がそう言っている。 うん、私も楽しかったよ。 一緒に水の中には入れなかったけど。 えいっ、とフェンスを乗り越えた。 エメラルドグリーンに塗られたフェンス越しに、もう一度手を振った。 □ 「・・・じゃあ、牧野先生には1−2を担当していただくということで。大丈夫、みんないい子たちばかりですよ」 眼鏡をかけた人の良さそうなおじさんから、いや教育実習の担当教諭「飯倉先生」から日誌を手渡された。 黒の表紙のそれには「教育実習日誌」と書かれてある。 GWはとっくに終わってしまって、もうすぐ鉛色の梅雨がやってくる。 この青空が最後の五月晴れになるかもしれない。 就職活動用兼教育実習用の黒スーツでは、もう暑いくらいだ。 とりあえず今日は初日だから仕方ない、我慢しよう。でも明日からはブラウスだけでもいいかな。 ・・・実習にふさわしいようなブラウスって他にあったっけ。 クローゼットを頭の中でサーチしてみたけれど、どうも思い浮かばない。 Tシャツとか、ジーンズとか、そんな女らしくない服ばかりだ。 まあいいか、何とかなるだろう。 もうすぐ、夏がやってくる。 ぺたぺたと来客用のスリッパで廊下を歩く。 「牧野先生はこの小学校の出身なんですよね」 「ええ。出身校なので・・・実習に来させていただきました」 飯倉先生と会話をしながら、視線は窓の外へ向かっていた。 西校舎と南校舎に挟まれた形の、水色のプール。 「ああ、もうすぐプールが始まりますからね・・・。先日掃除したばかりなんですよ」 「そうですか」 健太郎の言っていた「きょういくがくぶ」とやらに、私も進んでしまった。 そして、ここに立っている。 「1年生は5クラスあって、全員で200名くらいですかね・・・」 飯倉先生が廊下の角を曲がろうとした、そのとき。 小さい物体がどんっと、ぶつかってきた。 「こら、廊下は走らないようにっていつも言ってるだろう?」 飯倉先生がぶつかってきた男の子に向かって、やさしく諭す。 「ごめんなさーい」 ぶつかってきたのは、私が受け持つクラスの子ではないらしい。 胸につけられた名札には「1−3」と書いてあった。 「ああ、飯倉先生すみません。大丈夫でしたか。・・・ほら、席ついとけよ」 子供を追いかけてきたらしいその声を聞いて、きゅう、と胸が痛くなった。 『またな』 何年も前に忘れたはずの懐かしい記憶が、ふと耳の奥でよみがえる。 「健太郎」、だ。間違いない。間違えるはずなんかない。 『・・・だから『またな』。いつかわかんないけど。会えるかどうかもわかんないけど』 よみがえる、記憶。 私は、きっとあの夏のように「こんにちは」って言えばいい。 そうしたら、彼もあのときのように。 夏の太陽に負けない笑顔を返してくれるはず。きっと。 |
まあ、女の子は年上のお兄さんに憧れる時期があるということで(笑) えーと、健太郎お兄さんはモデルになった人がいます。恋をしてたとか全然そういうのじゃありませんが。 名前も忘れてしまって、しかも10年以上会ってないけど、元気でいるんでしょうか。 事実、プールにいたときは何してる人か教えてくれなかったんですけど。 中学生になったとき偶然、部活の県大会で再会いたしまして。理科の先生になっておりました。 磯辺っちか?と思った友人諸氏、はずれです(爆)いくら先生って言ってもな(笑) っていうか、すごい時期外れですね。すいません・・・・。 >>Novels top |