『散髪屋』

7月最後の日曜日を、ゆっくり読書でもして過ごそうと ベッドを背もたれにしてクッションの上に腰を下ろした、そのとき。
ドカドカと階段を上る音がして、ノックもなしに部屋のドアがガチャリと開いた。

「・・・政史。昔から言ってるでしょ。部屋に入るときはノックしろって」
向かいに住む幼馴染の顔を軽くにらみつけ、わざとらしくため息をつきながら 嫌味ったらしく言ってやる。
まったく図体は大きくなってもこういうところはちっとも変わらないんだから。
「うるせーよ」
そんな小言ももう慣れた、とでも言わんばかりに、政史は大股で私の部屋を横切り ベランダへと続く窓を開けた。

「ねぇ、政史。一体手に何持ってるの?」
窓を開けた反対側の手を見て、私は驚いた。
政史の手には、2日前の新聞と小学生が図画工作で使うようなハサミが握られていたのだ。
持つところがオレンジ色の、懐かしいハサミ。
「髪、切ってくれ」
政史はベランダに出て、二日前の新聞をばさばさと広げ、その上にどっかりとあぐらをかいた。
私の家のベランダは、妙に広い。
3畳ほどはあろうかというコンクリートのベランダの上一面にスノコが置いてある。
政史が座ると、スノコがぎしりと音を立てた。

「え?ちょっと髪切ってくれって、それってどういう・・・」
「切ってくれって言ってんだよ」
「なんなのよ、一体」
「いいから。切れって」

訳がわからない。
でも、ぎゅっと唇を真一文字に引き結んでいる政史の顔は怖いくらいで。
何かをこらえているいるような、そんな表情だったから。

「・・・わかった。タオル持ってくるから。ちょっと待ってて」
「おう」
私は、タオルを持ってくるために、お風呂場に向かった。


タオルを2枚ほど持ってあがると、政史はさっきと同じ姿勢で座っていた。
「いいよなぁ。オマエんちのベランダって」
私が後ろに立ったのがわかったのか、そんなことを話し掛けてくる。
「いいでしょ。ウチって古いけど、このベランダは好き」
「ああ」
政史も私も、トタン屋根の向こうを見つめる。
ベランダの向こうには、梅雨が開けたばかりの青空がどこまでも広がっていた。
刷毛で描いたような白い雲がゆっくりと流れていく。
「いいよなぁ。ホントに」
「で?一体どうしたのよ。いきなり髪切るーって言い出すなんて」
私はタオルを手に取り、政史の首の周りにぐるりと巻いた。
「いてっ。オマエなぁ。力入れすぎだって」
「はいはい。ハサミ貸して」
まだブツブツと文句を言っている政史からハサミを受け取り、政史の髪をひと房握る。
政史の髪は、男にしては長いほうだ。
毛先は肩についていて、僅かにハネている。キレイな栗色に染まっているのは私が先月 このベランダでカラーリングしてやったため。
その政史の髪を指先でいじくった。
「でもさぁ。ホントにどうしたの?髪伸ばすんだって頑張ってたじゃない」

そう。
何と政史はあの「キムタク」を目指すため、髪を伸ばしていたのだ。


1年以上前の、桜が散ったばかりの頃だった。
政史が突然「俺、髪伸ばすから!」と、私の前で宣言したのは。

好きな子が、できたのだという。
好きな子が「キムタク」の大ファンなのだという。
たったそれだけの理由で、政史は髪を伸ばすことを決めた。
実際、きれいな顔立ちの政史は長髪も似合っていた。

政史が一目惚れした彼女のことは、私も知っていた。
ゆるくウェーブのかかった髪を背中で揺らした、小柄で可愛い子。
「くみちゃん」
彼女の名前を呼ぶたびに、政史の視線が甘く甘く溶けていくのを私は遠くから見ていた。

見ているしかなかった。

髪がまるで「キムタク」そっくりになる頃、二人は付き合い始めて。
20年近く続いた私の初恋も、誰にも知られずひっそりとしおれていくんだろう、 そう思っていたのに。
1年以上経った今でも政史は相変わらず私の心の中に棲みつづけている。
それもこれも、家が向かいなせいだ。
こいつが遠慮もなしにドカドカ上がりこんでくるせいだ。
ハタチをとっくに過ぎた今でも、まるでランドセルを背負っていた頃のように。
無防備な笑顔を見せるからだ。


悔しくて、掴んだままのひと房にハサミを入れた。
しゃくん、と音をたてて、それはあっさりと切れた。
はらりと新聞紙の上に落ちた茶色の髪が、政史にも見えたのだろう。
「ずいぶん思い切ったな」
小学生のときには決して見れなかった、憂いを含んだ顔をしてみせた。

その顔がとても痛々しく思えて、それから先を聞くのが何だか怖かったのに、 私の手と口は勝手に動いていく。
「切れって言ったのは、そっちでしょうが」
しゃくん。
「大体、頑張って伸ばしてた髪でしょう」
しゃくん。
「先月、忙しいのにカラーリングしてやったのは誰だと思ってるのよ?」
しゃくん。
一言一言、私が言葉を発するたびに、新聞紙の上に落ちていく髪。
それを政史は指で拾うと、ふっと息を吹きかけて、飛ばした。
「あー・・・、うん。だって、別れたから。くみちゃんと」

ハサミを持つ手が一瞬止まった。

「どうして?」
掠れてしまった声の理由に、政史が気が付かなければいいと思った。
「どうしてって?」
「何で別れちゃったの?」
「何でって・・・他に好きな人ができたって言われたら仕方ねえだろ」
後ろを振り返って、私をゆっくりと見つめたその顔は決して泣いてはいなかったけれど。

嘘つき。
仕方ないって表情じゃないよ。

「何でオマエが泣きそうな顔してんだよ」
ピン、とおでこを弾かれた。
「だ・・・って」

だって、私は政史がどれだけくみちゃんのことを好きだったか知っている。
誰よりも政史のことを知っているのは。
誰よりも政史のことを見てきたのは。
誰でもない、私だ。

「なんかさ、他にもう男いるみたいなんだよな。 で、『ゴメン』って泣くんだよ。ツライよなぁ。 泣かしてるのは他でもない、この俺だもん。・・・ツライわ。マジで」
「他に男がいるって、どういうことよ」
「そういうことだよ」
「・・・・・・・」
この男は。
どうして、彼女が離れていったことよりも、彼女を泣かせてしまったことを 悔やんでいるんだろう。
「人が良すぎるのもほどがあるのよ」
腹がたって、勢いに任せてハサミを動かした。
ぱさりぱさりと髪が落ちていく。
「そうかもなぁ。やっぱバカだよなぁ。でも、くみちゃんには幸せでいて欲しいんだわ。 くみちゃんが幸せでいるなら、それでいいよ」
「・・・ほんと、バカ」
なじるように呟いた私の言葉に政史は、あはは、と笑った。
フラれたから髪を切るなんて少女漫画みたいだよなぁ、と。
そして残っている髪を、つまんでみせた。
「とにかく。もうこんな髪は要らないんだ」
「わかった。思い切り切ったげる」
「おう」


しゃくん。
しゃくん。
しゃくん。
ハサミに合わせて、髪がどんどん落ちていく。
くみちゃんのためだけに伸ばした、髪が。
季節を重ねるごとに伸びていく髪。
彼女への思いを見せ付けられるようで、風がその髪をふわりと揺らすたびに 何度も何度も泣きたくなった。
そんな自分も、切り落ちてしまえばいいのに。

「・・・なんでオマエが泣いてんだ」
不思議そうに私を見上げる政史の視線で我に返った。
私の涙をぬぐおうとして、政史の指が、頬をなでていく。
「政史の代わりに泣いてあげてるの」
「何だそりゃ」
くっ、と喉を鳴らして、苦笑する政史の瞳はちっとも濡れていない。
頬に触れた指づたいに、涙がつうっと落ちていった。

どうしてなんだろう。
こんなにも近くにいるのに。
どうしてこんなにも遠いんだろう、この人は。
髪を切り落としてみてもダメなんだ。
今触れているこの髪も、指も体温も肌の感触も、私を心配そうに見上げる黒い瞳も。
私のものでは、なく。
彼女を想って、涙も出ないほど哀しんでいる。
きっとこの人を形作る細胞の一つ一つに至るまで。
まだ、彼女のものなんだ。
どんなに欲しくても手に入らない。
それがわかるから、涙があふれて止まらない。


しゃくん。
しゃくん。
あたりに、ハサミの音だけが響きわたる。
ベランダに敷かれた新聞紙の上は、政史の髪でいっぱいになっていく。
空は相変わらず、澄み渡ったような青。

そして。

「終わったよ」
「おう」

政史の髪は、耳が見えるくらい短くなった。
私は、政史の首に巻いたタオルを外して、座りっぱなしだった政史が立ち上がり、 伸びをしている間に、新聞紙をくるくると丸めた。
「ずいぶん短くしたんだな」
首のあたりが涼しいらしく、しきりとそこをさすっている。
「思いきり切ったげるって言ったでしょ」
「まあな」
うーん、とまた伸びをすると、政史はベランダの手すりに体を預けた。
「なぁ、今からコンビニにアイス買いに行かねぇ?」
「政史のおごりならいいよ」
「何言ってんだ。自分の分は自分で買え」
「そっちこそ何言ってんのよ。この間のカラーリングと今日の散髪。 私が一体どれだけ手間かけてやったと思ってんのよ。アイスの一つや二つじゃ 足りないくらいよ」
「あー、ハイハイ。わかりましたよ。・・・ったく。行くぞ」
「うん」
ベランダの手すりから離れた政史のあとを、慌てて追いかけた。
髪の短い、その後姿。

------ 神様。
どうか、政史の気持ちが少しでも軽くなりますように。
せめて、切り落とした髪のぶんだけでも。


遠くに蝉の声が聞えた。
今日はもっと暑くなる。
一緒にコンビニに行こう。
おいしいアイスを食べよう。

ほんのちょっとの幸せから始めてみよう。
泣きたくなったら。
泣けるようになったそのときは、ずっとそばにいてあげるから。



テーマは「片思い」。書き上げましたよ、Tさん(笑)

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