『熊本チャリ』


そのひとは、やたらと大きなカゴの自転車に乗っていた。
自転車のカゴに基準なんてあるのかどうかよく知らない。
でも、私が知っているいわゆる「よく見るカゴ」っていうのは 底面よりも側面のほうが、大きくできている。
それが、彼のは逆だった。
底面が、本当に大きくて。
------真っ黒な学生カバンがそのまますっぽりと入ってしまいそうなくらい大きくて。
そのかわりなのか、側面はものすごく低い。
あれじゃあカゴから荷物が落ちてしまわないのだろうかなんて余計な心配までしてしまう。
当然のように大学構内の自転車置き場で、そのカゴはすごく目立っていて。
そのひとと知り合うより先に、私はそのカゴと「ご対面」を済ませてしまっていた。

「あー、そりゃまあ熊本チャリですから」
サークルの新歓コンパの席で、彼はそう言った。
熊本チャリ、ですか。
「うん、ほら、俺のチャリのカゴってやたらとでっかいでしょ」
うん、でかいね。
「ああいうのを熊本チャリって言うんだわ」
へえー。

そのときはお酒が入っていたこともあって、適当に話を聞いていたのだけれど。
あれ以来、サークルハウスの前に彼の自転車がとまっているのを見ると、 ふんわりとした気持ちになった。

本当に大きなカゴだと、サークルの仲間と一緒にからかうと。
私が使う言葉とは少し違うイントネーションで
「そりゃあ、ユキさんたちから見ればびっくりするだろうけど! 俺が住んでたとこでは普通だったんだから!!」
とこっちが苦笑してしまうくらいムキになって反論していた。


そんな彼との思い出は本当に少ない。

学部が違ったせいもあるだろうし、家からの援助をあまり受けてない彼は、 バイトに忙しくしているらしく、籍を置いているとはいえ、めったにサークルに顔を出さなかったからだ。

ただ、私のアパートがバイトへの通り道になるらしく。
夕日を背に受けて、線路沿いの道を「熊本チャリ」で疾走する彼の姿をよく見かけた。


そうして、あっという間に------本当にあっというまに、大学4年間が過ぎ去ろうとしていた。


その日は、朝から雲っていた。
雪になるかもなあ、なんて思いながらも、その日どうしても手に入れたい本があった私は 駅前の本屋に出かけた。
買い物を済ませ本屋を出ると、案の定空から白いものがちらほらと舞い降りてきている。

「あっちゃー」
なんて呟いてみたけれど、心のどこかで喜んでいる自分がいた。
『ユキ』なんて名前なだけあって、冬生まれな私は、雪が好きだったりする。
寒さも、雪が降っていれば半減するような気がする。
学校からの帰りなのか、小学生たちが「雪だー」と騒ぎながら道端を通りすぎていった。

だから、彼に気がつくのもほんの少し、遅れてしまった。
子供たちの迷惑にならないように、自転車を横に移動させているその姿。

「あー・・・」
思わず出てしまった声で、彼が後ろを振り返った。
「ああ」
向こうも、こっちに気がついて会釈する。
「本屋に用事だった?」
「うん、新刊が出てたから」
「どんなの?」
「京極夏彦」
「・・・読んだことない」
眉と眉の間にしわを寄せる彼を見て、ふき出してしまった。
じゃあ今度貸したげるよ、と言いかけて口をつぐむ。
そうだ、もう今度はないかもしれないんだった。
大学4年の後期。
彼はもうすぐ地元に帰ってしまう。
実家の近くの信用金庫に就職が決まったと、サークルの誰かが言っていた。

「どうしたの?」
黙り込んでしまった私を心配したのか、彼が真っ直ぐにこちらを見つめてきた。

「あー、いや。うん。何でもない」
「そう?あ、俺、今バイトの帰りなんだけど。良かったら荷物のせる?」
「・・・そのカゴに?」
「そう、このカゴに」
自慢げに、ふふふ、と笑う彼の顔が、とても好きだと思った。

いいかもしれない。
ありがとう、とお礼を言って、肩から下げたトートバッグを乗せてもらった。

それから、他愛もない話をしながら道を歩いた。
サークルの誰と誰が付き合っていたとか。
教養科目の教授が実はヅラだったとか。
まったく知らない人が聞けば全然面白くない話なんだろうけれど。
もうすぐ卒業するということもあったのか、大学生活を妙に懐かしみながら二人でケラケラ笑いながら道をあるいた。

別れたくないなあ、なんて思っていたのは私だけだったんだろうか。
気持ちを言ってしまおうか、なんてことまで思ってしまったのは。
雪が降っていたせいなんだろうか。

「じゃあ、ここで」
「うん」
「次会うのは、卒業式かもなあ」
俺、就職先に顔出さなきゃいけないから。もう地元帰るし。
彼がほんの少し、淋しそうな顔をした。
「まあまあ。卒業式のあとサークルの飲み会あるじゃん。あれには顔出すんでしょ?」
明るく言ってみる。
まあな、と、彼が鼻の横をぽりぽりとかいた。そしてぽつりと言葉を落とした。

「最後だしなあ」
「・・・・うん」

そんな顔しないで。

きっかけは、本当にひょんなことからだった。
自転車のカゴなんて言ったら、あなたは笑うかもね。
だけど、妙に切なく胸に残ってるんだよ。
一生懸命、自転車をこぐ姿。



本当に、喉元まで気持ちがこみ上げてきていた。苦しいくらいに。
舌の上に乗せてしまえば、すっと出てきていただろう、その言葉をこくりと飲み込む。
苦いよなあ。重いよなあ。
そう思いながら、飲み込んでしまう。
ふと自転車のあの大きなカゴに、二つの学生カバンが揺れている風景を見てしまったから。


地元に残してきた彼女がいるというのは、サークルのメンバー全員が知っているほど有名なことだった。
高校時代から付き合っているという、その彼女。
長期休暇は必ず、彼女のためにバイトを休んで里帰りをしていた。
そんな彼を知っていたから。

だから。
「卒業しても、遊びにおいで・・・また飲もうよ」
そんな言葉で誤魔化した。
「ああ」

じゃあね、と手を振った。
じゃあな、と手を振りかえされた。

あの雪の日以来、彼と、彼の「熊本チャリ」には会っていない。







ポン、という音とともに、シートベルト着用のランプがついた。
全日空463便。羽田発熊本行き。
窓からのぞく、どこまでも続く青い空と白い雲はもうすぐ遠くなる。

「まあ色々と準備が忙しいだろうけど、よろしく頼むよ」
私の左手薬指をちらりと見ながら、課長が言った。
わかりましたと頭を下げながら、心の中では舌を出していた。
ばかやろー、結局昇進に関わる接待があるからいけないだけじゃないか。
土日にかかる出張は、できるだけ避けたかった、この時期。
来週は、結納。
本当なら、今ごろは「彼」と二人で式場選びに頭を悩ませていたはずなのだ。
職場で出会った「彼」と。
それでも出張を引き受けてしまったのは、単に仕事だからと割り切ったからだけじゃない。

「熊本チャリ」を見てみたいと思った。
本当に、あの街には大きなカゴの自転車があふれているんだろうか。

確かめたら、確かめることができたら。

きっと言えなかった想いも、消えてしまう。
消すことができる。きっと。


機内のアナウンスが「まもなく熊本空港に着陸します」と知らせてくれる。
私は、手元の雑誌を、ぱたりと閉じた。



熊本のチャリは本当にカゴがでっかいです。
大学時代、熊本大学にサークルの面々で行ったんですけど(研究会で)
そりゃーもうアナタびっくりしましたさ。
・・・熊本の方で、ここを読んでらっしゃる人っているのかな(汗)
熊本チャリっていうのは、仲間内で呼んでた造語です。
今日、某所で「熊本チャリ」を見つけて喜んでしまって思いついた話(笑)
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