『雨月物語』 細い細い、絹糸のような雨が降る6月の夜だった。 私はベッドにごろりとだらしなく寝そべり、ただぼうっと天井を見上げていた。 あまりにも長い時間、そうしすぎていて、まるで自分のからだじゅうの水分が 抜け出てしまったように、喉も渇いていたし、肌もかさかさとしていた。 でも、動く気にはなれなかった。 一人暮らしのアパートは狭く、そして暗い。 ベランダごしに、しとしとと水滴の音だけが響いている。 何も考えられなくて、そのまま布団の中にもぐりこんだ。 もぐりこんでも、多分安らかな眠りはやってこない。 きっとまた夢を見る。 暗闇の中に行きたい。 そうしたら、そうしたらきっと。 □ 遠くに、アパートの階段を上る音が聞えた。 安普請のこのアパートは、隣の生活音も外の色んな音が聞えてくる。 同じ階の住人が帰ってきたのかと思っていた。最初は。 でも。 でもあの聞きなれた足音は。 がばっと、布団を跳ね上げ、まるで転げるかのようにベッドから降りる。 6畳一間の狭い部屋が、とてつもなく広く感じて、すぐそこのはずの玄関のドアが 永遠に遠く思えた。 やっとのことで、震える手でドアを開くと。 そこには、ぽたぽたと髪の毛から冷たい雫を落とす涼が立っていた。 「涼・・・」 どうしても声が震えてしまうのを止められないまま、それでも彼の名前を知らず知らずのうちに 口にしてしまっていた。 あの日と同じTシャツ、スニーカー。 スニーカーは、先月私が誕生日プレゼントにあげたものだ。 「どうして・・・」 「傘、返しにきた」 私の問いに、涼は手に持った水色の傘を持ち上げて、答えた。 違うのに。 私が本当に聞きたいのはそんなことじゃなくて。 「ごめんな。遅くなって」 申し訳なさそうに微笑む涼は、いつもと変わらない。 瞳の奥の優しげな色も、すんなりと伸びた手足も。 あまりにもいつもと一緒の涼の様子に、私の姿がなんだかとても恥ずかしく思えた。 一つに束ねたままの髪、だらしなく皺の入ったブラウス。くまのできた顔。 思わず下を向いてしまう。 「・・・傘、なんて。良かったのに・・・」 やっと絞り出した声は、淡くかすれたものだった。 「うん。・・・でも雨降ってるし。明日も雨みたいだし。 傘がないと千枝、困るだろ?大学いけないじゃん」 だから、持ってきた。 また微笑んで。 微笑みながら、そっと傘を差し出す。 その緩ませた頬を見ていたら、どうしようもなくて、乾ききったと思っていた体から瞳から また涙がこぼれた。 「傘なんて・・・」 差し出された傘を受け取りながら、涼の手のあまりの冷たさに驚いた。 びくっと反応したのが彼にもわかったのだろう。 それでも涼は少し困ったように、悲しげに眉を寄せただけだった。 涼に傘を貸したのは、1週間前のことだった。 その日は、午後から雨の予報で。 午前中で講義が終わる私は、一応念のため持ってきていた傘を 校門の傍で会った涼に貸したのだ。 明日も雨らしいから、絶対返してよ。 なくさないでよ。気に入ってるんだから。 そんな言葉と一緒に。 わかったよ。絶対返すから。 片手を挙げて、講義棟の中に入っていった涼を見送った。 すんなりとした手足と、短く切ったばかりの髪をとても愛しく思いながら。 それが、涼を見た最期の姿だった。 それなのに、彼は何故かここに立っている。 私に傘を返すためだと言った。 ただ、それだけの為に、還ってきてくれたの? 「ごめんな」 ぽつり、とまた涼の髪から水滴が落ちた。 タオルを持ってこようなんてことも考えが及ばないほど、私の頭は麻痺したように ぼうっとしていた。 涼が目の前にいる。 ごめんな、の意味を正しく理解した私は慌ててかぶりを振った。 謝らないで。 謝ったら、あなたがいなくなったことが本当になってしまう。 謝らなくていいから、そばにいて。 涼の肩越しに、静かにそぼ降る雨の糸が見える。 思わず、彼のTシャツをつかんだ。 そのTシャツもしっとりと濡れてはいたけれど、でも手に伝わる感触はとてもしっかりしたもので。 ああ、このまま離さなければいいのかと錯覚してしまいそうになった。 ふ、とその手を引かれたかと思うと、気がつけば抱きしめられていた。 いつも暖かかったその胸が、哀しいほど冷たいのは、きっと雨で濡れているせいなんかじゃない。 私の体温で暖められたらいいのに。 そう思いながら、自分の腕をその背中に回す。 どうしようもなく冷たいその体を、とてつもなくいとおしく感じながら。 「絶対返すって、約束してたから」 耳元で囁くように言う涼の声を、しっかり受け止めようと思った。 「だから、返しにきてくれたの?」 「うん」 「・・・・ありがとね」 ありがとう。 傘を返しにきてくれて、ありがとう。 会いにきてくれて、ありがとう。 その言葉が、きっかけだったかのように、今まで頬に感じていた涼の体がすっと離れていく。 「俺、もう行かなきゃ」 「・・・・うん」 頷くしかなかった。 こうして傘を返しにきてくれた。 もう一度だけ、会うことができた。 それだけでいいとしないといけないのに。 それなのに、どうしてこんなに泣けて仕方ないんだろう。 「じゃあ、な。元気でな」 うん、とはもう、言えなかった。 言葉にならずにただ、こくこくと頷く。 「笑えよ」 「無理だよ」 「最後くらい笑えって」 「・・・・・・・・」 「泣くと、ブスになるから」 「もう・・・」 どうしようもなく。 両手でごしごしと目をこすり、無理やりではあったけれど、口の端をあげてみた。 細めた両目で、目の前に立つ愛しい人を見上げる。 彼も、いつもと同じ笑顔を、私に向けた。 □ 一体どれくらいの時間が流れたんだろう? 気がつけば、ドアは開いたままで、通路の向こうではまだ絹糸のような雨がしとしとと降り続いていた。 「夢・・・?」 ぺたり、とその場に座り込み呆然と呟く。 そっと、自分の頬に触れてみた。 しっとりと濡れたような感触。 そして。 そしてしっかりとくつ箱に立てかけられた水色のものは。 もう、ダメだった。 こらえきれずに、私はおえつをもらした。 天気予報どおり、鉛色の空から雨が降り出したのは、涼の講義が終わる直前だった。 私が貸した傘をさして、バイト先に向かっていた涼は。 雨でスリップして歩道に突っ込んできたトラックにはねられて。 連絡を受けて私が病院に着いたときには、すべての延命器具がその役目を終えていた。 あの日の後姿が何よりもいとおしかったのに。 あのまま、時が止まってしまえばよかったのに。 誰よりも大好きだった。 誰よりも傍にいたかった。 6月の雨は、まだ降り止まない。 |
『雨月物語』という江戸時代のお話があります。 重陽の節句(だったと思う)に会いましょうと約束をした友人が 無実の罪で捕らえられたあと、約束を守るために命を絶って現れたという哀しいお話です。 そこからヒントを得て、書きました。 あとはやっぱりMIDIです〜。刺激されまくりました。 >>Novels top |