いつあっちのブログがどうなるかわからないので、「直江酔っ払い話」を纏めてこっちに移動してみました。
まあ全くもって実のない話ですが、一応。
一体どれだけ呑まされたというのだろうか。酒を呑んでも呑まれるところなど見たこともなかった男が、少々おぼつかない足取りで帰ってきたのが小一時間程前。
玄関先で律儀にも「ただいま帰りました」と、か細い声で発せられた言葉すら、どこか呂律が怪しかった。酔い覚ましに風呂場で顔を洗うよう言ってみるも、そこに達する前に気が抜けたのか、壁に背を預けたままへたり込んでしまう始末。
初めての目の当たりにした男の醜態とも言える様子に、毒気を抜かれ暫し唖然としていた青年だったが、立てた両膝の間に首を垂らして寝入ろうとする男を目にして、我に返った。本格的に寝入られてしまっては、なす術がないと慌てて引き摺り起こし、寝室まで運ぶ。
そこそこ上背のある己より更に上回る、重ねて足取り怪しい長身の男を運ぶというのはかなりの重労働だ。後数歩でベットに辿り着くというところで、思わず気が抜けてしまったのか、青年は足を縺れさせてしまう。
仰向けになった彼に、覆いかぶさるように男も一緒に倒れこんだ。元々の体勢がずれていた為、全部受け止めることにはならなかったものの、肩に回されていた腕が首に食い込み、青年が潰れた悲鳴をあげる。普段ならそんな声に反応しないはずのない男が、ぴくりともせず彼を下敷きにしたまま枕に顔を埋めていた。
横にずれるように腕からすり抜けた青年は、押しつぶされていた喉元を摩りながら、安らかな寝息を立て始めた男の後頭部を恨みがまし気に一睨みする。しかしぴくりともしない背中に、諦め混じりの深い溜息を吐いた。
そういえば男はまだしっかりとスーツを着込んでいる。着替えさせなければ、見るからに高そうなそれが皺になってしまうだろう。
両肩から手を差し込み、スーツを引っ張る。これもまたあまりよいやり方ではないだろうなと思いつつも、他に方法がなく、ずり落とすように何とか上着だけは剥ぎ取った。多少手つきが乱暴なのは、先ほどの意趣返しか。
反対側に腕を引かれたのが痛かったらしく、男が小さく唸りながら寝返りを打った。
ふと見ると、首元が若干緩められていた。身なりに気を使うタイプの男にしては珍しいことだ。少し染まった頬から顎、鎖骨までのラインが妙な色気を発している。元々男の色気には事欠かない、端正な顔をしているものだから、相乗効果でそう思うのだろうか。
ここまでどうやって帰ってきたのか知らないが、どれだけの人間にこの姿を晒したのだろうかと思い至り、青年は何とも面白くない気分に見舞われる。暢気に寝ている顔に、冷水でも引っ掛けてやりたい気分を必死に押し殺した。
既に少々皺の入ったネクタイを引き抜き、シャツに手を掛けたところで青年の動作が止まった。
「シャツは…このままでいいか」
脱がせても、新たにパジャマを着せる自信はないしなと、誰ともなしに呟きながら、ベルトのバックルに手を伸ばす―――が、それもまた手が止まる。
「…………」
何だろうこの気恥ずかしさは、と。
別に何をしたという訳でもないし、それ以上のこともこの男相手にしてきたというのに、そう頭ではわかっているのに、手が止まる。
別にこの男の下着姿など、珍しいものではない。裸など、目でも手でも身体全部で覚えこんでしまっているというのに、何を今更。
「戸惑う方が何か恥ずかしくねぇか?!」
試しに口に出して言ってみるも、もっと羞恥が襲ってきた。青年の顔が見る見る朱に染まる。
意識しないようにすればするほど、意識してしまうのはどういう訳か。まるで自分が変態になったような罪悪感とこの羞恥は何なのか。
いっそ放置してしまえばいいだろうが、スーツは上下一式で型を成す。多分普段もし男がスーツ姿で寝ようとしたならば、青年は「上着(ネクタイ含)とズボンくらいは脱げ」と言うに違いない。
上着とタイだけ抜き取って、朝起きた男がそれに気付いたら何というだろうか。聡い男のことだ。今青年が感じてる葛藤すら見抜いてしまうやもしれない。その羞恥と今意識ない相手に感じる羞恥とでは、比べるまでもない……ような気がする。
自らに言い聞かせながら、今度こそバックルに手をかけた。あっさり外れたそれを抜き取り、一番上のボタンを外す。
ここまではまあいい。問題はここからだ。
目線を微妙にずらしつつ、ジッパーを摘んだ。指先にあたる感触など気にしてなるものか。気にしたら負けだ!とか思ったかどうだか、青年は勢いよく下ろした。
勿論色々と挟んでしまっては大変なので、少し浮かせながら、である。
意識のない身体が通常より重く感じるのはどういう訳か。どちらかというと細身の男だが、身長が高い分体重もそれなりにある。更には嫌味なほど長い両足が、余計道のりを困難にしているように思えた。まあこれで男が短足だったりしたら、「後は足の長さだけなんだけどね…」なんて失笑されるに違いない。それはそれで多分面白いとは思うが。
―――などと、青年は意識を別のところに持っていくのに必死だ。
「何でオレがこんなことを…」
眦を吊り上げて悪態をつくも、薄く頬を染めていては迫力に欠ける。
何とか膝まで下ろし、後は引き抜いてやろうと手を離した段になって、自分に注がれているありえない視線に漸く気付く。
「…っ!」
寝ているとばかり思っていた男が、薄目を開けて青年をぼんやりと見つめており、暫し見詰め合う。だが、我に返った青年は背後の壁まで勢いよく飛びずさった。といってもその距離1メートル程度であるが。
「お、お前、起きて…ッ!!」
羞恥と怒りで耳まで真っ赤に染め上げ何か言おうとするも、上手く言葉にならない。もたもたしてるとどんな恥ずかしいことを言われるかわからない。相手はそういう男だ。しかし予想反して、いつまで経っても男は青年の様子を無言で見つめているだけだった。
「?」
流石に様子がおかしいことに気付いた青年が、再びベットサイドへ歩み寄ると、視線だけが追ってくる。恐る恐る彼の名を呼びかけてみるも、反応はなかった。
寝ぼけてるのか、まだ酔っ払ってるのか、今一よくわからない。
腰を屈めて覗き込もうとした時だった。いつの間に上がっていたのか男の両手が、青年をがっしりと拘束し、引き寄せる。
「うわっ!」
予想もしなかった行動に、青年は抵抗する間もなく、あっさり男の胸に収まってしまった。
「こ、この酔っ払いが!離せ!」
いつもなら一度拘束されれば身動きも取れなくなるくらい力ある男だが、流石に今日はそうはいかなかったようだ。ぐっと腕を突っ張るだけでするりと腕は離れていった。
「……せん……」
立ち上がろうとした青年の耳を、か細い呟きが掠める。どうやらこの酔っ払いが何やら口にしたようだ。酔っ払いの戯言と流すには、物珍しさが勝った。
酔っ払いの面倒を焼くのは大変であると心底思ったが、実のところ初めて見る男の醜態に、少しばかりの嬉しさと興味を覚えていたのも確かで。
「おい、今何か言ったか?」
「……いません…せっかくの…そいですが、お…いてするにも…ょうは…ちません」
そう呟くと、男は再び目蓋を伏せてしまった。切れ切れではあったが、放たれた言葉は青年にしっかり伝わった。いっそ伝わらなくてもよかったのに。
「ば、ばばばばかじゃねぇの!おまえ!!」
再び真っ赤になった青年が、身体を起こしたと同時に目の前の頭に鉄槌を下す。力に合わせた鈍い音が室内に響き渡った。素面ならば呻いて蹲るくらいの威力だったにも係らず、男は一瞬眉をしかめただけで、規則正しい寝息をたて始めた。
「このやろう……」
酔っ払っても寝ぼけてても、始末に終えない男だということが嫌というほどよくわかった。消しきれぬ羞恥を感じながら、もう一回殴っておこうかと拳を持ち上げる。しかし青年は、打ち下ろそうとしていた拳を留め、何事か思いついたように自分が途中までずり下げたズボンを見下ろした。
「………ふっ…」
青年は自らの思いつきに、先ほどまでの不機嫌顔はどこへやら、実に嬉しそうな笑みを浮かべ、再び男のズボンへと手を伸ばした。
第二土曜である翌朝。
男の仕事も青年のバイトも本日は休みだった。だからこそ男もあそこまで飲まされて帰ってきたのだろうが。
元々酒には強い上、飲まれない許容範囲で酒を嗜む男があんなことになるまで飲まされたということは、大方相手は彼の二人の兄のどちらかと言ったところか。赤の他人相手にあそこまで気を抜いて飲むとも思えない。
彼ら兄弟にしても、普段飲まれるような飲み方はしないはずだが、何か余程良いことか悪いことかがあったのだろう。それは後で事情を聞くとして。酒も、不本意ながら週末恒例だった夜の営みもなかった久しぶりの休み前日のお陰で、青年は幾分爽やかな目覚めを味わうことができた。
別に夜の云々が嫌なわけではないし、勿論そういったことも大事だと思っているが、何しろそれに関して相手は年齢を省みない制限知らず、リミッターを振り切った男である。一週間分…とか言って張り切った獣に、毎度休みの日の半分を潰されれば、流石に青年の不満も募る。
今日は天気も良く、朝から一週間分溜まった洗濯物を全部干すこともでき、気分は爽快だった。
「さて。流石にそろそろ起きて来る頃だと思うんだけど…」
もう明るくなって随分経つ。先ほどから青年は家事をこなしつつも少し落ち着かない様子だ。
実は昨晩自らが男のズボンに施した「あること」の結果が気になって仕方ない。起きてからこちら、これから起こるであろう出来事をシュミレーションしては、顔をにやつかせている。
朝食というには遅い食事の準備を整えながら、意識は男が未だ寝入っているはずの隣の寝室へと向かっていた。準備が全部終わってなお起きてこないようなら声をかけてやろうと思いつつ、ヤカンをコンロに置いたところで、男が起き出す気配がする。
通常隣部屋とは言え、それなりに厚い壁を挟んでいる為、大きめの物音でもしない限りわかりようもないことなのだが、青年も男もその辺の人間とは違う特殊技能を持っていた。それを駆使して気配を探っているのである。まあ普段そのようなことする機会は滅多に無いし、こうして意図して使うか使わないかは別の話であるが。
青年は動きを止めて、昨晩自らが施した企みが首尾よく達成されるのを待ち望みつつ、息を呑んで寝室のドアを見つめた。すると、起き出した気配とそう間を置くことなく、重いものが床に落ちる鈍い音が響いてきた。
(よっしゃ!)
青年は小さなガッツポーズと共に、「むふふ」か「ぐふふ」か微妙な笑みを漏らし、ご機嫌な様子でガスコンロを点火した。
それから5分程経った頃だろうか、寝室のドアノブが、まるで扉の向こう側にいる男の気分を表すかのように、至極のろのろと開いた。
青年が目をやると、いつも本当に寝起きかと疑いたくなるような、こざっぱりとした姿をしている男からは考えられないボサボサの頭でのっそりと出てくる。しっかりと着替えは済ませているところが、彼なりの最後の砦か。まあ流石に高耶が昨晩施したあの格好では出て来れないだろう。
空いた片手で額を抑えているが、指の隙間から赤い額が覗いていた。それがどういう経緯で出来たものかほぼ推測可能な青年は、危うく噴出しそうになって視線をさ迷わせる。
「お、おはよう。やっと起きたか」
気を抜くと震えそうになる声を必死に宥めそう声をかけると、漸く男の顔が持ち上がった。青年はヤカンの様子を見るフリで、慌てて視線を逸らす。
(頭打ったんだな……くッ!できれば見たかった)
音がした段階で、何事かと駆け込んでもよかったのだが、流石にそこまで男の矜持を傷つけようとは思わない。湧き上がる興味を押し殺して耐えた。
「…はようございます…すいません、すっかり寝入ってしまってこんな時間に…」
二日酔いのせいか、多少声が掠れている。疲れた顔をしていることはあっても、疲れた様子を見せない男だから、本当に辛いのかもしれない。青年は自分がしたことはさておき、少しだけ心配になる。
「水飲むか?二日酔いの薬は?」
「ああ、じゃあお水だけ…二日酔いはそう酷くはないんですが…」
言い淀んだ男が、何かを探るように青年の顔を見つめていた。だが、受けた方はそ知らぬ顔で受け流す。
「とりあえず飲んどけば?すっげー酔っ払ってたからな、お前」
「……記憶を無くす程飲んだのは久しぶりです。エレベーターに乗り込んだあたりから怪しくて…」
思い出そうとしてるのか、男は眉間を指先で摘んだままそれだけ言うと黙り込んだ。
「へぇ、じゃあ飲んでる時は意識あったんだ」
「ええ、まあ。多少記憶が飛んでるところもありますが、兄と個室で飲んでたので問題はないと思います。後は少し足取りが怪しい程度で。エレベーターに乗り込んだ際、『家に着いた、貴方に漸く会える』と思って気を抜いたのがいけなかったみたいです」
「ふ~ん」
なるほど、安心したのか。家に着いたと。なるほど。
青年は、企みでも馬鹿にするでもない自然と浮かんだ柔らかい笑みを湛えて、ペットボトルから注いだ冷たいミネラルウォーターを差し出した。それを見た男は、少し不思議そうな様子で、それでも笑みを返してガラスコップを受け取る。
グラスの水を一息に飲み干した男は、漸く一心地ついたのか、暫し逡巡した後何とも神妙な顔で「ところで…」と、口火を切った。
「私、昨日…何かとんでもないことを…しました、か?」
「…………」
噴出さなかった自分を褒めてやりたい。青年はそう思いつつ、そ知らぬ顔で「何が?」と問い返した。
「いえ…してないならいいんです…昨日、あなたは自分の部屋で?」
「ああ、あんまり酒臭かったからな」
同居――というより、同棲とも言うべき共同生活だが、一応青年にも自分の部屋がある。そこには彼用のシングルベッドが用意されており、昨日は男を運んだ後そこで寝た。よっぽど切羽詰った事情でもない限り、滅多に使わせてもらえないのが現状だが。
「お前、自分の規格外の体格のこともちっと考えて飲めよな。別に飲むなとも酔っ払うなとも言わないけど、歩くのも覚束ねぇと、こっちが大変だ。運ぶオレの身にもなれ」
「面目ないです…あの、あなたは私を運んだだけですよね?」
「…どうした?」
青年は相手の戸惑いの原因など十二分に知りつつも、何食わぬ顔で問いかけた。
「い、いえ、何でもないです。本当にすいません」
いつも妙に堂々としたところある男が本当に恐縮してる姿を見て、流石に仏心が湧いてくる。そりゃあんな格好を、酔っていたとはいえ自ら選んだことを謎に思うだろう。頭まで打ったとなれば、情けない気分で一杯に違いない。
「……何だ?ズボンのベルトが妙な位置にでもはまってたか?」
問いかけた瞬間の男の顔といったら。
当分思い出しては笑いの種にできるくらい間抜けなものだった。その顔を見る前に、もう随分と青年の気は晴れていたものの、完全に帳消しにしてやってもいいと思わせる、実に珍しい表情だった。
頭はぼさぼさで、顔も少し腫れているように思う。重ねてこの間抜け面。
それを可愛いと本気で思う自分も救いようのない間抜けだが。
青年は今度こそ我慢せず噴出した。腹を抱え、涙すら浮かべて笑う彼を、男はまだ衝撃から抜け切らぬ顔で見つめている。
真相はこうだ。
昨晩「始末に終えない」台詞を告げられた後、青年は腹立ち紛れにズボンを途中までずり下げた状態のまま、そこをベルトで固定した。一番きつく締めても流石に幅が違うので少しゆるく、余裕ある状態だった。だが、だからこそ昨夜の酔いを引き摺った男はそれに気づかない。
朝起きて、いつもの調子でベッドから出ようとして、思うように動かぬ足に気付いた時には、ベッドから転がり落ちた後だった。
「み、見たかった…!お前が、転がり、落ちるところっ!」
笑いに息も切れ切れになりながらも告げられた言葉に、漸く男は真相に辿り着いたらしい。見る見る表情が雲っていった。
「見なくていいです…」
「ば、ばかっ!なっ情けない声、出すんじゃ、ねぇよっ」
か細い声を発した男の頬が、酒の名残と誤魔化しきれない朱を走らせている。どこぞの誰か(まれに複数)に見られたりしたら、間違いなく1、2年はネタにされそうな、青年でも滅多に見られぬ顔だ。
青年は、笑いを止めることなく男に歩み寄る。憮然とした顔をしているが、照れ隠しなのは歴然だった。最初に迷惑をかけたのは自分だという負い目のせいか、憤りの矛先をどこに向けたものか図りかねている。結局どうにもならず、ふいと顔を逸らした。
そんな子供のような対応に、漸く大笑いを納める。顔を上げ、目の前にあるいつもより気の抜けた、それでも変わらず整った横顔を、青年は嬉しそうに見つめた。その非常に幸せ一杯の顔を、視線を逸らしていた男が見ること叶わなかったのは、実に不運である。
「あなた……うっ!」
流石に何か一言くらいは言い返さないと気が済まないと、男は口を開きかけたが、結局叶わなかった。言葉が形を成す前にきつく頭を抱え込まれ、顔を青年の胸に押し付けた状態で固まる。
「ごめん。ちょっとやりすぎた」
謝罪の言葉が紡がれる。だが、笑い含みでは誠意に欠ける。そんなこと彼もわかってるのだろうが、どうにも止まらない様子だ。
謝罪の言葉は心を凪ぐことの方が多いが、まれに、向けられることによって「自分の憤りは正しい」「怒っていいのだ」という免罪符にもなる。男にしてみれば今、後者の意味合い強かった。怒るというより、拗ねると言った方が、ここでは正しいかもしれない。
男はスキンシップが大好物だ。勿論彼相手限定で――だが。青年の方も決して嫌いではないと思うが、羞恥が勝るのか、普段中々素直に腕を回しては来てくれない。
折角「彼の方からの歩み寄り」という美味しい状態にあるにも関わらず、今回ばかりは背中に腕を回す気になれなかった。
そんな男の心境がわかっているのかいないのか、青年は子供をあやす様に彼の背中を撫でている。この状況でそんなことをされたら、余計拗ねたくなるのが不思議なところだ。
「どこ打った?」
「……………」
「すげー音してたからな…なあ、どこ打ったんだ?」
答えが返らないことを気にした風もなく、男の顔を少し身体を離して覗き込む。それが癪に障って男が更に黙り込んでいると、すっと青年の手が持ち上がった。
「ここ、赤くなってる」
髪を掻き揚げ、額にそっと触れた時点で漸く、男の視線が青年へと向けられた。自分の方へ向いた顔を両手で挟みこみ、青年は赤くなった部分へ唇を落とす。
いつもならちょっとした事で憮然と頬を染める側である彼の積極的な行動に、された方が逆に戸惑った。
「た、たか…」
「他には?」
「え?」
「他にはどこが痛い?」
落ちたとき打ったのは額だけだった。まあ確かに身体を支えようとした膝も床に当たったが、頭から落ちた為、そちらは打ったという程でもない。青年だってそんなことはきっとわかっているはずだ。
「ああ、鼻も打ったか。高いからな」
そうして同じように口づけられ、男は固まる。自分をいつもと逆の高い位置から見下ろす青年の瞳は、横から差し込む爽やかな光を取り込み揺れていた。
すっと唇を撫でられ、
「ここも赤いけどどうした?」
と問う青年の何と妖艶なことか。男は思わず息を呑む。
そうして漸く彼の意図に辿り着き、小さく噴出した。機嫌を直す所ではない。結局自分は彼には叶わない。そう思うと笑いが込み上げてくる。勿論、決して悪い気分ではなかった。納まらぬ笑いに喉を鳴らしながら告げる。
「そこも打ったんです」
と。
青年は望む通りの答えに片眉を上げて微笑み、いつもなら「朝っぱらから」と、彼自身が大激怒するような濃厚な「治療」を施した。
誤魔化されてあげますよ。
こんな治療を用意して下さってるなら、たまには悪戯もいいですね。
毎度だと私の身体が持ちませんが。
男が敢えて作った憮然面でそう言うと、青年はまた楽しそうに笑い、今度は玄関に放置すると宣言した。
きっと青年はそんなことはしないに違いない。
「この酔っ払いが!」とか何とか言いながらも、滅多に見れない姿を見せる男をしっかり検分しつつ介抱する。
しっかり意趣返しも用意して。
そこで出来た「傷」は、彼が「治療」すればいいのだから。