JUDAH
25
石造りの回廊の中央に敷かれた真紅の布上を、ヒュンケルは独り奥へと進んだ。
先にヒュンケルを呼びにきたミストバーンは、ふといなくなったまま姿を見せない。そういったときは謁見の間ではなく、さらに宮殿の奥にあるバーンの私室の一つに行くことが何時の間にか恒例になっていた。
この宮殿……もっとも内部から出ることのないヒュンケルには、城も宮殿も街も区別のつけようがないのだがミストバーンの言葉に習えば……宮殿は完全にバーンの魔力下にあるらしく、奥へと進みさえすれば自然と主のもとへ辿り着ける。
ただしバーンの意思に沿わねば、そこへ続く回廊にすら踏み入ることはできない。
この宮殿が、魔王軍本隊とは区切られた空間であることは確かだったが、本拠地を別にしているのか、あるいはひとつところで仕切られた空間なのかすらヒュンケルには特定しがたい。
ミストバーンに命を拾われ、意識のない間にこの宮殿に連れられてから7年余り。
ヒュンケルは自らの意思で自由に宮殿の外に出たことが無い。
バーンの庇護の檻で、何もかも不自由無く与えられ、ミストバーンに暗黒の力を教授される。そんな日々を送っていた。
今や、暗黒闘気の使い手としても、剣士としても、筆頭格にある。
しかし、バーンはいまだヒュンケルの存在を魔王軍の中では明らかにしていなかった。
ヒュンケルが「人間」であるという事も理由であったろう。旧魔王軍の元で育てられたことを考慮にいれても、人間である事実が引き起こす波紋は容易に想像できる。
だが逆にいえば、それだけのリスクを差し引いてもまだヒュンケルを軍団長に据えようとするバーンの真意は、ヒュンケル自身にも測り難かった。
程無く視界が開けて、薄明りに満たされた部屋へと入った。
紫紺の幕が幾重にも波打ち、床にも豪奮な布や毛皮が敷きつめられていてる。
可能な限り物のない部屋を好むヒュンケルは、いつも一瞬足を踏み入れるのをためらってしまう。
「ヒュンケル」
呼ばれて主の元へ歩み寄ると、もう肌に馴染んだ、湿った空気が体を包んだ。
しっとりとしてはいるが不快感はない。部屋は幾つもあるようだがいヒュンケルの導かれる部屋はいつもここだった。
バーンの傍らの一段低い場所に、姿勢をくずして座る。
仮にも主に対して、こんな立ち居振る舞いをするのは、当初抵抗を感じたものだが、長い時間繰り返される中で慣れてしまった。
「……血のにおいだな」
「返り血です」
簡潔に答えるヒュンケルに、バーンがいかにも楽しげに口角を歪める。
「良い答えだ……おもしろものを見せよう」
細く節くれ立った指が前をさす。
そこには、頭ほども大きさのある透明な球形の石があった。クリスタルとも違う、徴かに乳白色の光を含んでいる。
この私室に招かれる時はとくに何をするでもない。バーンはヒュンケルに、これといって何かを要求することもなかった。時には言葉すら掛けられない事もある。
ヒュンケルの方でも、修行に疲れてそのまま眠り込んでしまうこともしばしばだった。
ヒュンケルにはわざわざ呼び出すバーンの意図をはかりかねたが、それでも嫌ではなかった。
長く外界に出ていないヒュンケルにとって、時折この透明な石に、外の世界が照らし出されるのを眺めるのは興味深い。
「この者たちは?」
順々に映し出される男達を眺めたままの姿勢でヒュンケルが尋ねる。
バーンの答えが返ってくるまでに、見覚えのある顔を見つけて層をしかめた。あまりいい気分になれる顔ではない。
「ザボエラは垣問見たことがあるだろう」
「見たくはありませんが」
妙なもので、そういった輩とは遭遇するのだ。とはいっても、ザボエラの方ではヒュンケルを知っているわけではない。
この7年余り宮殿の外に出ることのないヒュンケルの、接触した人物は限られたものだ。
ザボエラはハドラーに伴われて一度謁見にきたことがある。
謁見の間には天幕が何重にか巡らされていて、直接バーンの姿を見ることはできない。
その天幕の影からヒュンケルは様子を眺めていたのだ。
「おまえには気入らなかったようだな」
「小賢しい……」
笑いを含んだバーンの言葉に、ヒュンケルがぼそりと眩いた。
ハドラーに媚びながら、陰ではなにかにつけ直接バーンにも取り入ろうと接触してくる。
直情型のヒュンケルには、そういったザボエラのもってまわった策謀は何より鼻についた。
「だがハドラーは気に入ったようだぞ」
言葉の意味を測りかねて、ヒュンケルは微かに首を傾げた。
「この者を余の軍団長候補とした旨、申し出おったわ」
驚いたように見やるヒュンケルを楽しげに眺めながら、再び石に像を映し出す。
「妖魔司教ザボエラ、獣王クロコダイン……他にも2名の地上魔族の名がきておるな。
「ミストバーンはすでに軍団長についておる。お前の不死騎団長就任も正体は伏せたままだが既にハドラーに申し伝えてある。これで6人揃うことになるが……」
「……以前バーン様がおっしゃられていた、是非にも軍団長につけたいという男は?」
「いまだ行方がつかめぬ」
バーンは黙り込んでしまったヒュンケルを咎めもせず眺め下ろした。
――― まったくおかしな生き物だ。
前線を離れて何百年か、魔族の前にすら滅多に出ないバーンが、ヒュンケルをこれ程側に置いたのは単なる気まぐれだった。
何も教えず、何も知らせず、それでもこれだけ近くに置けば自ずと識るところも出てくる。
実際、都合の悪い部分に触れられ、強い暗示で記憶を封じたこともある。
そんなリスクを踏まえても、側に置きたいと思うだけの魅力があった。強い生命力の放つ放埓なエネルギー。
四六時中側に置くわけではない。それだけに、見る度現れる変化に目を引かれる。ただでさえ人間の持ち得る時間の流れは早い。
魔族に生まれたものは何百年……あるいは千年と生きるものがいる。そんな立場から見れば、人間の寿命はあまりに短い。再生能力や魔力も比べ物にはならない。
ヒュンケルがその場に寄り掛かり、片足を立ててそこに頭をおちつけ目を閉じる。
真紅の血、光と闇とを内砲した矛盾だらけの器、あくなき闘浄心、憎しみと愛しみと……なにより溢れる熱い生気は小気味よい。
「バーンさま」
目を開いたヒュンケルが、暫く居住まいを正してバーンを見上げた。
口元には薄く笑みがひかれている。
「この頃いささか稽古不足なのです」
一瞬間を置いて、バーンの笑い声が響いた。
「それも一興よな……。よかろう、ミストバーンに手配させよう」
「ありがとうございます」
「いっさいは伏せたままにしておく。軍団長就任の件はしばらく留め置こう」
「御意」
冷たい風が頬をかすめてヒュンケルは伏せていた顔を上げた。
しわがれた指が頬をなぞる。とくに意識的でもない、それこそ足元に纏わる犬を手持ちぶたさに撫であやすような仕種だ。
「余の軍団長に必要なのは、強く優れた者。じゃが ……」
「愚かな弱者にはそれなりに使い道がある…」
「そう……良い答えだ。お前は飲み込みがよい。そして余の期待に添う成長ぶりを見せてくれる」
幾らかの緊張と、屈折した思いでヒュンケルは再び目を閉じた。
愛玩動物のようだと、内心自嘲気味に笑う。
バーンのような、他者を超越した存在の者にとって、自分など一個の人格としては見られていないのかもしれない、という確信に近い思いがある。
長い時間の中で主従という関係以上に、対等にはなり得ないことは幾度と無く思い知らされてきた。
一時、興昧を満たす嗜好晶なのだ。
ならばそれでもいい。以前ミストバーンに、「命を救った以上おまえは私の所有物だ」と言われた。しいてはバーン様の物でもあると。
命の恩は命で返す、だが本当は、そんな大義名分に縛られているわけではなかった。
少なくともバーンは、ヒュンケルの存在する場や、戦いを与えてくれる。ヒュンケルにとってはそれで十分だった。
いつの間にか消えていたバーンの手の感触に気付いて目を開けると、奥の方にミストバーンの姿があった。
バーンが一言ふたこと何か指示を与えると、再び掻き消えるようにいなくなる。
そんな光景を見るとはなしに眺めながら横たわった。
バーンに呼ばれるまでモンスターを相手に格闘していた疲れが出てきたようだった。かといって頭は痛いほどくっきりと意識を繋いでいる。
静かに目を閉じると、目の奥がジンと痛んだ。
こんなとき思い浮かぶのはあの男だ。俺に憎しみと光を教えた、俺を世界へ連れ出した男。
そこまで考えて思わず苦笑が漏れた。
『こんな時に思い浮かぶ』のではない。いつもだ。いつも思い続けている。
何時か殺さねばならない男などに、これ程心を占められているのは苛立たしかったが、忘れていられる時間は短かった。
修行に体を酷使している間は何も考えずにいられたが、疲れた体に染み付いた血の匂いや、アンテッドやガイコツの死臭はいやおうなしにヒュンケルを過去に引き戻した。
それは忌まわしい過去でもあったが、ヒュンケルにとって最後に帰りつくなつかしい故郷でもあった。
あいつを俺の中から消さない限り、俺はこれ以上前へ進めない。どこへもいけない。
何時になったらこの僧しみに終止符が打てるのか、焦る気持ちもないではない。
それでもヒュンケルはこの7年間、その事を自ら口にしたことはない。
初めてあったときバーンは、総て自分に任せるように言った。そのせいもある。
だがその一言で7年も黙していられる自分にどこか責める気持ちもあった。
自分の抱く憎しみ、今ある立場、どこを向いても出口は見当たらない。
何時からかヒュンケルは、どんなに疲れていても、近くに気配を感じると眠りを得られなくなっていた。
周りすべてを拒絶し、鋭くとがった牙を向ける手負いの獣のように。
どんなに肉体を鍛えようと、人間であることからは逃れられない。眠りと、陽の光りから隔てられたヒュンケルは、ゆるやかに弱ってきていた。
それでもなおレベルを増し続ける現状は、あまりにも不自然だ。
「……そろそろ時かも知れぬな」
バーンの魔力に助けられ、深い眠りに就いたヒュンケルを眺めてつぶやいた。
ヒュンケルがこの部屋を訪れるとき、しばしば眠り込んでしまうのは偶然ではなかった。この部屋はいわばヒュンケルのために整えられた、ゆりかごのような場所だ。
だがそれももう限界かもしれない。
肉体的にも、精神的にも、その場しのぎの手当てではやがて追いつかなくなる。
弓を引けるだけ引き絞るのはいいが、弦が切れてしまっては元も子もない。
だが、矢をつがえあやまたず標的を射るには、いまだ状況が充分とは言えない。
ハドラーの完全な復活には、まだ5、6年近くはかかるだろう。時折目覚めては、新生魔王軍の編成にあたっているためだ。軍団長もそろってはいない。
「ここに辿り着くまで、幾百年かかったことか」
静かに目を閉じると、バーンは微かに笑った。
「我も老いたわ……」
それから暫くしてヒュンケルはミストバーンに一つの破片を手渡された。
バーン様からの賜り物。と言うそれを掌にのせ眺めながら、目だけで問い掛ける。
「情報体チップダ。魔カヤ魔法ヲ記憶スル。コノ富殿二張ラレタ結界ヲ抜ケル、バーン様ノ魔力卜、ルーラガ記憶サレテイル」
とたん緊張した面持ちでヒュンケルが手元の破片を凝視した。
「コレカラハ、外界デ、バーン様ノタメニ働クコトモ出テクル」
ヒュンケルはしばらく真意をうかがうようにミストバーンを見つめていたが、それ以上何も得られないことを感じてうなずいた。
「……わかった」
7年目にして初めて与えられた、かりそめの自由に、一体どんな狙いが含まれているのかは分からなかったが、状況が変化しつつある事は確かなようだ。
ヒュンケルは外界への鍵となる、ひとかけらのチップをにぎりしめた。
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