フェティッシュ

彼の知らない彼の娯楽


 
その日は久しぶりに余計な気を使わずに過ごした夜の名残で、ヒュンケルは上機嫌だった。

もっとも見た目はそんな気配もない。不機嫌でも上機嫌でもたいして変わらない顔つきをしている。
朝というには少々日が照り過ぎている頃合だが、前夜の夜更かしを考えればけして怠惰に睡眠をむさぼってたわけではない。
ベッドにはもうずいぶんとその存在に馴染んだ男の、静かな呼吸音が規則正しく感じられるようだった。
この男が存外デリケートで(本人が聞いたら「存外は余計だ」と合いの手も入れそうだ)、他人の気配があると眠りがしごく浅いのに気がついたのも、こんな関係になってからだ。 今は目覚める気配もない。
もっともヒュンケルの気配に馴染んだためなのか、それとも単なる肉体的負担によるものかは分からないが。 多分両方だろう。
その自分とはまた違った色合いの、柔らかな青みがかった髪を触りたい気もしたがそのままベッドから離れた。

アバンは今日は出仕はないが、ヒュンケルには仕事がある。
しかも今日から3日空ける予定だ。逆にアバンは今日から3日休暇で、昨夜仕事を終えるとやってきた。
かろうじて一夜引っかかっただけでもいい。しかも日程が逆なら無理も出来ないので、ラッキーな方だろう。
ズボンだけをひっかけて洗面に向かった。顔を洗い、口をすすぐとかみそりを手に取った。 ヒュンケルはあまり体毛が濃くないタチで、ヒゲも一晩くらいでは目立たない。
逆にそのせいで油断してほっていると死角に妙な生え方をして、しかも濃くは無いが長い。なまじ顔がきつめに整っているだけに間抜けと言うか、恥ずかしいことに妙にヒワイになるので気をつけるようにしている。
あまりナリに構うタチではなく髪など手ぐしで終了のタイプだが、以前房中にアバンに笑い出され、引っこ抜かれて、それなりにヘコんだ経緯がある。
どうにもあの男は昔からヒュンケルに打撃を与える才覚に溢れている。しかも間違い無くソレを喜んでいるふしがある。

―――今日はダメだな

当てたかみそりを水ですすぎながら先ほど離れたベッドを思った。

―――それとも寝ている間に剃ってしまうか

まあ、いくらなんでも起きてしまうか。ヒュンケルはテーブルへ移動して、その上にあったプラムを立ったままかじると、片手でカップに炭酸水を大瓶から移して飲んだ。
なんの味も無い、ただ気泡が喉を通り過ぎる慣れ親しんだ刺激の違和感。
アバンのヒゲをあて、髪を整えるのがヒュンケルのささやかな楽しみだ。
プライベートのアバンは寝汚い。公的な場面では想像しにくいが、ずぼらな部分がある。 実際役目があるときは、それこそ睡眠中から寝起きや生活習慣にまで、イメージどおりバリバリ進めるが、それが意識して保っているのだから大した精神力だった。
アバンの背面に立って鏡を見ながら石鹸をぬる、あるいは床の上に直接座り込み脚の間に座らせると、ヒュンケルの胸を背もたれがわり、膝を肘掛がわりに寄りかかるそのあごをおさえてそっとかみそりの刃を当てる。
アバンは濃くは無いが、揃って生えるので毎朝欠かさない。
頬、口元、あご、その裏側。
滑るように。
自分を殺したいと願っていた人間に、その柔らかい肉をさらすのはどんな心境だろうか。 かみそりの刃が、骨の無い柔らかい部分の弾力にわずかに肉を内部に押し返す瞬間、形容しがたい興奮がかすかに背骨を駆け上るのを意識する。
性的なものでもあり、葛藤のようでもある。
どうあれ本能的なものだ。
だがヒュンケルのなかにある、いささか発露に乏しい感情のなかでもっともせつなく、うつくしいものだ、と彼自身認めていた。
20年前に感じた殺意も、現在感じる微かな熱も誤解から生まれたものだけではなく、もっと根幹にあるものから生まれている。
そして彼は彼を殺さない。

数ミリの空間を侵さない、それが全て。

ヒュンケルは簡単な野菜のスープを作り、作り置きのピクルスの瓶を出した。
アバンが来ることが分かっていれば食材を買っておいたが、訪問が事前に分かることは稀で、今日の午後から数日入った仕事の為にほとんどかたずけてしまっていた。
オイルサーディンもあったか。
ヒュンケルは以前にアバンが持ちこんだ瓶詰を思い出し、それも取り出してテーブルに並べた。かろうじて昨日買ったパンとで、悪いが一食にはなるだろう。そのあとは、帰るなり買い物に行くなりどうとでも。
立ったままピーナッツバターを厚く塗ったパンを噛みながら、昨夜同じ唇に感じた肌の感触と、まだ引きずっていた髭剃りへの未練を思った。

しかたないキスで我慢しておこう。





気だるいしかし充足感を含んだ眠りのなかで、乾いた口内にすこしひいやりとした感触を得てアバンはのどを鳴らした。
粘ついた唾液を潤すようで無意識にしゃぶると、それはすぐに温まってしまって放り出す。
唇の先にふれた空気がゆれて、ああなんだ笑ってるのか、と覚醒しきれない頭のスミで思う。頭も梳いてほしい、毛繕いするみたいに。
いつもの性行為の始まりにする癖を、不器用な指で、できうるかぎりのやわらかいタッチで、まるで許しを請うように愛しいとささやくあの仕種が俺は嫌いじゃない。
けれど気配はそのまま揺れて遠ざかる。
35°ほど斜め下がった機嫌に眉をしかめて、うっすらと覚醒した。視界のすみにちらりと背中が遠ざかって消えたのが見えた。

誰だっけ。

こんなときいつもそう反芻する自分がいる。ヒュンケルだ。そうか、どのヒュンケルだ。
賢明にも口に出したことはないけれど。
そっと深く息を吐いて目を閉じる。そういえば今日から護衛の任務で3日間留守にするといってたっけ。
せっかく久しぶりに3日間の休日が取れたのに、自分たちはいつもこうだ。ヒュンケルはふだんたいして忙しい訳でも無いくせに(たぶん本人が聞いていたら眉を上げるくらいはするだろう)、俺が休みの時や訪ねる時になにかしら当たることが多い。
他に女でもいるんじゃぁあるまいな、と考えるのは一瞬で、そりゃないかとあくびをひとつする。そんな甲斐性があれば10歳も年上の男と、こう何年もひっついている訳がない。
男は……まあソッチの方がまだいくらか可能性はあるだろう。まあ、それもないけどね。
なにしろあの男は俺にぞっこんなのだ。もう二十数年来。
ちょっとお寒い気がしなくもないが、本人がその執着を本能で模擬ドライブさせて恋愛感情に発展させたここ10年ほどは、浮気をしたことはない。この場合の浮気というのは、この『アバン』意外に本気を作るということだが。
浮気なんかした手で触ろうものなら、生きていることを後悔したくなるような目にあわせてやるつもりでいる。
もっともそんな性質の男では無い。単純で直球だ、それでいて簡単では無い。鮮烈で妥協を許さない。

「俺といるときそれは使うな、不愉快だ」

はじめてそれを言われたのは、まだヒュンケルが子供だったころ、アバンの元に弟子入りしてまもなくのことだ。
姫が平和の象徴としたあのエピソードを知らない訳では無い。知っていて言う。

「これは私が本気で戦わなくていい世界である証なんですよ」

いかにも学者然としたフレームの太いダテ眼鏡。

「まやかしだ、俺を相手にするときは本気でいたほうがいい」

なんてことを言う子だ。だれも俺が定義した平和そのものに異議を唱えるものなどいなかった。この子供は俺の根っこの部分をひっくりかえそうとしているのだ。
別れ、再び再会しこんな関係になったとき、ヒュンケルは何も言わなかったが、会うたび無言で眼鏡を取り上げる。
一人称に普段使いなれた「私」というのを使うのにも、いい顔をしない。
むしろ「俺」ということなど、まず言葉にして使うことはプライベートであっても無かったと言うのに。
自分だけの特別な『俺』を欲しがる、ワガママな子供。
そんな部分をいまだ残しているあの男が嬉しい。
そう、嬉しいのだ。だから自分はヒュンケルが、誰にも許さない意識のテリトリーをまさぐるのを許す。肉体を侵すのをも許す。
それを快感に感じる自分を許すのだ。

アバンはひとときまどろむと、空腹感に催促されてやっと寝床から起きた。
ヒュンケルの気配はない。
台所に行くと、テーブルにパンといくつかの瓶と手鍋が置かれていた。
炭酸水の瓶もあったがアバンは目もくれず、棚を漁ってコーヒーフィルターと、ミルされた豆をとりだして湯を沸かした。
沸騰を待つ間に腰掛けて、テーブルの上にあったプラムを手に取った。
毒々しいくらいの赤い果肉がのぞく、かじりかけの実。
ヒュンケルの歯の跡がえぐれるように残っている。
アバンは笑ってその跡を舌先でなぞった。
ヒュンケルはああ見えて甘いものが好きだ。魔物に育てられている間あまり口にしなかったせいかもしれない。
そのくせ酒も水がわりなのが、あまり酒を飲まないアバンには気持ち悪いのだが。
プラムはアバンのお気に入りの果物だ。
毎回そのいかにも熟れすぎたような実の色と、甘い香りにつられてヒュンケルは口にするのだが、実際には独特の強い酸味があるためひとつ食べきらずに放りだす事がある。
その大きさもミソだ。大きなものだと気軽に食べようとしないし、小さなものや房の別れたものは残すまでもない。なにより、いかにも酸っぱそうでは最初から口にしない。
昨日もプラムを買ってきたのはアバンだ。
度々買い置かれるのを見ても、ヒュンケルはアバンが果物、ことプラムが好きなのだろうと思っている。だが実際はそれほど大好きというわけでもない。だが気に入りではある。
沸いた湯を注ぎながら舌先で果実をなぶり、残った実を少しずつ咀嚼する。
コーヒーが落ちきるのを待つあいだ、テーブルのピーナッツバターの瓶を眺めた。

この次ぎはキャラメルソースかメープルシロップを買ってやろうか。ああそれとも……

消費するスピードの遅いために、いささいか香りを欠いたコーヒーに口をつけた。

……帰ってくるまでヒゲを剃らずにいてやろうか。

刃物をもってうっとりする姿を思って笑いが漏れた。以前そっと気付かれないように薄目をあけて見たヒュンケルは、イク寸前のときによく似た溶けた目をしていた。
セックスの時のような微かな緊張と、命を狙われていたときのような微かな惧れがアバンにももたらされる。その他愛無い行為に紛らわせた時間は、それほど嫌いでも無い。
もっともアバンの目当ては、そのつぎに贖罪のようにことさらやさしく髪を梳く手の方だったが。まあいいだろう?  

 

Fanfiction MENU