しかたないキスで我慢しておこう。
気だるいしかし充足感を含んだ眠りのなかで、乾いた口内にすこしひいやりとした感触を得てアバンはのどを鳴らした。
粘ついた唾液を潤すようで無意識にしゃぶると、それはすぐに温まってしまって放り出す。
唇の先にふれた空気がゆれて、ああなんだ笑ってるのか、と覚醒しきれない頭のスミで思う。頭も梳いてほしい、毛繕いするみたいに。
いつもの性行為の始まりにする癖を、不器用な指で、できうるかぎりのやわらかいタッチで、まるで許しを請うように愛しいとささやくあの仕種が俺は嫌いじゃない。
けれど気配はそのまま揺れて遠ざかる。
35°ほど斜め下がった機嫌に眉をしかめて、うっすらと覚醒した。視界のすみにちらりと背中が遠ざかって消えたのが見えた。
誰だっけ。
こんなときいつもそう反芻する自分がいる。ヒュンケルだ。そうか、どのヒュンケルだ。
賢明にも口に出したことはないけれど。
そっと深く息を吐いて目を閉じる。そういえば今日から護衛の任務で3日間留守にするといってたっけ。
せっかく久しぶりに3日間の休日が取れたのに、自分たちはいつもこうだ。ヒュンケルはふだんたいして忙しい訳でも無いくせに(たぶん本人が聞いていたら眉を上げるくらいはするだろう)、俺が休みの時や訪ねる時になにかしら当たることが多い。
他に女でもいるんじゃぁあるまいな、と考えるのは一瞬で、そりゃないかとあくびをひとつする。そんな甲斐性があれば10歳も年上の男と、こう何年もひっついている訳がない。
男は……まあソッチの方がまだいくらか可能性はあるだろう。まあ、それもないけどね。
なにしろあの男は俺にぞっこんなのだ。もう二十数年来。
ちょっとお寒い気がしなくもないが、本人がその執着を本能で模擬ドライブさせて恋愛感情に発展させたここ10年ほどは、浮気をしたことはない。この場合の浮気というのは、この『アバン』意外に本気を作るということだが。
浮気なんかした手で触ろうものなら、生きていることを後悔したくなるような目にあわせてやるつもりでいる。
もっともそんな性質の男では無い。単純で直球だ、それでいて簡単では無い。鮮烈で妥協を許さない。
「俺といるときそれは使うな、不愉快だ」
はじめてそれを言われたのは、まだヒュンケルが子供だったころ、アバンの元に弟子入りしてまもなくのことだ。
姫が平和の象徴としたあのエピソードを知らない訳では無い。知っていて言う。
「これは私が本気で戦わなくていい世界である証なんですよ」
いかにも学者然としたフレームの太いダテ眼鏡。
「まやかしだ、俺を相手にするときは本気でいたほうがいい」
なんてことを言う子だ。だれも俺が定義した平和そのものに異議を唱えるものなどいなかった。この子供は俺の根っこの部分をひっくりかえそうとしているのだ。
別れ、再び再会しこんな関係になったとき、ヒュンケルは何も言わなかったが、会うたび無言で眼鏡を取り上げる。
一人称に普段使いなれた「私」というのを使うのにも、いい顔をしない。
むしろ「俺」ということなど、まず言葉にして使うことはプライベートであっても無かったと言うのに。
自分だけの特別な『俺』を欲しがる、ワガママな子供。
そんな部分をいまだ残しているあの男が嬉しい。
そう、嬉しいのだ。だから自分はヒュンケルが、誰にも許さない意識のテリトリーをまさぐるのを許す。肉体を侵すのをも許す。
それを快感に感じる自分を許すのだ。
アバンはひとときまどろむと、空腹感に催促されてやっと寝床から起きた。
ヒュンケルの気配はない。
台所に行くと、テーブルにパンといくつかの瓶と手鍋が置かれていた。
炭酸水の瓶もあったがアバンは目もくれず、棚を漁ってコーヒーフィルターと、ミルされた豆をとりだして湯を沸かした。
沸騰を待つ間に腰掛けて、テーブルの上にあったプラムを手に取った。
毒々しいくらいの赤い果肉がのぞく、かじりかけの実。
ヒュンケルの歯の跡がえぐれるように残っている。
アバンは笑ってその跡を舌先でなぞった。
ヒュンケルはああ見えて甘いものが好きだ。魔物に育てられている間あまり口にしなかったせいかもしれない。
そのくせ酒も水がわりなのが、あまり酒を飲まないアバンには気持ち悪いのだが。
プラムはアバンのお気に入りの果物だ。
毎回そのいかにも熟れすぎたような実の色と、甘い香りにつられてヒュンケルは口にするのだが、実際には独特の強い酸味があるためひとつ食べきらずに放りだす事がある。
その大きさもミソだ。大きなものだと気軽に食べようとしないし、小さなものや房の別れたものは残すまでもない。なにより、いかにも酸っぱそうでは最初から口にしない。
昨日もプラムを買ってきたのはアバンだ。
度々買い置かれるのを見ても、ヒュンケルはアバンが果物、ことプラムが好きなのだろうと思っている。だが実際はそれほど大好きというわけでもない。だが気に入りではある。
沸いた湯を注ぎながら舌先で果実をなぶり、残った実を少しずつ咀嚼する。
コーヒーが落ちきるのを待つあいだ、テーブルのピーナッツバターの瓶を眺めた。
この次ぎはキャラメルソースかメープルシロップを買ってやろうか。ああそれとも……
消費するスピードの遅いために、いささいか香りを欠いたコーヒーに口をつけた。
……帰ってくるまでヒゲを剃らずにいてやろうか。
刃物をもってうっとりする姿を思って笑いが漏れた。以前そっと気付かれないように薄目をあけて見たヒュンケルは、イク寸前のときによく似た溶けた目をしていた。
セックスの時のような微かな緊張と、命を狙われていたときのような微かな惧れがアバンにももたらされる。その他愛無い行為に紛らわせた時間は、それほど嫌いでも無い。
もっともアバンの目当ては、そのつぎに贖罪のようにことさらやさしく髪を梳く手の方だったが。まあいいだろう?