呪文と嘘

小さな掌に刃と祈り。彼と彼の。


 
ヒュンケルはかつて一度だけ呪文をアバンに習ったことがある。
たったひとつ、使えないとわかっていて覚えた呪文。

「ヒュンケル、魔法にもチャレンジしてみませんか?」

それはヒュンケルが、大地斬、海波斬とを完壁なまでに習得しながら、最後の空裂斬に踏み込めずにいた時だった。

「俺は剣土になれればいいのです。魔法使いにしたいなら別に弟子を取ればいいでしょう」
「いや、そうではなくてですね……」

間髪いれずに拒否されたアバンは、コホン、とひとつ咳をして引き止めた。ヒュンケルが一方的に会話にジ・エンドをつけたがるのはいつものこと。いちいち挫けていては、話は百年経ったところで進みはしない。
……私も結構鍛えられましたね。
ふと感慨におちいるアバンを取り残して、さっさと立ち去ろうとするヒュンケルに慌ててとりついた。

「一つのことを学ぶのに、それしか見ていなくてはいけないという 道理はありません。むしろ、視野がひろがって、自分の道で思いが けずプラスになることも多い」

じっ、とアバンを見上げる色彩に乏しい瞳。紫色が瞳孔のあたり からにじむように見えるだけで、澄んだ、と一言うよりも透明な印象 をのこすグレイアイズ。
ヒュンケルの授業態度は至って優等生だった。修行の間は、普段 の反抗的態度は極力押さえられている。
そうしてそんなヒュンケルを見ると、ついつい茶化したくなって しまうのはアバンの悪い癖で。

「もお、わたしなんか文武両道、武芸百般、才色兼備お料理プロ級 、おやあ…ヒュンケルどこいくんですかあ」

アバン自身は鍛えられたなどと言っているが、話が進まないのは ヒュンケルのせいばかりではないらしい。

「別に魔法でなくてもいいんですが、使えると便利ですし」
「…もう歴史を教えてもらってる」
「そうですね、地理も語学もお料理もなかなかのもんです」

そこで言葉をとぎらせてアバンはヒュンケルを見つめた。
ヒュンケルにも判っているのだ。空裂斬ができずに行き詰まった ヒュンケルに、負担をかけないかたちで、それでいて転換のきっか けになれるようなことを、アバンなりに提案してくれている。
だが ヒュンケルはもとより空裂斬についてはどうでもいいのだ。その威 力は認めているが、それを得るには志を変えねばならない。そして その志――アバンを倒すには、与えられたものをこなすだけでは 駄目だ。
やや暫くあって、ぼそぼそ返答するヒュンケルの声が聞こえた。

「……魔法は使いたくないのです」
「どうしてです?意外にフイツトするかもしれませんよ?」

アバンにいわれてヒュンケルが口ごもる。
あらためて考えたことはないのだが、魔法には昔から興味がなか った。父バルトスが剣土だったことにも影響されているのかもしれ ない。
そう言えば、以前にもグランドクルスという闘気系のわざをアバ ンはヒュンケルに教えようとしたが、拒否してしまった。ヒュンケ ル自身よく解らないが、……そう、歯止めが利かなくなる…ソン ナキガスル。
そこまで考えて、身震いした。

「ヒュンケル?」
「……実感がない」

ヒュンケルなりにあたりさわりのない返事のつもりだった。実際、 アバンは、あなたらしい、と苦笑して特に気にとめた様子もない。

「仕方ありませんね」
「…あ」

一瞬、取り残されるような感覚におちいり、アバンの名を呼びか けて声を飲み込んだ。振り返ったアバンが怪誘そうにヒュンケルを 見やる。その視線を感じて、ヒュンケルははげしく後悔した。
こいつは敵だ、そう自分に言い聞かせても、深い憎しみを、アバンの優 しさと時間とが浸蝕していくような気がする。

父さん…父さん…父さん……。

前に立っアバンを視線に捕らえたまま、ヒュンケルはいくども心 で強く呼んだ。

父さん、俺の心を側から放さないで…っ

「ヒュンケル」

太いわけではないが、深く暖かみのある声がそっと降ってくる。 アバンの手がヒュンケルの肩に置かれた。

「浄化の…」

次の瞬間、口をついてでた言葉にヒュンケル自身驚いた。アバン も同じような表情を浮かべている。それを見て、かえって心が落ち 着いた。

「死んでしまっているのに、この世界に想いを残して呪縛された魂 を、解く魔法はありますか」

アバンは静かにうなずくと、適当な場所に腰かけ、ヒュンケルの 手を取って傍らに座らせた。どんな気持ちで言ったのかと思うと、 真撃な目が痛々しかった。

「在りますが記録で見る限り、長い間つかった者はいません」
「伝わっていないのですか」
「いいえ、識ることはそう難しくはありませんが、使うにはとても難しい呪 文なのですよ」

アバンの言葉を一言も漏らすまいとするようにじっと聞き人って いる。どんなにかアバンを恨んでいるだろうに、修行の中では師と して敬意をはらうことを借しまない。そんな彼の潔さはアバンの好 きなところのひとつであった。
ヒュンケルをあの地底城から連れ出して一年半ほど。初めの一年 はカール王国の再建にかりだされて、修行に専念することはできな かった。ヒュンケルはなかなか剣の修行に入れず不機嫌きわまりな かったが、アバンから見れば返って良かったと思う。
ヒュンケルは 人間の世界を……というより地上をまるで知らなかったのだ。いく らなんでも多少は地上に出たことがあるだろうと思っていたが、や がて一度も出たことがないと判断せざるをえなかった。
ありふれた 木々や雨、流れていく雲、そんなものでさえヒュンケルの注意を引 くのはたやすかった。
こと、帰国のため港から海へ出たときの驚き よう。初めて乗った船の心許無い揺らめきに体をふるわせながら、 それでも甲板の縁にしがみついて波間を飽きずに眺めていた。
だからカールに留まっていた一年、公私にかかわらず、アバンは ヒュンケルをいつも連れて歩いた。ロカにはコブつき勇者やら、コ バン鮫などと散々からかわれたが、なぜか女性陣にはウケが良かっ た。
アバン自身、やはり初めは子供との同居生活に不安をおぼえてい たが、直ぐにそんなことは吹き飛んだ。ヒュンケルに言ったりした らそれこそ逆鱗ものだろうが、彼は赤ん坊のようなものだ。しかも 反応は赤ん坊よりもずっとダイレクトで、判りやすい。
養父バルト スの影響だろう、時折り見せる年に似合わぬ古風な言動にいたって は、こらえきれずに吹き山してしまって、たびたびヒュンケルに睨 まれていた。
そうしてヒュンケルの修行と、もっといろんなところを見せたい が為にカールを出て半年が経とうとしている。

「先生は知っているんですか」
「はい、ですが成功したことはありません」

これもヒュンケルなりのけじめのつもりらしい。
普段は、アバン と呼び捨てだが、授業の間は先生に格上げされる。もういい加 減慣れたことだが、呼ばれるほうにしてみればなんとも複雑な心持 ちである。
これだけ敵意をあらわにしているくせに、ヒュンケルは アバンに気付かれていないつもりでいるのだから、可愛いものだ。

「高位僧侶の呪文で、賢者の使う破邪系の呪文よりも難しい」

……そう、打ち払うよりも、かたくなになった心を解きほぐすこと のほうが、何倍も難しい。もしも……もしも生きている者に使える そんな魔法があったなら、どんなに苦労しても手に人れるのに。

「神の力をかりて、まずは死者と直接精神をつなぎますが、魔法な どによって傀儡にされてしまっているとむずかしい。そうでなくて も、死んでなお、地にとどまってしまった魂はかたくななのです… ここまでは解りますか?」

黙ってうなずくヒュンケルを見て、語を進める。話す合間あいま にうなずき、それに合わせて淡い銀髪が揺れる。
瞳もそうだが、生まれてわずかの後に薄暗い地底での生活を8年 あまりもしいられたためか、全体的に濃い色をヒュンケルは持たな い。
そのせいで地上に初めて連れ出したとき、暫くは太陽の光が彼 を傷つけた。地底城にあった松明などとは比べようのない光が、瞳 や肌を焼くのだ。慌てて自分のマントをヒュンケルの頭から掛けて、 手をひいて歩いた。マントを完全に離せたのは、二週問近く経って から。
一年半経った今も、あの時と2人は変わっていないのかもしれな い。
わずか15歳で人界をすくった勇者と、それを敵と狽うモンスタ ーに育てられた子供。何時崩れるとも知らない関係のなかで、戸惑 いながら、陰になっている足元だけを見ている子供の手をひいて導 かねばならない。
いったいどこまでいけるだろう……あのときの手の暖かさは、けっ して互いに偽りではないのに。この手を離したくない。

「この呪文は……」

ふたりで許される限り嘘をつき続けよう。何も気付かないふりをし て……だれも恨んでいないふりをして……。



もちろんヒュンケルはその呪文を使うことはできなかった。
空裂 斬も相変わらず進展はなかったが、アバンもそれ以上何も言わな かった。
アバンは、自分がつける稽古以外にも、ヒュンケルが隠れ て修行していることに気付いていた。気付かざるを得ないといって もいい。アバンも驚くほど、ヒュンケルの大地斬や海波斬は研ぎ澄 まされていった。
その言葉通り、ヒュンケルの太刀は鋭く、肉食獣 を思わせる。自分を飲み込もうとしているのだ、アバンはそう思っ た。アバン流という殻を喰い破って、より大きな力を得ようとして いる。

……私を殺すために

やはりそれはせつなく、アバンの胸を痛ませた。ヒュンケルが力を つければつけるほど、同じ強さで自分を憎み続けているのだ、そう 感じずにはいられなかった。
だが、一方で新鮮だった。今までこんな風に競うように、自分に 挑んできた者はいなかったから。
それにアバンは、ヒュンケルがあの呪文を唱え続けているのを知 っていた。眠る前に、そっと声をころして、祈るように。
ヒュンケ ル自体どうにかできると思っているわけではないだろう。だがアバ ンにはその優しさが愛しく思えた。それが自分に向けられることは ないのだと解っていても……。

「アバン……」

ヒュンケルが駆け寄ってくるのが見える。
少なくとも今はまだ、このちいさな手を自分はひいてゆける。

「ヒュンケル」

アバンは近付いてくる影に、大きく手を振った。
 

 

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