Fragile
生くる光、新しい決意、いつかのさよなら
「この谷を越えれば完全に魔界エリアだ」
ラーハルトは数歩後ろを歩くヒュンケルに声をかけた。
険しい岩肌と、荒涼とした砂地が見渡す限りの背後に展開している。2人が向かう眼前には、底を確認することが出来ないほどの谷が刻まれ、対岸には背後の風景とは対照的に、黒々とした森が広がっていた。
本当の夜の森をどれほどの人間が知るだろう。
息をつめたような気配を殺す、しかしあえぐように命の明滅する森の闇を。
その森の巨大なはずの木も、今はまだ爪の高さほどにしか目視できない。それほどの距離が谷の対岸まではあった。
もちろん橋があるわけもない。
それが魔界と人間界とを区切る、最後のボーダーラインだった。
現在ラーハルトとヒュンケルのいる位置も、人間界というには少々抵抗がある地帯だった。
2人は長い洞窟をくぐり、地下世界とも言えるほどの空間を数日旅し、開けた場所に出た。
足場も道もないに等しい岩間が続いたとは言え、機動力では並々ならぬ2人が数日をかけた距離だ。
そしてまるでトンネルを抜けたように夜空が現れ、荒涼とした大地が広がっていた。そこをまた数日。
そして2人は、洞窟を抜けて以来1度も夜明けをみていない。
改めてみれば、空には星のまたたきもない。
それは地上の人間が呼ぶ空とは違うものだった。
ただひどく月が大きく見えた。地上よりも。そして寒冷地でもないにもかかわらず、オーロラのような赤光が、色彩を変化させながらたなびいている。
感覚だけをたよりにすれば、地底へと降りてきたような認識だ。人間達のイメージからも魔界は地の底にあるとされている。
それはいくらかは本当で、いくらかは認識が不足なものだ。
現に月は"地上"よりも大きく接近して見えたが、地下世界に下りたのならそれは不自然なことだった。
洞窟と荒野とを緩衝地帯として、二つの異世界が双子のように接している――― そんなイメージが近いのかもしれない。
「このあたりで休息をとるか。そのあとドラゴンで谷を越えよう」
「……」
ラーハルトは常人ならば全力疾走と言ってもいい速さで進めていた足を緩めた。
魔界が近づくにつれ、ラーハルトは口数が気持ち増えていった。
空気がちがう。
ラーハルトは軽い高揚感と、開放感が体内から涌き出てくるのを自覚していた。
体内から、というよりは、血の巡る体中からと言った方がより正確かもしれない。
何度か訪れるたびに、ラーハルトは己の血の由来を身をもって思い知らされた。
普段あまり安定しない魔法も、魔界では比較的容易だ。もっとも魔法使いほどではないが。
そしていくらか意図して、怪訝そうな視線をヒュンケルにくれた。
ラーハルトとは逆に、ヒュンケルはほとんどしゃべらなくなっている。
――― やはり力ずくでも、地上へのこすべきだったか。
ダイの探索に魔界をはずすことはできない、という点で2人の意見は以前から一致していた。とはいえ、はじめから魔界を目指したわけではない。
いざ魔界へいくことに踏みきる時も、エイミの身の振りでひと悶着があった。
どこまでもヒュンケルと共にゆこうとするエイミと、国へ帰そうとするヒュンケル。
正直ラーハルトにとってはどうでもよいことで、単独で降りる方がよほどと思ってもいたが、なんの手がかりもない状態ではそれも思いとどまった。
五芒星を組み、気を交え、共鳴した魂と輝聖石というアイテム。
ダイの剣が持ち出せなかった以上、ダイの存在を感知できる、もっとも可能性のあるつながりといえる。
ただでさえラーハルトとダイのつながりは薄い。間にバランをはさんでいるためだ。ただしラーハルトの中には竜騎士の血がわずかながら融けている。もしもダイが竜騎士の力を使っているのなら、ラーハルトにも何かが感じ取れるかもしれない。
そういった双方の条件があって、2人は旅の同伴を決めたのだ。
しかし、段々と魔界が近づくにつれ、ヒュンケルの"気"は何かを耐えるような不安定なものになっていった。
それを間近で感じ取っていたラーハルトは、いくらかこの同伴を危ぶみ始めていた。
人間界のような安全な……危険といってもレベルからすれば大した事もない世界とは訳が違う。
ヒュンケルが自滅をするならそれまでのことだが、足手まといで己の身を危うくするようなことにもなりかねない。
ラーハルトは内心ヒュンケルに引導をつけて叩き返すか、それとも、"その時"になったら切り捨てる覚悟が自分にあるかを考えていた。
優先するのは父とも師とも仰いだ人の忘れ形見だ。それを常に忘れずにいられるか。
初めて……自分のガラにもなく……友情とも似た感情をもった人間だ。
失うことを惜しまないでいられるだろうか。
休息をとるのにいくらかでも都合のよいところを求めて、荒れた岩と砂埃ばかりの周囲を見渡した。せめて背中をあずける程度は。
もう50メートルほど先は崖だ。
洞窟をくぐるときには役に立たなかった、魔法の筒に放りこんである翼竜で飛び越えればいい。
「……ヒュンケル?」
ふと意識を同行者に戻すと、近い場所についてきていると思っていた姿は、崖のふちにたたずんでいる。
その視線はうかがい見ることも出来ない、谷の深淵を覆う闇へと注がれている。
魅入られているのではないかと疑うほどに、反応のないヒュンケルにラーハルトは舌打ちした。
「貴様そこから飛び降りたいなどと、うっとおしいことを愚考しているのではあるまいな」
「……」
「ヒュンケル!」
いくらかの"気"を込めてヒュンケルの意識をこちらへ向けさせようとすると、ようやくラーハルトの方へ振りかえった。
「お前……」
そして思わず息をのんだ。
「……そうか、お前が抑えていたのは"そっち"か」
普段はほとんど色味のない瞳に瞳孔ばかりが紫の、人間としてもいくらか珍しかったヒュンケルの目は、滲むような真紅に変化していた。むしろ赤眼はそれほど特異ではない。
魔界では。
「……心配しなくていい、別に意識がとぶようなことはない」
「どうだかな、十分この頃おかしかったが」
魔界独特の大気やプレッシャーに、恐怖心を抑えかねているのかとラーハルトは見ていたが、向き直ったヒュンケルはむしろ高揚する意識をもてあますようにさえ見えた。
ゆるく笑んでやっと返ってきた言葉は、ラーハルトの懸念を見透かすようで、表には出さず内心2度目の舌打ちをして答える。
魔族の血を有するラーハルトの感じるような、あるいはそれ以上の高揚感になぜヒュンケルが影響されているのか。
「……ここだ。この谷の深い闇から生まれた。魔界からの吹きだまる"闘争心"、"支配欲"、"憎悪"、……"羨望"。人間界から漂ってくる"恐怖"、"疑心"、"差別意識"……そんな諸々の感情が気の遠くなるような年月行きついた先だ。
――― ここからあいつは」
再び谷に向き直ると、ヒュンケルは掌を闇にかざすように、腕を水平に突き出した。
「ひとりの男の野望に<かたち>を与えられ……」
ヒュンケルの言葉が終らぬまえに、強い力で腕を引き戻され、そのままの乱暴に抱きとめられるような姿勢で押さえ込まれた。
「止めろ!」
声は押さえられて、囁きといってもいいくらいだったが、その語尾は強く従わせようという意思がうかがえた。
耳元にうたれるラーハルトの声に、ヒュンケルは動きを止めて目を閉じた。
「俺が消したのはその<かたち>にすぎない。存在そのものを消し去ることは出来ない、俺は無垢ではないからな。俺のなかにもこの谷と同じ闇が存在する……、だからここは俺にとっても懐かしい」
実際の記憶に基づく郷愁ではない、本能で認識する原始点という帰属感が波のように押し寄せる。
負の感情から生まれる力を具現化する<暗黒闘気>を体得しているヒュンケルにとっては、封印した力が吹き出すような感覚があった。
「ならば、お前にも与えられるのだろう、その化け物に」
「……そうかもしれん」
ヒュンケルはラーハルトの手から離れると笑みをおさめた。
「だが俺はもう2度とこの力は解放しないと誓った」
ヒュンケルの言う力が暗黒闘気であることは、ラーハルトにもうかがえた。
半魔人であるラーハルトさえ使うことのない力を、目の前の人間が有していたことはラーハルトも知ってはいた。
当時出会ったことはなかったが、ラーハルトの主とも付き従ったバランと同等の軍団長という位置にヒュンケルはあった。
六大軍。魔王軍不死騎団。
ラーハルトの属する超竜軍の圧倒的な破壊力とは違う、恐怖そのものを武器としたような死の軍団だったはずだが、ラーハルト自身がヒュンケルと戦ったときにはそれらの片鱗すら見えなかった。
殺そうとした者のために涙を流せる男。本当の馬鹿か、底無しのやさしさを持つ者か。
どちらにしても大した甘ちゃんだと、薄れる意識の中で悪態をついた覚えがある。
ヒュンケルが暗黒闘気をまとうのを見たのは、その化け物……ミストバーンに肉体を支配されそうになった時だけだ。
自発的にそれを操る姿が想像しがたいだけに、「意識をとばすほどではない」という本人の申告はラーハルトにとっては懸念だった。
「……いや」
――― だが俺は、ヒュンケルが振りかえった瞬間それが暗黒闘気の発露だとわかった。
なぜだ。あの小娘が暗黒闘気に支配された時のように、それほど姿に変化があったわけではなかったが……。
そうだ、以前。
「いつだ」
見たことがあった。
明滅する記憶のすがたの。魔王軍よりまえだ。
「……ん、お前」
するりと記憶の奥へ、身をかわそうとする残像を鷲掴むように、引きずりだす。
そしてそれは、いったん像を結ぶと、ラーハルトのなかに鮮烈なまでの印象をよみがえらせた。
ラーハルトは意識せずに目の前の男に手をのばしたが、ヒュンケルは一瞬動揺の影を顔によぎらせて、一歩身を引いた。
それがラーハルトの記憶を是としていた。
「そうか、ヒュンケル、お前あの時の……」
思わず引いてしまったその動作に、ラーハルトが完全に記憶と目の前の存在とを一致させてしまったと覚って、ヒュンケルはもうすっかりもとの色に戻った色味のないまなざしを曇らせる。
そしてしばらくは無表情だったというのが嘘のように、盛大に顔を顰めた。
* * *
ラーハルトはねぐらにしている切り立った岩山の穴蔵から顔をだした。
魔界の北東地域に位置するこのエリアは、あまり魔族も多くない。ドラゴンの生息地帯になっている。
ドラゴンといっても、高位に属し言葉や魔法すらあやつるような竜族はこの辺りにはいない。
高低差が激しく、道らしい道もない。木も余り育たぬ不毛な岩山ばかりだ。
だがラーハルトも、ラーハルトの育ての親でもあり主命とも仰ぐ男もこの不毛な環境を好んでいた。
魔界の西南には森が広がっている。光りが極度に弱くても、地上の森よりも生い茂った魔の森だ。
ラーハルト達のいる岩場より便利はよいのだが、森は2人にとってあまりに救いのない記憶ばかりを甦らせた。
半分は人間の血を持ちながらも、もう半分の魔族の血ゆえに人間達に追われ、行く当てもなくたださすらい死を待つばかりだったラーハルトを救った男。
三界最強の騎士。
方ややっとその男の肩ほどに背が伸びた少年。
2人は経緯もその年齢も異なるとはいえ、人の憎悪を浴び、それ以上に人を憎む心と、愛するものを喪った孤独はよく似通っていた。
男はときおりひとりどこかへ姿を消しては、しばらくすると戻り、ラーハルトの稽古をつけ、またしばらくは石のように世界を排して眠りについた。
姿を消すのは人間界にいっているのだろう。彼には血を分けた息子があり、失われた消息をもとめて探しつづけていることを、ラーハルトは男の口から聞いて知っていた。
だがそうして自分を置いて姿を消す男の行動に、嫉妬や失望を感じたことは1度もなかった。
その男は父親を知らぬラーハルトにとって、想像のどんな希望の父親像よりも剛く誠実だった。
同じ血を有してはいなくても、同じ傷を抱いていた。
もはや唯一の残り火だった母親を亡くしたラーハルトにとって、それは望むべくもなかった奇跡としかいいようのない出会いであり、その男の望みはラーハルトにとっても最後に残された希望だった。
顔を見たこともない小さな赤子が。
男を……バランを、ラーハルトを生へ結びつけるかすかな"こより"だった。
今はまだ力及ばず竜騎士であるバランを補佐するほどの力もなかったが、やがて力を蓄えれば自分もまた人間界へ足を運び、最後の希望を求めるだろう。
「その前に見つけられればなおいいんだがな」
一刻でもはやく見つかればいい。
そうすれば自分はその子を、命をかけて守ろう。
もう2度と自分もあの人も見失わないように。
いつからか年を数えることもなくなったが、ラーハルトはたしか14、5歳になっているはずだった。
ラーハルトは魔族の能力のおかげで、並の人間をはるかにしのぐ運動能力と筋力をすでに有している。純血の魔族ほどでないにしろ成長も人間よりは速く、そして老化は人間よりもゆるやかなはずだった。
バランの片腕となる日もそう遠くない。
ラーハルトは光源の乏しいために、昼夜のはっきりしない空をちらりと一瞥すると、肩口ほどもある棒を肩にかけて洞穴を出た。
ドラゴンの生息地だ。
体格差の激しいドラゴンなどと戦う場合には、リーチの長さが有効なために、ラーハルトは剣よりも棒術を好んでいた。
特に武器として鍛えたものではない木の棒だが、これはこれでいろいろ便利に使い道がある。
現に今担いだ棒の先には、かなりの大きさの編み縄のかけられた瓶がぶらさがっている。
水を1キロほど離れた清水まで汲みにいくのが日課なのだ。
結構な大きさの瓶で、ただでさえ重そうなそれに、水を入れればとても道もない岩山を運べるものではないようなものでも、ラーハルトにとっては軽い鍛錬の一つだった。
岩から岩へと飛び移る足取りも軽く、しかし担いだ空の水瓶はほとんどゆれてもいない。
能もなく出会い頭に吠えかかるドラゴンに今日はかち合うこともなく、いささかあくびを噛みながら、清水の涌き出る岩間近くまできた。
ほとんど草木の茂る余裕のない不毛の地だが、この周辺にはちいさなブッシュ程度の茂りがかろうじてある。
そしてラーハルトは軽く首を傾げると、にやりと笑った。
水瓶が転げないような岩のくぼみにそれを降ろすと、軽く体をほぐすように一通りの棒術の型をなぞる。
長くかさばる棒を、予想よりもはるかに繊細な動きで操る一連の動作は精錬だった。
――― なんといったっけな。
棒を地面にたてて、こつこつと打った。
「隠れ鬼……いや鬼ごっこだったか。んー、どっちも同じか?ちゃんとやったことがないからな……」
まあどちらでもかまわんだろ。そうだれともなく、言うとぴたりと地面を打っていた棒を止めた。
「俺が鬼」
次ぎの瞬間には横なぎに棒を振り抜くと、2、30メートル離れた岩場の一角が叩きつけられた"気"によって崩れ落ちた。
同時に煤けたような影が、人外のスピードで飛びのくのを見逃さずにラーハルトも飛ぶ。
岩場を縫うように、掠め飛ぶ影をそのまぎれようとする岩場を、叩き割りながら追った。
――― なかなかすばやい。獣人系か。
ラーハルトは見失わないよう注意を払いながら、なんとか間合いをつめようと追う。
もともとそう隠れられる障害物のおおい場所ではない。
相手もそれは承知なのだろう、フェイントをかけつつ、それほど大きくない体格を生かして小回りにラーハルトの追撃をかわした。
ラーハルトは知らず笑っている自分に気付いた。
――― 面白い。久々に愉快だ。
灰色とも黒とも、埃とも判別しがたい色合いのボロをすっぽりとまとった影。
――― だが。俺の方が速いな。
次ぎの呼吸でラーハルトは一気に間を詰める。棒術の間合いは広いが、それを差し引いても十分な範囲に踏み込む。
横なぎに灰色の影をはらった。
「ほう」
ラーハルトはますます不敵な笑みを口元に張りつけた。
灰色の影はまるでラーハルトの動きを予測していたように、なぎ払う棒の軌跡の上を逆回転するように宙返ってかわした。
着地と同時にさらに後方へと飛びのき、ラーハルトの間合いの外へ逃れようとする。
ラーハルトもまた、人体の動作としては不自然なほどに速いきり返しでその影を追って、棒を続けざま討ちこむ。
切りかえって突きこむ攻撃は、より速度を増した。
だが次ぎの瞬間、灰色の影は3体にぶれ、完全な分身像としてラーハルトの目の前に展開した。
まるで猫が落下する時のように、体を丸めて回転する影から白い閃光が走り、ラーハルトは考えるより先に退いた。
――― この俺を1歩たりとはいえ退けるか。
たとえドラゴン相手でも、引いたことはない。ラーハルトの戦闘基本は速攻型だ。
本来の資質であるスピードと、攻撃の精密さで時間をかけずに勝敗を決する。
長期にわたれば、相手に付け入るスキを与える。
己の資質は優れているという自負はありあまっているが、ほとんどの場合ラーハルトよりも体格にまさる相手が多く長期戦の不利は明らかにある。
ラーハルトは掌の幅ほど切り取られ、心持ち短くなった手もとの棒と、削がれた上着の裾をちらりと目視した。
――― 誉めてやるが……ただで帰れると思うなよ。
残像ならば攻撃を行えば本体は知れる。残像はあくまで残像で、そこから攻撃が発されることはないからだ。だがこの灰色の影は三方向からの攻撃だった。ならば。
――― 分身……のようにみえるな。大したものだが、相手が悪かったな。
速い。そして灰色の全身を覆うマントからわずかに垣間見えた足さばき。
まるで三方向からと錯覚させるほどのすばやい攻撃の打ち出しと、残像をからめる呼吸の見事にラーハルトはぞくりとした。
先ほどのラーハルトの攻撃を見切ってかわしたことといい……あれはスピードでラーハルトについてきたのではない、予測してよけたのだ……面白い。
普段はコントロールされている好戦的な性情が、あるいは魔族の性質か、解き放ってくれと体をめぐり始めたのがわかる。
そんな思いが一瞬で錯綜するラーハルトの引きを、灰色の影は見逃さなかった。
白い閃光を射ちだした間合いの残像をそのままに、ラーハルトの懐まで間合いを詰める。と、鳥が飛び立つような軌跡を描く下方からの斜光がラーハルトを切り裂いた。
棒術はリーチが長いが、思いきり懐まで間合いを詰めればかえって反撃は難しい。わかってはいても、そうそう密着するほどに踏み込めるものではない。
ゆらり、とラーハルトがゆれて……陽炎のように残像が立ち消える。
「お返しだ」
その瞬間灰色の影の後方から、攻撃とともに楽しげな声が放たれた。
「ぐっ……」
飛びのく灰色の影からくぐもったうめきが漏れ、かすかに体勢がゆれる。
瞬間に討ちこんだ5度の突きを、ほとんどかわしたのは見事だが、それでもよけきれなかった1発が影を捉えた。
容赦せずに、ラーハルトは渾身の連打を浴びせた。
後退の無理を覚った影は、攻撃を受流す。はっきりとは見えていなかった得物が、マントから姿を表した。剣だ。
ラーハルトの得物はただの木の棒だ。なぎ払われればひとたまりもなく、先ほどのように棒ごと斬られてしまう。
だが今はラーハルトの撃ち出すラッシュに灰色の影は、圧倒されていた。
突きの動きを刃の側面で受け流すしかない。一部切り取ってもそのまま突きこまれれば、このスピードをかわす余裕はない。
それは影にも初めて対峙した時から予測できたことだ。だからこそ、ヒットアンドアウェイで、間合いを取るように攻撃し、撤退を優先したが、ラーハルトには隙がなかった。
追いこまれた。なんとか受け流す連打も、ラーハルトの方が影のスピードを上回っていることは両者に伝わっている。だが影には引く余裕がもはやない。
1歩でも引けば討ち取られる。
接近戦に持ちこんで、灰色の影がラーハルトの肩ほどにしか高さがないことに気付いた。ラーハルトにとっては有利だ。打ち下ろす攻撃は、威力が増す。
「あ!」
思わずといった声が影から発せられ、身体がおおきくかしぐ。ラーハルトはその予想外に清んだ高い声に驚きつつも、払った足でそのまま踏み込む。
後方に倒れこみながら影が閃光を走らせ、ラーハルトの得物を両断した。
左の二の腕に一筋の熱を感じつつ、動きを止めることなく役に立たなくなった短かい棒を握ったままの拳を討ちこむ。
器官を鳴らして吐き出される呼吸音。それでもなお斬り返してラーハルトに飛来する刃を、腕ごと鷲づかんで、地にたたきつけた。
今度こそ悲鳴が上がる。
ラーハルトの拳の衝撃と、背と利き手をごつごつとした大地に打ちつけられた焼けつくような痛み。
頭部を打ち付けないようにするのが精一杯だった影は、ラーハルトの体重に縫いつけられた身体を痙攣させて、断続的な悲鳴をもらした。
と、同時にまるで堰き止められていた泉が吹きだすように、漆黒の闇が灰色の影からあふれラーハルトを襲う。
実体のない闇がラーハルトに侵食しようとする気配を察し、本能的に裏拳で影の頭部あたりを打つ。
ぴたりと闇が動きを止め、組み敷いた体が一つ大きく痙攣すると弛緩し、闇もまた霧散した。
完全に反応が止んだ身体を見下ろし、知らず息の上がっていた己に舌打ちする。
左の腕に感じる痛みと、そそけだつ肌。
まさかこんな、一瞬たりと自分が"怖れ"を戦闘中に感じることがあるとは。
漆黒の闇が霧散した、打ち倒した身体を改めて見下ろして驚いた。
「子供……人間……馬鹿な」
覆っていた灰色のマントが払われた姿。
あの動きが人間であるはずがない。あの闇は……話しに聞いたことがある、<暗黒闘気>ではないかとラーハルトは当たりをつけていた。
聞いたことはあったが、実際にそれを操るものを見るのは初めてだ。
それほどこの<暗黒闘気>は誰もが使える力ではない。
だが今ラーハルトの身体の下で力なく横たわる子供は。
最後に打った拳はちょうど右側のあごを打ったらしい。
昏倒させる……場合によっては死んでも構わないという……つもりで打ったが、完全に意識をとばすことはできなかったようだ。
だが身体の自由が利かないのだろう、荒い呼吸をつき微かなうめきをもらしている。
切れた口のはしから流れる血は赤い。
魔族であるはずのない色、そして、多分純血の人間なのだ。
魔族の生殖能力はそれほど高く無い。性行動は破壊衝動であり、欲望の一端としてありふれてはいたが、その身体能力から出生率は人間に比べるとはるかに低い。
生命の普遍の法則だ。
長命で優位な身体能力を維持する種族ほど、出生率は下がる。生命のサイクルが長いためだ。弱い短命な生き物ほど、たくさんの次世代を生む。
だがそれでも人間と魔族の混血が生まれれば、8割方魔族の特徴が子供にはあらわれる。
血の優位は魔族にあるのだ。現にラーハルトも、姿だけを見れば魔族にしか見えない、青い肌と尖った大きな耳、猛禽類のような目を持っている。
だがその特徴のあらわれない2割も含め、魔族の血を引くものは<赤い血>を持つ者はいない。
個人差の微妙はあるものの、純血の魔族の青に近いか、あるいは幾分人間の性質を継いだ紫がかった蒼、そしてより変質した黒い血のいずれかになるのだ。
――― だが"これ"は何だ。
うっすらと開いた目から覗く瞳は、魔族特有の真紅。ざんばらの長い髪は黒銀で、まるで暗黒闘気で出来た泉をうつしたような禍禍しい艶を放っている。
しかしその肌は白く、体格も自分よりふたまわり近く小さい。ラーハルトが魔族の優性のために発育がよいことを差し引けば、おそらく同じくらいの年齢だろう。
しかし14、5歳の少年が<暗黒闘気>を操るのか?
いやそれ以前に、持ちうるのか。
ぐっと胸をそらせ、一瞬呼吸すら止めた様子に、とっさにラーハルトは少年の身体を抱くと身体を反した。
吐しゃする腰を背後から抱え支える、一方で足と手を拘束した。
少年は唯一自由な左腕だけで上半身が倒れこまないようにこらえている。
大したものは入っていなかったのだろう、やはり赤い血の混じった胃液を少し吐いて苦しそうに目を閉じた。
ラーハルトはしばらく迷いながらも、マントを裂いて後ろ手に縛り上げる。利き手も打ちつけた時に傷ついたのだろう、裂傷から血が滲んでいた。
ぐったりとした様子だったがあれほどの力量だ、油断は出来ない。
残ったマントと剣は放置し、少年を抱え上げて先ほどの水辺に向かう。戦闘しながらの移動で、直線にすれば大した距離でもない。
置いてあった水瓶のなかから、木の実の殻を割って作ったひしゃくを手にすると、水際に下りて肩から少年を降ろし転がした。
水をくみ、顔にかけるとうめいて意識をもどす。いや、かろうじて先ほどから落ちてはいなかったようだから、ラーハルトに意識を戻したというほうがいいだろう。
「内臓を痛めたかな」
自分も水で喉を潤すと、もう一度今度は飲ませるために水を汲んで、少年の頭を持ち上げた。
瞬間、逆上がるように蹴り上げられた足を空いた手で受け止める。
「おーおー、元気だ」
そのまま手を離さずにいるため、まるで吊り上げられた獲物のように、逆しまにラーハルトをにらみつける視線と、初めて重なった。
――― なんて目をしてるんだ。
ラーハルトは瞠目した。憎悪、憎悪、そして底知れない失望。
胸がつまる。どうしてこんな目で、こんな所にいるんだ。人間だろう、お前は。
その目は、あの人の目だ。世界を恨んで、羨んで、最後の最期に絶望した俺の母親の目。……いまの俺の目だ。
「どうしてこんな所にいるんだ、ここは魔界だぞ、人間」
「人間と呼ぶなっ」
言葉を知らないのかとも思ったが、そうではないらしい。まるでそれがスイッチだったとでも言うように、少年が叫んだ。
絶叫したと言ってもいいほどに。
「何とでも呼べ、殺したければ殺せ、だが人間とは呼ぶなっ」
「――― だがお前が人間だってことは変わらない」
「っ……」
そうだな、俺の中に人間の血が流れているように、あの人が人間の女性を愛しつづけているように。
わかっているのにな、許せないのも事実だ。
「救われないな」
人間、お前も、俺も。いや、俺には微かな希望がある。お前にはそれすらないのか。
「そんなものはいらない」
「ほう、お前は強いんだな」
打ち負かされた相手に強いと言われても、揶揄にしかとれないだろう。案の定少年は悔しそうにくちびるを噛んだ。
「まあ、水でも飲め」
ラーハルトが始めの目的を思い出し、足を下ろし水をやろうとすると少年はふたたび暴れ始めた。
「おい、いて、こら大人しくしろっ」
馬乗りになって押さえつけるが、それでもラーハルトの組み伏せた体の下でもがく。
当然といえば当然だろうが。
「……う、お前どこ、動くなって、餓鬼っ」
思わぬ既視感に見まわれたせいかもしれない。
実際はたいした差はないのだろうが、ひと周り体格の差があるせいもあって、ラーハルトはどうにも年下を相手にしているような、いささか緊張に欠けた気分になってきていた。
後ろ手に縛られたまま身体を起こそうとしたために、肩で地面をつき、膝を折り曲げて腰を浮かせるような姿勢になった少年に、覆い被さるように押さえていたラーハルトは、腰元でむやみにうごめく体に舌打ちした。
ただでさえ起き抜けのうえ、かなり沸点の高い戦闘をしたばかりなのだ。
「てめぇっ……」
「うがっ……あっ」
ぴたりと、暴れていた少年の体が止まった。
予想外の痛み……ラーハルトが急所を鷲掴んだためだ。
「ば、馬鹿かお前は、お前のケツでどこ煽ってるか判ってるのか」
「え」
互いに乱れた息が耳元で感じられる。
どこか上ずったような、調子の変わったラーハルトの声色に少年がいぶかしげな視線を向ける。
「……お前はわかってないな」
振りかえった顔はまるで無自覚で、そのくせ欲望もなく紅潮した頬と、潤んだ目がラーハルトを刺激した。
少年の腰に擦られ、熱をもって形を変えかけたものを、その当のまろい肉に押しつけた。
同時に握りこんだ急所を、意図を持って動かす。
「やめっ……」
「何かわかってるのか」
「何がっ」
「いくらなんでも、まあ、ヌいたことは、ある……だろ」
「触るなっ……」
続く言葉はラーハルトに飲みこまれた。
先ほど打たれた痛むあごを容赦なく掴まれ、こらえきれずに開いた唇から舌が侵入する。
あまりの状況に本能的に逃れようと身体がのたうつが、ほとんど逆効果だった。
「もう、お前つきあえ」
「はっ……は」
少年はやっと開放された口で、つまっていた呼吸を逃しあえいだ。
「セックス」
「ば、馬鹿か、俺は男だ」
「できるだろう、俺も……やったことないが」
まあ、男の場合もなんとなく知ってるしな。とつぶやくラーハルトに少年が目を剥いた。
「ゲスがっ」
「お前も初めてだろう、お互い様だ。そう言えば俺は鬼で、お前を捕まえたんだし食ってもいいだろ」
「ぬかせっ……あっ」
少年を刺激していた手が、いつのまにか着衣を引き降ろし、外気が直接肌に感じられて少年は身をすくめた。
そのまま直に触れる手はひんやりと冷たかった。
「ああっ」
こんなに敏感なものが、自分の中にあったのか、と、荒れ狂う感覚の中で切れ切れに思う。なんでこの魔族の……自分と多分大差ない年頃の少年は、自分を気遣うように触れるのだろう。だがすぐに気遣うくらいなら離れろ、という反駁が交錯する。
少年は混乱したまま、自分を襲う嵐にのみ込まれまいと必死に意識をつないだ。
すぐに意識をつないでいたことを後悔するのだが。
少年の放ったもので濡れた掌でラーハルトはその奥を探った。
荒い呼吸を繰り返し、拘束されたままの腕を背にひいて、足を投げ出したまま虚脱していた肢体がびくりと反応する。
その様子を目の端に止めながら、すぼまった皮膚のくぼみを見つけるとそっと濡れた指先を押しこめた。
「いやだっ」
焦点のあっていなかった赤い瞳が意志を取り戻し、舌足らずな拒絶を告げる。
剣を振り下ろす時の殺気は、子供とも思えない、ほんとうの"死"を知っている殺気だったのに、こんなときに見せる顔が思いのほか純粋なままで、ラーハルトは初めて罪悪感を覚えた。
そう感じ取るラーハルトもまた、そんな部分を残していたのかもしれない。
ただ同じ子供の純粋さで、欲望と好奇心はたやすく堰をきった。
あらためて向かい合う少年は、よくみるときれいな面立ちをしている。
ぬけるようなあまり陽光をしらないような白い肌、引き締まった薄く筋肉のついた肢体、大きく切れあがった目、整った鼻梁。
それらが今はしっとりと濡れて、薄赤く色づいている。
本能的な興奮、戦闘中にも似た征服欲。
ラーハルトは押しこんだ指を動かしてみた。この後の行為を予測させる動き。
緊張にこわばったせいで、ただでさえ狭い場所が指を押しとどめるように硬直している。とてもそれ以上の太さのものなど入りそうにも無い。
「おい、体の力ぬけよ」
抜き差しを繰り返しながら声をかけるが、びくりと体を震わせるばかりで、とても思うようにはすすまない。ラーハルトは焦れた。
萎えた前のものに指をからめて、強引に快感を引き出させようとすり上げる。
「あ、あ、あっいた……い、やめっ」
他人の手で追い上げられ、イカされた強い快感と脱力のあとの敏感な体には、むしろ苦痛のようで、しゃくりあげるようにむずがる。
それでも反応をかえし始めるといくらか細い体が弛緩した。奥にさしこんだままの指を前をすりあげる動きに合わせるように動かしても、初めほどには硬く閉ざす感触がない。
「でも、これじゃキツイな」
ラーハルトは生理的な涙と、熱くかすれた吐息に濡れた唇にくちづけた。
錆びた鉄のような匂いが口内を満たす。
声を出すまいと噛みしめたくちびるが切れたのか、ラーハルトの拳打で口内を切ったのか、その赤い血ごと吸う。
もう目の前の体を気遣う余裕は残っていなかった。
膝裏を肩に抱え上げ、指を抜くと、間を置かずに自分の昂ぶりを突き入れた。
同時に上がる高い悲鳴。
ぬるりとした感触と、微かに増したように感じられる血の匂い。
硬直し、食いちぎられるかと思うほどの痛みにも似た締めつけ。
目を見開き、血の気のうせた唇を震わせ弓なりにのけぞる姿に酷く興奮した。
その後の記憶は、思い返しても曖昧だ。
ただ、ただその白い肢体を衝動のままに肉食獣のようにむさぼった。
興奮と充足感。
いつの間に意識を飛ばして、眠りに落ちたのか。
はっきり思い返せないまま、不快な感覚から意識を引き剥がすようにラーハルトは目を覚ました。
呼吸を吐き出し、指先まで意識を張り巡らせようとして、それが出来ないことに気付く。
かろうじてまぶたを開いたが、それ以外のどの筋肉もぴくりとも動かない。意識ばかりが非常な状態を感じ指令を発するが、それも不快感を増すばかりで成果はなかった。
「目を覚ましたか」
微かにかすれた声がラーハルトに向けられた。
かろうじて動く眼球を可能な限り聴覚にしたがって動かすと、白い脚が見えた。
月あかりのように冷たく、硬質な、つくりものめいた白。
そこでやっと記憶と意識と現状が結びついた。
同時に己のうかつさに歯噛みする。
「あんた、意志が強いんだな。<暗黒闘気>は本体の意志が強いほど、入りこむのは難しい。でもあんなに一撃で弾き飛ばされたのは初めてだ」
だが結局はこうして指一本動かせない状態に陥っている。
「……あんた自身が俺と感覚を繋いだんだ、これ以上ない無防備な状態で」
ラーハルトは内心だけで眉をしかめた。この餓鬼は心も読むのか。
「心が読める訳じゃない、俺の暗黒闘気が今はあんたの肉体を支配してるから、強く意識した――― 普段なら言葉になってるくらいのものは、だいたい感じるんだ」
なるほど。ラーハルトは心の中で思いざま喚き散らした。
――― クソガキ!俺の中から出ていけ!出ていけ!出ていけ!出ていけ!出ていけ!出ていけ!
「ぐっ……ふ」
「ウルサイ」
腹部に衝撃をうけて、呼吸が吐き出される。同時にすこしばかり拘束が揺るんで、ラーハルトは渾身の力を込めて、鉛ような上半身を肘をたてて持ち上げた。
――― け、蹴りやがったな。
「お前がうるさくするからだ」
やっと少年の全体が見えた。ともすれば暗黒闘気におおわれそうになる、もうろうとした意識を奮い立たせて、目に力を込める。
すらりと立った姿は何もまとっていない。半ば引き裂くように剥いだ衣服が側に落ちていた。
なんの感慨もないように、無表情に晒す白い肢体には、よく見ると先ほどの行為がうかがえる痕跡があちらこちらで見える。
片方の掌をかざすようなその手の動きに連れて、拘束がすこしづつ強められていく。
「ディーノ……ってなんだ」
意識するより衝動的に、感情が爆発したように荒れ狂った。
見知らぬものに、土足で踏み込まれたような憤り。
それを覚られた己への罵倒。
あの人への謝罪。
目の前の存在への殺気。
……その名とともに常にある、暖かな何か。
そういったもろもろの感情が、一瞬すべてを押しやり、ラーハルトは反射で体勢をおこした。だが次には再び、重力のように押しつぶすような拘束が体内を支配し膝をつく。
「なんてヤツだ」
少年はかざす手の首にもう片方の手を握るように添えると、ひとつ肩で息をついた。
完全に支配し、決まった技――― 闘魔傀儡掌を押し返すとは。
力量では完全に少年の上をいく。さすが。
――― 竜騎士バランの弟子というところか。
少年は即座に判断を下し、暗黒闘気をラーハルトの意識を落すために全開で、その体内に注ぐ。
覆い尽くす意識の奥底に、大事にしまわれている暖かな光りを感じて、少年は目を細めた。
その光りを避けるように、ラーハルトの意識中枢へと暗黒闘気を走らせる。
とんだ恥辱をさらした、殺してやりたいが……少年はラーハルトを完全に落しながら、しかしそれはできないと息をついた。
大魔王バーンやミストバーンの意志とはべつに、勝手にここまで足をのばしたのだ。
バーンがどんな無礼も容認するほどに、召喚に手を尽くす竜騎士を見てみたかっただけだ。もちろん戦闘するようなつもりで来たわけでもない。
この魔族の少年との戦闘は、不本意なものだった。
このうえ竜騎士の怒りをかうようなわけにはいかない。
辱めは……己の力量不足の招いたことでもある。離脱すらできなかった己に歯噛みする。自分の力が勝っていれば、そもそも覚られはしなかったはずだ。
それに。
――― あんなやさしい光りが。
少年はそれ以上は考えることをやめた。
どちらにしても自分とは縁のないものだ。
「く……お、お前……何、者……」
いまだ言葉を発しようとする頑強さに、半ば呆れながら、少年は笑って答えなかった。
目は開いてはいるが、もう見えても、聞こえてもいまい。
もしまだ目が見えていれば、ラーハルトは少年の姿の変貌を見ることができただろう。
体内に満ちいていた暗黒闘気をすべてラーハルトに傾けたために、本体をさらしていた少年の姿を。
血の気がかよい、ほんのり色を刷いた白い肌と、色の抜けたような銀の髪、そしてそこだけは暗黒闘気の発動のために変わらぬ、真紅の瞳。
ふいに震える唇に、やわらかなものが触れた。
現実か錯覚かも判断できないまま同時に、意識が途切れた。
それがラーハルトの記憶の結末。
* * *
「おまえ……あの時の餓鬼か!」
ほとんど叫ぶように詰め寄るラーハルトから、ヒュンケルは体をはす向かいに逃がした。
「……自分だって餓鬼だったろうが」
「そんなことを言っているんじゃあるまい!」
ラーハルトはなかば呆然とヒュンケルを見つめた。
「信じられん……」
「それではお前の思い違いだ」
「だからそうではない!」
ラーハルトはその腕をひいて、強制的に向かいあって視線を合わせる。
もはや観念したのか、その目はラーハルトの問いかけを肯定していた。
「いつからだ。いつ"俺"だと気付いた」
「……はじめから。あんなことをされて気付かないほうがどうかしている」
だから嫌だったんだ。最後は独り言のようなものだろう、ほとんど聞き取れなかったが、その表情が2人きりでの道行の不満をあらわしていた。
「どうかしているのはお前の方だ」
「……」
ヒュンケルはとうとう押し黙って剣呑な目でねめつけたが、ラーハルトはそんなことに構っていなかった。
「そんなヤツのために涙をながすのか」
ただでさえ敵対する、命のやり取りをした相手に同情して涙を浮かべるのを見たとき、とんだ甘ちゃんだとあきれた。
本当にこれが師と同位にあった軍団長だったのか。
しかしラーハルトは弱さのいい訳にしか聞こえないやさしさとは別の、強さを備えたやさしさをはじめて見たと思った。
こんな、お人よしの馬鹿も人間にいるのかと。
……もっとはやくに出会ってみたかった、と。
「会っていたんだな」
「ま、待て」
ラーハルトは掴んだ腕を手繰って、向かい合って立つヒュンケルを抱きよせた。
6年ほど前には一回り以上の差があった体格も、今はほとんど変わらない。
抗う腕を後ろのほうで押さえて、体を密着させる。
居心地悪げに身じろぐ体を無視して、肩口に顔を埋めた。
「なあ、最後に……俺の口にふれたのは何だ」
「……」
だんまりも、一瞬抗う動きがこわばって止まったりしていてはあまり意味が無い。
実はけっこうわかりやすいヤツだな、とラーハルトは笑った。
「答えられないのか、じゃあ、なんであの時あそこにいたんだ。偶然か」
「……竜騎士を、バランを見てみたくて、あっ」
最後は吐息のような声と、痛みのうめきで言葉は途切れた。
ラーハルトが足をはらって、その体を押し倒したからだ。受身をとったものの、背をうった衝撃に不満の声をあげた。
「お前は……本当に、俺に慣れない感情を覚えさせるのが上手い」
「な、何を言っている、のけ!」
「旧交を暖めようじゃないか」
「馬鹿も休み休み言えっ」
馬乗りになった体をかがめて、鼻先とくちびる同士が触れ合うかどうかのぎりぎりでラーハルトが囁いた。
「判らないか、鈍いところは変わらないな。俺が……こともあろうにバラン様に、嫉妬、するなんてな」
「やめっ」
拒絶の言葉は合わさった唇にのまれた。
逃げる唇を追い、舌をからめ、追い詰める。
「バラン様が留守でよかった、お前命がなかったぞ」
「都合がよかったのはお前の方じゃないのか、真っ裸で昏倒しているところなんて、見られたくないだろ」
「可愛げのない」
「あってたまるか」
「たしかにな、俺も」
息の上がったかすれ気味の声で交わす応酬は、たしかにかわいげのない内容だが、それが心地よいと感じる自分はどうかしているのだろう。ラーハルトは薄く笑った。
けれど自分にはこんなイカレたやり取りがふさわしいとも思う。
「……俺もこんなひねくれた男が好みとは、たいがい趣味がわるい」
「……」
「ヒュンケル」
「やめてくれ」
「どうして」
抵抗がやんだと思ったら、次に出た拒絶の言葉は、それまでのかろうじて持っていた余裕がまるで見られない、悲壮といってもいいくらいの切羽詰った声だった。
ラーハルトは驚いて、すこし顔を離すと、その表情を見なおした。
泣くのか、と思うほどの。むしろ涙が流れていないのが不思議なくらいだった。
「……暴力なら……俺は男で戦士だ。回避できない自分を呪えばすむ。それでも気がすまなければ……自分の手でケジメをつける。
だがそういうのは、お前みたいなのは駄目だ」
「何を言っている」
「……俺は、自分では何もしていなかったのに、自分以外のすべてを恨んだ。そうして随分……ずいぶんたくさんの、そういう気持ちを踏みにじって来た。たくさんの命と一緒に。だから俺には……」
「俺にはそんな資格はありません、てことか」
「……」
それ以上はラーハルトが促してもヒュンケルは口を開こうとはしなかった。
やっかいな男だ。
それであの女や、あっちの女やらを袖にしているわけだ。俺にとっては都合のいいことだが。
「それがどうした。俺には関係ないことだな」
「ラーハルト!」
「そうだ、そうやって俺を見ていろ。俺がどう思おうと俺の勝手だ、違うか」
「ラーハルトっ」
ヒュンケルの声を無視して、ラーハルトは手をヒュンケルの衣服の合わせ目からさしいれた。
ヒュンケルが息をのみ、本気で抗いはじめる。先ほどよりも激しい勢いだった。
「ひっ」
ラーハルトはその喉もとに喰らいついた。
息の詰まるような音が聞こえたが、そのまま容赦せずに歯を食いこませた。
もうほんの砂一粒くらいの力加減で、この白いやわらかな皮膚が裂けて、赤い血が溢れ出すだろう、そのぎりぎりのところまで。
それはヒュンケルにも感じるのだろう。萎えた抵抗をはらって、その体を侵食する。
強制的に追い上げた。
「俺は後悔などしない。人間に同情などもくれてやらん。お前にあの時敗れなければ、今でも人間など狩っていた。あの方の意志さえあれば」
「……」
「俺は誰かを愛する資格もないか、誰かを守りたいと思うのに資格がいるか、そうやって断罪するだれかに俺が止められるか。
俺を止めるのは俺の意志だけだ」
たとえお前でもそうは止められないぞ、ヒュンケル。ラーハルトは口を歪めると、不敵に笑った。
「お前は強いな」
ため息のようなヒュンケルの声がとどいた。容認の響きをもったそれに、ラーハルトはゆっくりと唇をよせる。
ヒュンケルは抗わなかった。
何度も触れ合わせ、吐息ごとからめた舌先にも、そっと応えてくる。
――― 強いのはお前だ、ヒュンケル。
弱さをさらけ出しても、己の非を見つめるお前は。ラーハルトが出会った人間のだれよりも……バランでさえもあるいは及ばぬ場所にいた。
「暗黒闘気はもう使わないんだろう?」
軽い口調で合わさる唇の合間からからかうと、苦笑するのが密着する体をとおして伝わってきた。
「どうだったかな」
ラーハルトはその頬を撫ぜた。多分出来うる限りのやさしいしぐさで。
こんな風に変えられたのは、お前のせいだ、ヒュンケル。俺はこんな風にこの手を使ったことなどないんだ。お前は気付きはしないんだろうがな。
それでいい。
俺が、俺自身測りかねるほどの思いを持っていることを、お前は気付くな。
「お前の言うことがまっとうだとして、ちょうどいいんじゃないか。お前が資格なしのひとでなしなら俺もそうだ。お互い様だろ」
いつかの言葉をなぞって。もう一度仕切りなおすのも構わないだろう。
「お前は……」
ヒュンケルも気付いたのだろう、目を細めて、少し笑った。
きっと自分は選ばなくてはならない瞬間がきても、もうヒュンケルを切り捨てることは出来ないだろう。もちろんあの方の忘れ形見を見捨てることなどもできはしない。
ラーハルトも静かに吐息をついた。痛まない、ほほ笑み。そんな上等なものを自分はあの時に知ったのだ。
自分が切り捨てられず潰えたとしても、ヒュンケルは見失わず飛ぶだろう。痛みを抱えたままでも。
同じ者を守ろうとする、その意志で。それがラーハルトにとっての幸運。
憎悪に濡れたあの時も、穢れた力とさえいわれる暗黒闘気をまとってもお前は澄んでいた。
変化を恐れない、しなやかで強い魂の。
闇の中にあってさえついえないその優しい輝きは、光りを失った俺の目にさえ美しかった。
そのありえない光。
お題 「ヒュンケルが誰かから愛される資格はないという思いこみから非常に引き手。無理やり気味、18禁」
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