アヒルの涙

年貢の納めどき


 
「もうどう考えても落ち着いていい年でしょうが」

ぱちん!と変えられた包帯の上からたたかれて、ヒュンケルはわずかに眉をしかめた。
大した怪我でもあるまいし……。ムダだとは思うものの、一応お決まりの弁解を口にする。
……案の定もう一発はたかれた。
若い頃の放浪やら失踪やらが嘘のように、いまはカールの城下町で「先生」をしている、とっても落ち着いたアバンの口から言われると反論のしようもない。
腰掛けた、なじんだ人の寝床でため息をつきながら、新しいシーツの感触に思い出す。

「ずいぶん派手なシーツに変えたんだな」
「気に入らない?きれいな花柄でしょう。なかなかいい色合いの黄色」
「派手な花柄が似合う中年男なんかいるのか」
「アヒルちゃん柄なんか、さらに似合わないでしょうね」
「……」
「ごめんなさい、アヒルなんです。色はまだわかるんですね」
「今のところは」

押される手に逆らわずに、ヒュンケルは倒れこむ。上からアバンが覗き込む影を感じる。
見えるのは影に沿う白い光。幼いころに初めて見た色のままの、淡いかがやく「気」の色。
誰の役にもたたない、この特異な能力に心から感謝する。
やがて世界の光がむすぶ彩りを失っても、この人の生きるかぎり発するかがやきを、自分は見失わないだろう。
ほたり、と落ちて、ヒュンケルの頬を濡らすあたたかな涙を、そのアバンの頬にてのひらを当てた。

「泣かせたくなかったんだが」
「チャーミングな私の目じりのシワが見えなくなってかわいそう!って同情してあげてるんです」
「触れるだろう。舐めようか?」
「ダメですよ。隠してた罰です、言って欲しかったのに」
「隠してたわけじゃない。わざわざ言わなかっただけだ。どうせ気づくんだろうこんな風に」
「……もう黙っていないで」
「キスしてくれ。許してくれ」
「もう、どこにもいかないで」

湿ったキスをして、抱き合って、笑った。いい年をして、若いころよりずっと欲張りじゃあないか。と。
そしてあらためて似合わないことこの上ない、ユーモラスでかわいらしいアヒルとの取り合わせに笑う。間近で意識を集中させていると、どうにか現実の像をむすんだ。焦点をあわせて「見る」事が多大な集中力を必要とするようにたってしばらく経つ。もうあといくらも経たずに、このおぼろげな光景も見る事が出来なくなるだろう。
笑うアバンを最後の光景の記憶とするのは、ひょっとしてずいぶん幸せかもしれないな。ヒュンケルは思う。


その、跡も残らなかった傷が、ヒュンケルの最後の冒険の記憶だった。

 

 

Fanfiction MENU