うたうたう彼の彼

記憶の置き土産


 
香りの記憶というのはかなり強いものだ、とアバンはゆっくり深呼吸をした。

久しぶりに抱擁をかわした恋人のかすかな体臭であるとか、それがかつては感じられなかったほっこりした日向のにおいであるとか。
そしてそんなヒュンケルの遠征みやげは珍しいことに酒やら、実用向けアクセサリでもなく。

「お茶なんてあなたにこんなしゃれっ気があったとは」
「むかし飲んだものに似た匂いだったんだ。さして美味いと感じたことはなかったが」
「それなのにみやげにするんですね」
「たまにはいいだろう」
かくしてアバンはコトコトと茶を煮出し、ヒュンケルは我が物顔でソファに長い手足をなげだしてくつろいでいる。
じきに漂いはじめたお茶というには、ややスパイシーで大地を思わせる香りに、ふと思い出した音階をアバンは記憶から拾い集めた。
まだずっと若い頃。あれはいつごろだっけ。
弟子はいなかった時期だ。ひとりだった。それで酒場で食事をして。
へんぴな田舎町のバーで、にぎやか笑いと少しばかり下卑た視線。たくましく鮮やかな女性たち。見慣れない楽器と地に馴染んだようなロマの歌。
生活臭を感じさせる、でもどこか切ないメロディ。
アバンは記憶をなぞって歌詞のないメロディを口ずさんだ。かたわらではコトコトと湯気の立てるリズム。
「なんだロマにもなじみがあるのか」

記憶の途切れたあたりで声がかかる。

「いえ……むかし聞いたことがあったのを思い出しただけです。少し違ってるかも。でも切ないような音でなんとなく覚えがあって」

言葉がわからなくて、歌詞はわからないんですけど。
アバンが続けると、「なんだ」と返すヒュンケルの声はどこか笑いを含んでいる。

「俺をなじっているのかと思った」

え、と振り返るアバンに、先ほどとほとんど変わらないメロディーの、聴きなれない言葉をのせた歌声がささやくように寄せてくる。
なかなかいい声じゃないか。と、贔屓目にとろんと聞いていると、歌詞が突然理解できるものになる。
どうやらヒュンケルがご丁寧に翻訳してくれたらしい。

『私の夫は若すぎて
いつも他の女たちの尻ばかり追いかけている
お母さんが言った通りだった
あの男と一緒では生活がめちゃくちゃだ』 *

赤くなったアバンに「俺は浮気はしてないぞ」と、ご丁寧なヒュンケルの解説が続けられた。


(*「Miro ROM Hin Ternoro」より)  

 

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