『アクシデント・前編』

その日は、最初からツイてなかったんだ。
携帯の電波も届かない狭く暗い空間の中で、小さくため息をついた。

朝、アパートの階段を下りたところで生ごみを出し忘れていたのに気がついて。
慌てて取りに帰ったら、いつも乗るはずの電車に乗り遅れるし。
乗り遅れたことで、会社には遅刻しかけるし。
焦って走ったら、ストッキング電線してるし。
遅刻しそうになったことで、お局さまにはネチネチ言われるし。
・・・ついでに仕事押し付けられて、関係部署に書類を持っていこうとしたらこのザマ。

3階から7階に上がる途中のエレベーターに乗っていたのだ。
突然、ガクン!と音がしてエレベーターが止まるのと同時に、中の電気もフッ、と消えた。
「え?え??ちょっと何?どうして?」
エレベーターの端に立っていた私は、出入り口に慌てて駆け寄った。
真っ暗だから、正確には出入り口に近いと思われる場所、なんだけど。
すると、むぎゅっと誰かの背中にぶつかる感触。
「あたたたた・・・」
「あ、すいませんっ」
急いでその背中から離れる。
・・・あ、そうか。このエレベーターには私以外に人、乗ってたんだっけ。
ぼんやりして乗り込んだから、一体どういう人が乗ってたのかあんまり記憶にないなぁ。
私と同じくらいの年の・・・グレイのシャツ着た人が一人乗ってたってことぐらいで。

「止まっちゃったみたいですね」
グレイのシャツ(だと思う)が口を開いた。
このエレベーターの中には、どうやら本当に私と彼しか乗っていないようだ。
「と、止まっちゃったって。あの、どうしよう・・・」
ファイルを抱いていた手に、思わず力がこもる。
こういうのってTV特番でよくやってるじゃない。
エレベーターに閉じ込められて、数十時間後に助けられちゃったりして。
しかも、エレベーターのワイヤーが切れたりするの。
そこまで考えて、さすがにゾッとした。
このまま、下まで落ちたらどうしよう。
ここって一体何階あたりなんだろう?
「あー、大丈夫ですよ。・・・多分」
グレイのシャツも自信がないのか、最後の「多分」は声のボリュームが下がっていたけれど。
カチャカチャと、ボタンを押す音がする。
「何・・・してるんですか?」
「ああ。ドアとか開かないかなーと思って」
「開いたとしても、そこに床がなかったらどうするんですかっ!?」
「ああ、そうだよなぁ。あはは。そうしたら二人でアクション映画みたいに脱出しよっか」
あはは、じゃないでしょ!?
もう、どうしてこの人はここまで冷静でいられるの?
外の世界は一体どうなってるのよ!?
「あっ、携帯!!」
携帯電話で、外と連絡を取ろうと思った私の考えはあっさりと打ち砕かれた。
制服のポケットから取り出した携帯の液晶画面には赤い文字で、しっかりと「圏外」と表示されていたからだ。
「携帯、圏外になってるでしょ?」
全て分かっているようなグレイのシャツの言い様に、ムッとする。
「なってます」
「このビル、電波届きにくいから。まぁもともと俺は、携帯机の上に置いて来たんだけど。」
使えねぇ・・・。
携帯も使えないけど、何だかこのノホホンとした男も使えない、気がする。
リーマンなら、携帯は常に胸ポケットに入れとけっ!
八つ当たりだなぁ、とわかってはいるけれど、ついつい胸の中で毒づいてしまった。

カチャカチャと、ボタンを押す音はまだ続いている。
「うーん、この辺だと思うんだけどなぁ」
グレイの(シャツはもう省略)小さな呟きが耳に届いた、その時。
「誰かいるんですかー?」
スピーカーを通した声が、聞えてきた。
きっと、グレイは「故障用ボタン」を探していたんだろう。
電話マークがついた黄色いボタンが、ふっと頭の中をよぎった。
「いますっ!いますっ!!」
思わず大声で叫んでしまった私が可笑しかったのか、グレイは苦笑まじりに
「閉じ込められちゃったみたいなんですよね。電気も消えちゃって、ドアも開かないんですけど」
「ああ、さっきちょっとした地震があってですね〜。そのせいで電気系統がトラブル起こしちゃって。 怪我してる人とかいませんよね」
「え、ああ。ちょっと待ってください。・・・大丈夫?どこも怪我してないよね?」
わずかに空気が動いて、グレイが私のほうを振り返ったような気配がした。
「あ、ハイ」
こくこくと頷く。
「大丈夫です。修理終わるまであと何分くらいかかります?」
「んー、30分ってとこですかね?」
「わかりました。じゃあ、よろしくお願いします」
グレイとスピーカー越しの声のやり取りを、私は側でただ見ているしかなかった。
見ている、と言っても周囲は真っ暗で、何も見えない状態なんだけど。

はぁぁぁぁ。
もう一度、今度は大きくため息をついた。
どこまでも暗い空間の中で、それは行き場もなく、漂っていくように思えた。

それなのに、そのため息を拾ってくれる人がいる。
「そんなにため息つかなくても大丈夫だよ」
ホラ、さっきちゃんと外の人と通じたし。
ため息は、グレイの明るい声に消されてしまっていた。

そうですね・・・と、私は力なく笑った。
とりあえず、30分はここでジタバタしても仕様がないのだ。
30分間ずっと立っているのも疲れるので、私は制服が汚れるのも構わず床に腰を下ろした。
グレイもそれに倣ってか、座る気配がした。
エレベーターの壁に背中を預け、書類を挟んだファイルも床に置く。
腰を下ろしたせいか、少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。

・・・だけど。
制服のブラウス越しに伝わる、妙に生温いものは。
グレイの、人肌?
「何で隣に座るんですか?」
「え?あ、いや特にヘンな意味はないけど。・・・じゃちょっと避けようか」
照れたような笑いと同時に、ブラウス越しの温もりも消えていった。
ほんの少し、エレベーターの中の温度が下がったような気がする。
私、本当は隣にいて欲しかった?
いやまさか。
心細かったのかな、うん、そういうことにしておこう。

「トイレとか、大丈夫?」
「へっ?」
「いや、ほら、ここじゃねぇ・・・したくてもできないでしょ」
「だっ、大丈夫ですっ。エレベーター乗る前に行きましたから!!」
・・・って、私、一体何要らないことまで言ってるのー!?
顔に、一気に血が上昇するのがわかった。
私の状態が伝わったかのように、くっくっくとグレイが苦しそうに笑っている。
そんなに笑わなくても。
「あっはっは。あーオモシロイ。いや、一緒に閉じ込められたのがアナタで良かった」
「そうですか?」
思わず胡散臭げに眉をひそめてしまう。
「そりゃそうでしょう。部長みたいな脂ぎったオッサンと閉じ込められるよりずっとマシ」
「そりゃまぁそうかもしれませんけど」
私の答えのどこがそんなに可笑しかったのかよく分からないけれど、グレイはそれからまたひとしきり笑った。 何だか、全てを吹き飛ばしてしまうような、そんな笑い方で。

その笑い声を聞いていると、閉じ込められてしまった心細さも、 朝からのイライラも少しだけ軽くなった気がして、いた。
「でも、ついてないときって、こんなもんかもしれないですね。
私、朝から嫌なことが続いてて。 ・・・あ、別に大きな失敗したとかじゃないんですけど。 小さなことの積み重ねっていうか、何だかそういうの」

思わず、ポツリと落としてしまった呟きに、グレイはしっかりと返事をくれた。
「嫌なことが続いてたの?」
「うーん。そうですね。でもホントにたいしたことじゃないんですよ?
生ごみ出し忘れたとか。そういうの。」
「ああ、でもそういうのって誰のせいにもできないから。
誰かのせいにできたら、楽なんだけどな」
「そう!そうなんです。結局イライラしてるのも全部自分のせいで」
「俺もね、イライラしてた。仕事でミスして。上司には怒られるし、同僚には迷惑かけるし。それで、 その処理が終わった後・・・屋上に行こうと思って逃げ出すようにエレベーターに乗ったら」
グレイは、そこで一息入れるように言葉を区切った。
微妙な間に、今まで一気にしゃべっていた私の気持ちも少しトーンダウンする。
でもそれはちっとも嫌な雰囲気ではなく、むしろ落ち着いて周りを見渡せるような。
グレイも、私と同じように嫌なことがあったんだなぁって。
そういう仲間意識っていうか。
イライラしていた気持ちがフッとほぐれたのが自分でもわかった。
暗いのにも慣れて、真っ暗な中にも相手の様子が分かり始めてきていたこともあって。
こういうの、「夜目に慣れる」っていうのかな?
・・・実際は夜じゃないんだけど。
顔ははっきりわからないけど、グレイの、細身だけれどしっかりしたラインを描く肩のあたりが ほんのりと見える。

「正直、ここから出たくないんだよなぁ」
僅かに笑みを含んだようなグレイの声を、私は意外に思った。
ため息混じりに言うような台詞なのに、何だかちょっと明るい。
「職場に戻っても、いたたまれないから?」
「いや・・・」

グレイがこっちを見ているのが、暗い中でもハッキリとわかった。
顔の細かいところまでは全然わからないから、多分向こうもそうなんだろうと思うけど。
じっと見つめられているようで、思わず下を向く。

「何だかドキドキしない?」
「なな、何でですか」
心の中を言い当てられたようで、言葉を噛んでしまった。
そう。
さっきから、ドキドキしてる、かもしれない。
グレイがこっちを見てるって分かってるから?
それとももっと前から?
「ほら、よく言うでしょ。つり橋で出会った男女は、恐怖のドキドキと 恋のドキドキを勘違いして恋に落ちやすいって」
「はぁ」
「正直、俺はドキドキしてるんだけど」
「はぁ?」
「仕事でミスって、逃げ出そうとしたらずっと片思いしてた相手がエレベーターに乗ってきた。 それだけでラッキーなのに、この密室の中で二人きり。
ドキドキしないほうが無理だと思うけど。・・・中川由香里、さん」