『くちびる』 春爛漫、というにはまだ早い久住高原の夜。空には満天の星。 さっきまで「キレイキレイ」とまるで子供のようにはしゃいでいた助手席の彼女。吉岡。 やけに静かになったな、と思って横を見ると案の定彼女はすうすうと安らかな寝息を立てていた。 安心しきった、無防備な寝顔。 せっかく二人で星を見に来たのに寝るなよなぁ。 ------なんて気持ちは不思議とわいてこない。 無理もない。寝顔を見ながらしみじみと思ってしまう。 同じ課だから、というか同じ課じゃなくても自然と目に入ってしまう仕事ぶり。 上司からも一目置かれる吉岡の働き様に「少し休め」と言ってしまったのも一度や二度じゃない。 年度末が近いせいで、何かと忙しく、ここ最近は残業続きな上に休日返上で働いてきたのだ。 もちろん、それは自分も同じなんだけど。 でも男の自分より、女の吉岡にはかなりこたえているはずだ。 それを思うと少しでも寝かせてあげたい、気はする。 そんなことを思いながら、吉岡が用意した熱いコーヒーを一口すすった。 □ 「今日、見に行くんよね?」 昼休み。多くの社員でごった返す食堂で、吉岡がこそこそと聞いてきた。 見に行く、というのは先日星を見に行こう、と誘った件だろう。 「おぅ」 こっちは300円の月見うどんをかっくらっている途中だったから、返事らしい返事もできず、 もごもごと熱いのを我慢して、やっとのことで麺を飲み込む。 「じゃあ、頑張って6時には仕事キリつけるけん。8時にウチに迎えに来てね」 「え?オマエ1回家帰るん?」 「うん、お茶くらい用意したいやん」 「おー・・・」 気がきくなあ、とは向こうが調子に乗るから、言わない。 吉岡は用件だけ話し終えると、日替わり定食------どうやら今日は酢豚らしい------のトレイを 持って、さっさと女友達が座っている窓際の席に行ってしまった。 迎えに行くと吉岡は、本当にきっちりとお茶を用意していた。 お茶だけでなく、玉子とツナのサンドイッチも。 今度ばかりは「気がきく」と褒めると、「だって絶対笹倉『お腹すいた』って言うと思って」 と、ほんの少し恥ずかしそうに唇をすぼめた。 □ 今、その唇はわずかに開いて、その間から彼女の規則正しい呼吸がもれている。 オレンジとピンクの中間のような淡い色。 形のいい、少しぽってりとした、くちびる。 してもいいかなあ、キス。 最初はちょっとしたイタズラ心のような感じだった。 目、覚めるかな。 吐息がもれるたびに僅かに震えるその唇を眺める。 もう一度ごくりとコーヒーを飲み込んだ。 何だか全力疾走したような気分だ。 気分っていうか、胸が。 ふ、と大きく息をはいた。 唇から目をそらす。 ああ、やっぱりダメだ。 さっきまでの「寝かせといてやるか」っていう気持ちはどこかに行ってしまった。 寝るな、そんな無防備な顔して。 さっきとは全然違う、自分でも勝手な言い分だとわかっているけど、それくらいドキドキしている。 気がついたら、吉岡の睫毛の1本1本がはっきりとわかるくらいにまで顔を近づけていた。 あと、少し。 だけど。 身近に人の温度を感じたせいか、吉岡が身じろぎをする。 「んー・・・」 まだ夢の中にいます、といった感じではあったけれど、乗り出した身を元に戻すには 充分な声。くそ、あともう少しだったのに。 「あー、寝てたねぇ・・・ごめん」 吉岡は、頬をこすりながらシートベルトのゆがみを直している。 「いや、あの疲れてるんやろ・・・うん」 全然こっちを警戒していないその様子に、何だか良心の呵責を覚えてしまう。 いつもならここで吉岡をからかうような、おちょくるような言葉のひとつも 言うところなのに、シタゴコロのせいか、労わるような台詞が出てきてしまった。 「なにー?どしたん?笹倉、ちょっと変。・・・何か優しすぎる」 吉岡も怪訝そうに、俺の顔をまじまじと見る。 だから。 その唇をこっちに向けるなって。今は。 「・・・たらこにぎり買いに行くか」 唇から考えをそらそうとして、苦し紛れに出した言葉だったのだけれども。 返って墓穴を掘ってしまったようだ。 「は?」 「いやほらーあのー、なんちゅーか。吉岡のさあ、寝顔見よったらな、たらこのおにぎりが食べたくなった」 「たらこ唇って言いたいわけ?」 吉岡の視線が、じとり、とこっちに向けられる。 あ、機嫌損ねたかな、と思ったけど、自分で自分の口が止められない。 「いやー、なんていうの?最近そういう色流行ってんの?ぽってりっちゅーかなんちゅーか」 「今年の春は、『ふっくら』唇が流行りなの」 「あー、そう・・・」 ヤバイ。完全に機嫌を損ねてしまったようだ。 ぷい、と唇を尖らせて窓の方をむいた吉岡の顔は、こちらからは見えない。 窓に反射してないかと、少しでも表情を読み取ろうとしてみても、車内も外も暗いせいか、それも無理。 「なー、吉岡さーん?ゴメンっちゃ。悪かったっちゃ。機嫌直して欲しいんやけど」 ぱん!と拝むように手を合わせた。 そう、ホントにたらこなんて思ってなかったんだって。 ヨコシマな気持ちがなかったといえば嘘になるけど。 ・・・キス、したかっただけなんやけん。 「吉岡さーん?」 もう一度、声をかけてみる。 「・・・どうしてこう、ムードのない・・・」 微かにぶつぶつと呟くような声が聞える。 「は?」 「なんでもない!」 くるり、と吉岡がこっちを------運転席の方を向いた。 さっきと同じように、怒ったように尖らせたその唇は、つやつやと輝いている。 グロスとかいうのでも塗っているんだろうか。男の俺にはよくわからんが。 ああ、やっぱりさっき、奪っておけば良かった。 心の奥底で後悔をした瞬間、肩をつかまれる。 え?と思う間もなく、唇に触れる、柔らかいみずみずとした感触。 ちょうどいい温度。 さっきと同じくらいはっきりと見える、吉岡のまつげ。 吉岡のくちびるが、触れているんだと頭の片隅で理解していたけれど。 突然のことにぼうっとしていて、これから先どうしようとか、こっちから 更にせめようとか考えも及ばない。 でも、それもまるでスタンプを押すように、ほんの一瞬だけのこと。 すぐその温もりも離れて、目の前10センチのところにある、 やっぱりまだ少し怒ったような、さっきまで触れていた形のよい唇を尖らせた 吉岡の顔。 「・・・これでもうたらこおにぎり買いに行かなくてもいいでしょ」 「あー・・・うん」 反則だ。そっちからなんて。 男の方が純情なんだから。 心の準備くらいさせやがれ。 なんて心の中でぎゃあすか騒いでみても、もう後の祭り。 悔しい。 「いや、やっぱり買いに行こう、たらこにぎり」 「ええ?」 悔し紛れに言った言葉に、吉岡が目を丸くした。 いいよ、どうせまたムードがないとか言うんだろ? ムードがないことを言うのは、照れ隠しだっていい加減わかってくれないすかね、吉岡サン。 照れ隠しをしないといけないくらい恥ずかしいことを言いたくなるのは、 それくらいアナタのことが好きだからなんですけど? 悔しいのは、キスを逃してしまったからじゃない。 キスをされてしまったからでもない。 きっと、俺の方がずっとずっと君のことが好きだから。 「じゃあ、もう一回しよっか?おにぎり買わなくてもいいように」 |
とにかく「キス」を書こう、キス話。と思ってたのはいいんですが。 えー。やっぱりこういうの苦手みたいです。甘い話(笑)普段の倍くらい時間かかりました。 最後の台詞、どっちのでしょうね(笑)。 ちなみにこの話『ぶつぶつ』の続編です。←コチラも読んでやってくださるとウレシイ。 >>Novels top |