『長月』 8 ・ 私は一体何に。



6畳のフローリングに、申し訳程度のクローゼット。
キッチンとは名ばかりで背後にすぐお風呂場がある「流し台」。
最低限の家具を置いたら、いっぱいいっぱいになってしまった、自分だけのお城。
小さなアパートだけれど、一人で暮らすのにはちょうどいい広さだと思う。
でも今日だけは、ほんのすこぅし、部屋が狭く感じた。
目の前のテレビでは、裁判とか法律に関する番組をやっている。
弁護士や芸能人が出てきて、日常のトラブルなんかをとりあげているやつ。
特別見たいというわけでもなかったけれど、なんとなく見ている。
ううん、本当は番組の内容なんて、ちっとも頭に入ってきていなかった。
司会の男性タレントが面白おかしくコメントしているのも、再現VTRの 大げさな演技も。


私の神経は、隣のボーダーシャツに------ボーダーシャツを着た浅居くんに集中していたから。


そして、ふと自分の左手人差し指に視線を落とす。
ぐるりと傷テープの巻かれた、なんだか不恰好な人差し指。
割ったお皿を拾おうとして、ざっくりやってしまったのだ。
あーあ、とため息をつきたい気分。
落とした皿は、サラダを盛ろうと思っていた薄手の、ガラスでできていて。
一箇所だけ、花びらの模様が浮いてあって、お気に入りのやつだったのに。
指はちょっと深めに切ってしまったのもあるせいか、まだじんじんしている。
それにお皿より何より、浅居くんに不器用な子だと思われてしまったかもしれない。

あ、やっちゃったと思った瞬間は、そんなに痛くないもの。
じわりと鮮血が指先に滲んだ、その数瞬あとに痛みが襲ってくる。
ぽたりと床にに紅い色が落ちた。
「どうしたの!?」
隣でレタスを洗っていた浅居くんが驚いたように声をあげた。
「手、切っちゃった、みたい・・・」
立ち上がりながら仕方なく、えへへと笑ってみる。
痛いなぁとか恥ずかしいなぁとかいう気持ちがぐるぐると頭の中をかけめぐる。
------と。
急に蛇口からお水が勢いよく出てきた。
ぐい、と左手をつかまれて「え?」と思う暇もなくその冷たい水が人差し指に当てられる。
「ちょ・・、な、に・・・」
痛いよ。
浅居くんが無言のまま、私の左手をつかんで流れてくる水にさらしている。
「しみるかもしれないけど、ちょっと我慢して」
真剣な顔。
たかが指を切っただけなのに。
その顔を見ていると、何もいえなくなってしまった。
指先に、冷たい水が当たる。
なのに浅居くんにつかまれた手が熱い。
浅居くんに触れてもいない頬は、もっと熱い。
流しに落ちていく水と、自分の心臓だけが音を発しているような気がした。





「どした?まだ指、痛む?」
傷テープの巻かれた人差し指に気をとられていた私に気がついたのか、浅居くんが心配そうにこっちを見る。
「ううん、もう全然いたくない」
私は慌ててかぶりをふった。
テレビは相変わらず、訴訟でもめる番組をやっているようだ。
「こんなことって、本当にあるのかな」
何となく間が持たなくて、取り繕うようにつぶやくと、浅居くんはそんな私の様子がおもしろい、 と言った感じにくすくすと笑った。
「本当にあるから、番組になってるんじゃん?」
「そっかぁ・・・」
それは、確かにそうかも。
「あ、そろそろかな」
私の言葉がキッカケになったのか、浅居くんがすうっと立ち上がった。
「もういい感じ?」
私も立ち上がって、浅居くんの背中を追う。
キッチンへと続く扉を開くと、カレーの匂いがいっぱいに漂っていた。


「わ、本当にもういいかも」
冷蔵庫の横に置いてある食器棚から、大き目のお皿を取り出した。
炊飯ジャーを見ると、こっちもいい具合に炊き上がっている。
つやつやと光る炊き立てのお米と、その独特の香り。
「腹減ったぁ」
カレー鍋の蓋を開けながら、浅居くんは本当におなかがすいたように言った。
「じゃあ、ささっと用意しちゃおう」
「うん」
しゃもじで、大皿にご飯をよそう。ふわりと白い湯気があたりにただよった。
「あー、んまそー」
本当に嬉しそうに笑う浅居くんに、ご飯の乗ったお皿を差し出した。
「じゃあ、たっくさんついでいいよ?」
「言われなくても」
浅居くんがお鍋をかき混ぜると、ころころと野菜が姿を見せる。
ゆっくりと煮込まれて、角の取れた------ううん、最初から面取りをすませた野菜たち。

「せっかく作るんだから、手間ひまかけようよ」
という浅居くんの提案で、にんじんもじゃがいもも、すべて面取りをしたのだ。
正直、驚いてしまった。
そりゃあ面取りをしたほうが、煮くずれはしないし、見た目もきれいだし。
でも、ものすごーくめんどくさい作業を男の人が「しよう」って言い出すなんて思いもしなかった。 それを口にすると、浅居くんは「こういう特別なときって、特別なことしたくない?」と言った

特別なとき。

その言葉を聞いたとき、なんとなく、胸の奥がうずいた。

確かに、特別なのかもしれない。
誰かと一緒にご飯を食べるっていうことは。
一人暮らしをしていると、特にそう思う。
料理を作るのも、「おいしいね」と言い合うのも。
あたりまえのように思えて、でもきっと特別なんだろう、きっと。

でも。

そう。「でも」と前置きをせざるを得ないんだけれど。
その「特別な」と思う感覚が鈍るほど、私と浅居くんはまだ一緒の時間を過ごしてはいないんだ。
わかっているけれど、少し、寂しくなった。

私は一体、何に不安になって、何に嫉妬しているんだろう?


「これ、もう向こうに持っていっていい?」
目の前にたっぷりとカレーの乗ったお皿を持った浅居くんが私をのぞきこんだ。
「あ、うん。お願い」
「またぼうっとしてんだもん。いや、ぼうっとしてるのはいつもか?・・お皿は割るし、指切るし」
くくく、と鼻にしわを寄せて笑う。
「ひどーい」
ぺしり、とその肩を叩いてやった。
「ひどーい。暴力反対」
私の口調をまねしながら、浅居くんは二人分のお皿を持ってテレビのある部屋に入っていく。
紺と白のボーダーシャツを着た背中。
その背中をもう一度見て、冷蔵庫をあけた。
カレーの前に作って冷やしておいたレタスサラダを取り出す。
チーズをこまかく切ってちらした、サラダ。
ついでにドレッシングも取り出す。
それをお盆に乗せて、キッチンと居間を仕切る扉をあけた。
さっきまでと違って、ここにも部屋いっぱいにカレーの匂いがただよっている。
香辛料と、なんだか懐かしい香り。

「じゃあ、食べようか」
テーブルの上に、それらを並べて、きちんとセッティングする。
コップに注がれたペットボトルのウーロン茶、カレーにサラダ。
高級なディナーとは程遠いけれど。
目の前の浅居くんが、嬉しそうにスプーンを手にとっていたから。
いつか、これが特別なことではなく、あたりまえのことになるのだと。
信じてみたいと思った。







「ごちそうさまでした」と言ってから、約3時間。
借りてきたビデオを見て、傷口がしみるだろうからと言って、後片付けは浅居くんがしてくれて。
『明日』を迎える、ほんのちょっと前。
そろそろ帰るな、と浅居くんが立ち上がった。 小さな玄関で、少し窮屈そうにスニーカーをはいている。
私のものとは全然違う、大きなスニーカー。
大きいって言っても、標準サイズだよと浅居くんは苦笑していたけれど。

「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「そっちこそ、火の元と、戸締りと・・・気をつけろよ。変なオッサンが来ても ドアあけちゃダメだぞ」
「なぁに、それ。小学生じゃないんだから」
「俺はそのオッサンを心配してんの」
「ええ?」
「背後から襲われたらたまらないからなぁ」
「もう、ほんとにそういうことばっかり・・・」
怒るよ?と少し怖い顔をしてみせた。
それでもこんなのちっとも迫力がないってわかってる。
浅居くんの瞳は、まだ笑ったままだもの。

それに。

恋は、気持ちが大きいほうが、負けなんだもの。


「今日はあんまり水、触るんじゃないぞ?」
ぽふぽふと私をなだめるように、浅居くんの手が、頭をなでていく。
「・・・うん」
「や、悪かったって・・・そんなに拗ねるなよ」
ごめん。
浅居くんが小さくつぶやいた、その瞬間。
胸の奥に、何かが沸き立つのを感じた。

拗ねているのはね。
そうやってからかわれているからじゃあ、ないのよ。


「浅居くん」
「なに?」
「・・・キス、していいかなあ?」
「え?」

返事を待たず、私は浅居くんの頬に、自分の唇をそっと押し当てた。
精一杯つま先立ちをしても、まだ足りないくらいの高い身長。
彼の肩に手をおいて、ほんの少し、勢いをつける。

自分のものとは違う温度。
男の人の肌って、もっとごつごつしているものかと思っていた。
好きなんだ。
私は、この人のことが。
唇ごしに伝わってくる体温が、こんなにもいとおしいなんて知らなかった。


触れていたのは、ほんの数瞬。
唇を離すと、驚いたようにこっちを見ている浅居くんが、いた。
「・・・突然、ごめんなさい」
でもね、したくなっちゃったの。
頬、っていうのが精一杯だったけど。
「・・・ほんと、びっくりした」
浅居くんの左手が、ゆっくりと自分の頬に伸びていく。
私の唇が触れていたところを確認するように。
「頬だけで、いいん?」
「だけって」


あ、と思う間もなく、今度はもっとやわらかい温度が唇に落ちていた。
さっき触れたばかりの頬が、同じくらい近くで、そして違う角度で見える。
浅居くんの睫毛と、閉じられたまぶた。
知らず知らず、自分も瞳を閉じていた。
背中にある、腕の温もりと、唇の温度がちょうどよくて。

そのときは、彼をとりまく薄い膜も自分の中のどうしようもないこだわりも。
夜の中に消えてしまったような気がしていた。


そのときだけは。


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