『長月』 7 ・ 百日紅(さるすべり)



路面はしっとりと濡れていて、いつもよりアスファルトの匂いが強く漂っている。
街灯は、白くぼんやりとした明かりを投げかけていた。
いつものように------というほど回数を重ねてはいないけれど------ バイトの帰りに待ち合わせをして。
同じ方向の電車に、並んで座って。
こうして、お互いのアパートまでの道を、歩いている。
恋人同士というような甘い雰囲気は、まったくといっていいほど、ない。
でも、それも仕方ないなあと思う。
私から告白して、始まったのだもの。
浅居くんにしてみれば、ほとんど知らない女の子から突然告白されて。
それなら、オトモダチから始めましょう、というところなのだろう、きっと。
わかっている、けれど。
じゃあ、どうして浅居くんは「オトモダチ」になろうと思ったんだろうか。
見たところ、いわゆる世間一般にいう女好き、という雰囲気でもなさそうだし。
ぱっと目を引くというわけではなかったけれど、落ち着いた顔立ちの彼は、 その気になれば彼女の一人や二人、簡単に作れそうな気がする。

でも。

------でも、近づきにくい雰囲気だよね。
私はカサを振って、雫を追い払いながら考えた。

なんていうんだろう。
きっと、私だけじゃなく、彼に近づきたいと思っていた女の子はいたはず。
でも、それをさせない雰囲気が彼にはある。
薄い膜、っていうのか。
それが彼全体を包んでいる。
薄いのに、きっちりと。

だから、私の考えはまたぐるりと一周してしまう。

どうして、私と「オトモダチ」になろうと思ったの?




「雨、やんでよかったな」
歩道のわきにできた水溜りを器用によけながら、浅居くんが言った。
「うん。・・・大学出たときはどしゃぶりだったのにね」
私の右手にも、彼の左手にも、傘が握られている。
9月になってから、夕立がよく降るようになった。

この雨が終われば、きっとすぐに秋が来る。


「あ」
突然、浅井くんが何かを見つけて立ち止まった。
「どうしたの?」
「・・・百日紅だ」
路面と同じように濡れているブロック塀の向こうには、浅居くんが指差すとおり 百日紅が植えられている。
「懐かしいなぁ。これ、小学校のグラウンドに植えられててさ」
「そうなの?」
「うん、小さいころ、くすぐって遊ばなかった?」
「ええ?全然」
「まったくこれだから都会っ子は」
冗談を言いながら、指で葉っぱをくすぐっている浅居くんは、本当に子供みたいな顔で笑っている。
その笑顔につられて、私も手を伸ばして葉っぱをくすぐってみた。
くにゃり、と指の動きに沿って、はっぱが動く。
「な?くすぐったそうだろ?」
「うん」
顔を見合わせて、笑う。
たったこれだけのことで、胸の奥がふわふわと幸せになれるから、不思議だ。


「ねえ、浅井くんはどういう小学生だったの?」
ふと思いついて、百日紅を触る楽しそうな横顔に聞いてみた。
「え?」
「どうしようもないイタズラっ子だったとか」
「まさか。成績優秀、品行方性、女子生徒のあこがれ・・・なわけないな」
「うん、絶対違うと思う」
「なんだよ、わかってんじゃん」
浅居くんは、くくく、と笑いをかみ殺している。
「じゃあ、中学時代は?」
「んー、あんまり変わらない。やっぱり田舎でのーんびりしてたから」
「そうなの?」
「そうだよ。こっち・・・東京みたいに進学にうるさくない土地柄だし。 普通に部活して勉強して、遊んでた」
「ふうん・・・じゃあ、高校時代は?」


何気なく、出た質問だった。
今までの話の流れから、聞いてもおかしくない、質問だと思った。
でも。
その言葉が私の口から出た瞬間。
百日紅の上の、浅居くんの手が止まった。


「・・・別に?普通だよ。中学時代と一緒」
そして、それ以上のことは何も語ろうとしない。
さっきまでの笑顔も、どこかへ行ってしまった。

変わりにあるのは、少し強張ったような固い表情。


どうしよう。
私、何かヘンなこと聞いたっけ?

雨が降って、たっぷりと水分をふくんだみずみずしい空気。
秋の夜空は、どこまでも澄んでいるのに。
それは、浅居くんにとって、まったく届いてないみたいだ。


「どうしたの?」
「え?」
「・・・怖い顔、してる」

怖い顔、っていうわけではなかったけれど。
他に適当な言葉が見つからなかった。


心の奥底を見られてしまったような。

そんな、顔。


一瞬弱い風が吹いて、百日紅を揺らしていった。
さっきまで浅居くんが触れていた葉が、ざわりと音を立てる。

「や、怖い顔は生まれつきだから」
浅居くんは何かを押しとどめるように、すう、と一度息を吸い込んでからこちらを見た。 冗談ぽく言うその顔には、もうあの表情は浮かんでいない。

私も、その顔を見て少しほっとする。


高校時代、何があったの?

聞きたい。
けど、聞けない。
浅居くんに、またあの顔をさせてしまうのが、つらい。

黙り込んでしまった私を、浅居くんが心配そうにのぞきこんだ。
「どした?ごめん。なんか言い方キツかったかもな」
「ううん、全然そんなことない」

違うよ。
何か私が言っちゃいけないことを言ってしまったんでしょう?
それなのに、どうして浅居くんが謝るの?
------気を、使われてる。
ぼんやりと、街灯がにじんで見えた。
どうしよう。
このままじゃ、目が潤んでるのが気付かれてしまう。

私は、百日紅からそっと離れて歩き出した。
「帰ろう。すっかり遅くなっちゃった。明日私、一限目から講義なのに」
「あ、俺午後からだ」
「ええ、いいなぁ」
「でも、昼からの講義って返ってめんどくさいぞ」
「あはは。そうかもね」

私と歩調を合わせるように歩き出した浅居くんに、顔を見られないように少し後ろを歩く。
すんなりと伸びた背中。
意外と骨ばった腕。
わずかに日焼けした首筋。
そういう、浅居くんを形作るひとつひとつを眺めながら歩いていたら、 少しずつ視界ははっきりとしてきたけれど。

こうやって近くを歩いていても。
まだ、遠い。
まだ、近づけない。
まだ、薄い膜が彼をうっすらと覆っているような気がする。


「なんで後ろ歩いてんの?」
突然、足を止めて浅居くんがふり返った。
まっすぐ見つめられて、思わず下を向いてしまう。
「ん?んー・・・なんとなく」
「後ろから不意打ちしようとか思ってたんだろ」
「当たり」
そんなこと、思ってなかったけど。
さっきの重たい空気がまだ少し残っているみたいだったから。
浅居くんの軽口に合わせて、笑ってみる。
「うわ、こわぁ。俺、明日生きてないかもしれない」
「冗談言い過ぎ」
わざと肩をふるわせている浅居くんを、指でつついてやった。
指先から伝わる、わずかな体温。


ふ、とその体温が手全体に広がった。


「え」
驚いて顔をあげると、もう浅居くんはこっちを見てはいない。
だけれども、浅居くんをつついた指が------ううん、その手全体が。
私のものよりも大きな浅居くんの手に包まれている。

「危ないから」
一言だけ言うと、浅居くんはまた歩き始めた。
手は、握ったまま。
私が冗談でも不意打ちをしかけるのが危ないのか、夜の道が危ないせいなのかはわからなかったけれど。

じゅうぶんだと、思った。
指先から、手のひらから伝わる温もりが、それでいいと言っているような気がした。


薄い膜は、まだ浅居くんを包んでいる。


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