『長月』 6 ・ 雨上がり



教授のための研究室ばかりが入った研究棟は、短大敷地内の北側に位置している。
講義棟とは正反対に立っているためか、このあたりに学生はほとんど寄り付かない。
しかもお昼休みではなく、突然休講になってしまった時間-----空きコマと言うのだけれど-----なら なおさらだ。

水曜日。
突然1コマ目が休講になったことを掲示板で知った私たちは、研究棟の1階に集まり
自動販売機で買ったジュースを飲みながら、次の授業までの時間を潰すことにした。
研究棟の1階は、おそらく教授用に用意されたものだと思うのだけれど、
入り口付近に自動販売機が数台設置され、数人が座れるようなスペースまで確保されている。
私たちは向かい合わせに置かれたソファに腰をおろした。

「大体さー、突然休講にするなら前日から張り紙貼っておいてって感じだよー」
「そうそう。それならわざわざ1限目から出てこないって」
「私昨日コンパだったんだよね〜・・・こんなことならもっとゆっくり寝ておくんだった」
それぞれ70円の紙コップを手に持ち、突然休講になった英文学史の教授の文句を言っている。

みんなには申し訳ないけれど、私にとってはちょっと・・・ありがたい時間かも。
アイスコーヒーが入った紙コップを見つめながら、心の中でつぶやく。

紙コップは周りの温度のせいか、うっすらと汗をかいていた。
ほんの少し、しっとりとした感触。
それを確かめるように指先を少し動かした。
指の動きに合わせて、透明な水のラインが浮かび上がる。

昨日の雨は、すっかり上がってしまった。
細い糸のような雨だったのに、地面には今でも水溜りが残っている。
研究棟入り口のガラス越しにそれを見つめて、昨日の夜のことが夢じゃなかったことを 改めて実感した。
なんだか、とても不思議な気分だった。

あんなことが言えたなんて。


「私と、付き合ってくれませんか」


驚いたような顔をしていた、彼。---------当然だと思うけれど。
自分でも、どうしてあんなことを言えたのか、ううん、言ってしまったのかよくわからない。


「里美、里美ってば」
「え、あ・・・ゴメン。ボーっとしてた?」
隣に座っていた律ちゃんに腕をつつかれて、我にかえる。
「まぁね、里美がボーっとしてるのはいつものことだから」
「そうそう、明るいんだけど、どっか抜けてるんだよね」
律ちゃんの言葉に、私のちょうど真正面に向かい合っていた裕子も頷いている。
失礼だな、もう。

「こんなことじゃ、彼氏もできないよー?ホラ、なんだったっけ。例の電車の彼」
「あー、そうそうそう。毎日電車で見かける人でしょ?」
「里美がチカンにあいそうになったのを助けてくれたんだっけ?」
みんなの話が、今一番私の心の中を占めている出来事に触れて、思わず口に含んでいた アイスコーヒーを吹き出しそうになってしまった。
わわわ、ハンカチハンカチ・・・・。
焦ってカバンの中からハンカチを取り出そうとしている私を見て、律ちゃんが 何か気付いたような目をした。
「なに動揺してんの〜?里美っ。里美ちゃんっ、隠し事はなしでいこーよ」
「え、別に。隠してるつもりじゃ・・・」
「じゃぁ何そんなに焦ってんの」
「焦ってなんかないよ。チカンにもあってないってば」
と、言い訳してみるものの。
絶対バレてるなぁ・・・これは。
はぁ、と一つため息をついて、私は口を開いた。


私には、気になる人がいる。
毎朝同じ電車に乗っている、人。
特別目を引く容姿なわけじゃない。
ただ、毎朝毎朝同じ電車に、同じホームから乗っていたら顔くらいは覚えてしまうもの。
その程度だった。

あの朝までは。


***


あ・・・あの子、ひょっとして。
それに気がついたのは、偶然だった。
ゴトゴトと揺れる電車の中で、うつむいてギュッと眉を寄せている女の子。
近くの有名女子高らしい制服を着ている。
出入り口近くの手すりを掴んでいる彼女の後ろには、スーツを着たサラリーマン風の男がぴったりと密着していた。
痴漢・・・?
そう思うのだけれど、いまいち私の位置からは確認が取れない。
見えるのは、彼女の困ったような顔だけなのだ。
しかもこの満員電車の中。
痴漢ですって、言ってあげたい。
だけどもし違ってたら・・・。
動こうにも動けない。
どうしよう、何で誰も助けてあげないの!?
ぎゅっと、ベタつく手でつり革を握り締めたそのときだった。

「気分、悪いんじゃないですか?」
男の人の声が、した。
それと同時に密着していたサラリーマン風の男との間に、わずかな隙間がうまれた。
「え・・・・」
驚いたように顔を上げた女の子は、ほっと安堵の色を浮かべる。
「席、座らせてもらったほうがいいかも」
『彼』の一言で、一番端の席に座っていた一人の中年女性がすっと腰を上げた。
「そうね、なんだか顔色がよくないわ」
ひょっとしたら、この女性も気がついていたのかもしれない。
「す、みません・・・・・」
ほんの少しあいた人と人の間を縫って、女の子はあいた座席に座る。
相変わらずうつむいたままだったけれど、その顔は安堵の色でいっぱいだった。

それだけのこと。
だけど、その日以来、何となく彼の姿を追うようになってしまって、いた。


***

彼の名前も、どこの大学に通っているのかも。
簡単にわかってしまった。
彼が、毎日使っているのは、都内でも有名な私立大学の最寄駅だったし。
家庭教師で教えている子のために、何軒か本屋めぐりをしていると バイトしているらしい彼を見つけた。
濃いブルーのエプロンをして、胸元のネームプレートには多分彼の手書きだろうって思うような字で 「浅居」ってあったから。

一目ボレって、ほんとにあるんだなぁ、なんて。
電車のつり革につかまって、文庫本を読む彼の------浅居くんの横顔を眺めたりして。

だから。

偶然、電車でぶつかって。
困らせてる、ってわかっていてもその場から立ち去ることができずに、ぐずぐずと 電車賃のことを持ち出した。
彼にしてみれば、駅に降り損ねた上にしつこくつきまとう嫌な女の子だと思ったかもしれない。
でも、偶然のチャンスだからこそ、逃したくなくて。
今度は、浅居くんがバイトしてるって知ってて、本屋で呼び出した。



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