『長月』 5 ・ 白い手



外では糸のような霧雨がしとしとと降っている。
雨は今夜中には上がるでしょう、と天気予報は言っていたが、まだその気配はなさそうだ。
それでも雨が降っているなんてわからないくらい、店内は明るい。
壁にかかっている時計をちらりと見る。針は既に9時半を回っていた。
店内には現在ヒットチャート急上昇、というCDがエンドレスでかかり、 明るい曲調に乗せた女性ボーカルの声が店内に響いている。
このCDを買ってもないし、特に好きというわけでもないのに、歌詞はすっかり頭の中に入ってしまっていた。
メロディーに合わせて頭の中で歌詞がぐるぐると回りだす。
悪循環を絶つためにも、最後のスリップチェックに行こうかとコミックの袋詰をしていた手を止めた。

僕は週に3,4日、本屋でバイトをしている。
大学とアパートのちょうど中間にあって、時給もまあまあ。
立地条件がいいらしく、いつも客足が絶えない。
その分忙しいが、暇を持て余しているよりずっといい。

余計なことを考えずに済むから。

「後ろ、失礼しまーす」
レジのカウンターに立つ同じバイト仲間に声をかけ、壁際に置いてあるスリップを手に取った。
スリップというのは、本の中に挟まっている色付のしおりのようなものだ。
これを会計のときに抜き取り、どの本が売れたか在庫確認をし補充をする。
またスリップの半券を出版社に送ると、お金になるのだそうだ。

コミック棚の端に設置された机に戻り、スリップを色ごとにわける。
出版社によってスリップの色が違うため、こうして色分けしていると後で在庫補充がやりやすくなる。
しゅっしゅっ、と調子よくスリップが触れ合う音がする。
この作業が早くなったと実感できたときは嬉しかった。
意外と自分は手先が器用なんじゃないかと勘違いしてしまうほど。

「すみませーん、4番お願いしまーす」
レジ係の女の子から声がかかった。
「はーい、今行きます」
4番、というのはコミック棚、そしてコミックと反対側にある学術参考書棚の番号のこと。
僕が担当している場所だ。
スリップの整理は途中だったけれど、バラバラにならないように机の上にそっとおき、レジ前に走った。

レジの前には、女性が立っていた。
長い栗色の髪が、少しだけしっとりと濡れている。
「こちらのお客様が学参(学術参考書)についてお聞きしたいそうです」
「あ、はい。わかりました。じゃこちらに・・・・」
レジ係の女の子からお客様を引き継いだ僕は「あ」と声を上げた。
岩代里美だった。
彼女も僕に気がついたらしく
「あ」
の形に口を開いた。そして、その唇はゆっくりと笑みの形に変わってゆく。
それにつられて自分も曖昧な、笑いを浮かべてしまっていた。
レジ係の女の子が不信そうな顔をする。
僕は慌てて「こちらです」と岩代里美を誘導するように歩き出した。

「・・・たくさんあるんですねぇ・・・」
岩代里美は本棚を見上げ、呟いた。
「中学生用の英語の参考書ですよね。でしたら・・・この出版社のとか結構売れてますけど」
知り合いとは言えー知り合いとも言えないかもしれないけれどー、客なので敬語で説明をしながら、彼女の様子をそっと観察する。
相変わらず、長い髪。雨の中を歩いてきたせいか、僅かに水分を含んでいる栗色の髪。 今日もあの香りがしている。今日は特に強く。空気が湿気を含んでいるせいかもしれない。
それにしても雨の中、こんな時間に参考書?しかも中学生用の?
疑問が顔に表れていたのだろう。

「家庭教師してるんです、私。・・・じゃあ、これにしますね」
僕が売れ筋だ、と薦めた参考書を手に取りながら、彼女が笑った。
「あ、はい・・・会計はレジの方でお願いします。・・・ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
「ここでバイトしてたんですね。何回かこのお店来てたけど・・気がつかなかったな」
「ああ・・・ええ。まぁ」
何が「まぁ」なんだ。
彼女の言葉に上手く応えられない自分を情けなく思った。

いつだって、そうだ。
気になる人の前では、無口になってしまう自分が、いる。

「何時にバイト終わるんですか?」
「10時です」
「お腹、すいてませんか?」
そう言われて、昼から何も食べていなかったことを思い出し、腹を押さえる。
「・・・・すいてますけど」
「じゃあ、向かいのマックで待ってますね」
彼女は店の窓から見えるマックを指差し、笑いながら 『今日はオゴリじゃないですよ』と付け加え、レジへ行ってしまう。
彼女の背中で、栗色の髪がゆらゆら揺れていた。


「お先に失礼します」
まだ店内に残って今日の売上を計算している店長に声をかけ、裏口の戸を開く。
片付けと終了報告を終え、店を出たのは10時半を過ぎていた。
ポン、という音をさせて傘を開くと、ぱらぱらと水滴が落ちていく。
すっかり遅くなってしまった。
いや、どんなに急いで片付けをしたとしても10時半近くになるのだ。
いつものことなのに、もう少し早く終われなかったのだろうかと少しイラついた。
それにしても、まだーというか、本当に岩代里美は待っているのだろうか?
とりあえず行ってみないことには仕方がないよなぁと呟きながら、 彼女が待ってくれているのか心配している自分に気がつく。

心配?
彼女が待ってくれているか、どうかが?
気になっているから?

・・・別に待っていなくてもいいじゃないか。
岩代里美は里美であって、聡美じゃ、ない。
ヨシ、と、何故か気合を入れ、霧雨の中に一歩踏み出した。


***


店の中はファーストフード特有の匂いがしていた。
ポテトと、それを揚げる油の匂い。
一度雫を振り払った傘を傘立てに指し、レジへと向かう。
マニュアルなのだろうけれど、にっこりと明るい笑顔で迎えてくれるレジの女性にコーヒーとポテトを頼み、 それをトレイと一緒に受け取った後、きょろりと店内を見渡した。
時間も時間だし、それにこの雨のせいなのか店内に客はまばらだった。
仕事帰りなのか、新聞を読みながらコーヒーを啜っているサラリーマン風の男性。
額を寄せ合うようにして、会話している高校生のカップル。
・・・彼女は。
いた。
窓際の席に座り、ノートを開いて何か書き込んでいる。
シャーペンを握る手を、思わず見つめてしまった。
白い手だな、と思う。きちんと切りそろえられ、 色のついていないエナメルだけが光る爪が好感を与える。
気配に気がついたのか、岩代里美がノートから顔を上げた。
「こんばんわ」
「・・・こんばんわ」
軽く頭を下げ、彼女が座っているテーブルに向う。
ここ、いいですか?と尋ねると、彼女はもちろんという風に頷いた。
トレイを置き、彼女と向かい合うようにして腰掛けコーヒーを手に取る。
「コーヒーとポテトだけなんですか?」
驚いたように目を丸くする里美のトレイを見ると、既に食べ終わったらしいハンバーガーの 包み紙と、残り少なくなってすっかり冷め切ってしまったポテトの袋が申し訳なさそうに乗っていた。
「お腹は空いてるんだけど・・・食べる気にならなくて」
あなたと会うから、緊張してるんです、とはさすがに言えなかった。
「そうなんですかぁ・・・私はダメだな。バイト終わると、もうお腹空いちゃって」
一応、生徒の家でもお茶菓子が出るんですけどねぇ、足らないんです。
照れたような笑みを浮かべ、岩代里美はストローに口をつけた。

相変わらず雨はしとしとと降り続いている。
里美の何気ない仕草を、目で追う。
彼女はかなり屈託のない性格のようだった。
僕の話の一つ一つに笑い、頷いてくれる。

そして僕は。
彼女と『彼女』の違いを探そうとして、必死だった。

「今日はお話があって、ここに来てもらったんです」
コーヒーも半分ほど飲んでしまい、すっかりぬるくなってしまった頃。
岩代里美は、少し緊張した面持ちで切り出した。
それまで、お互いの大学の話などをしたり、 ただ売れ筋を言っただけなのに僕が薦めた参考書は本当にいい、 などと誉められたり、していたのだけれど。
「・・・何ですか?」
予感が、あった。
自惚れるわけではないけれど、たった2回しか会った事のない人間をこうやって誘うだろうか? 少なくとも、嫌いだと思っている相手にはしないような気がする。

「私と付き合って、くれませんか」

里美の瞳はまっすぐこちらを向いていた。強いくらいに。
思わずコーヒーの入った紙コップを握る手に力が入った。
さすがに、すぐには返事ができずにいた。
好きかと問われれば、完全に否定できる。だけど。
嫌いかと聞かれたら、否定できない。
少なくとも、気になっている存在だから。

「・・・好きな人でも、いるんですか?」
上目遣いで、そっと尋ねてくる彼女をかわいいと思った。
気になる存在。でも、それだけだ。彼女は里美であって聡美じゃない。

「・・・いや、いない」
もう、この世には。


僕の様子を察したのか、里美は顔を下に向け、トレイを見つめた。
「でも、ダメなんですよね?」
里美の声は諦めを含んでいるようだった。
もう一度きっぱりと顔を上げ、口元に笑みを浮かべ、僕の顔を見つめる。
断ろうと口を開いた僕の気配を敏感に感じ取ったのか、里美は慌てたように手を振った。
「あ、いいです。あの、もう分かってますから。・・・言わないでくださいね。 っていうか、その、うん。あの・・・ヘンですよね。たった数回会っただけなのに告白なんて。 だから、あの」
忘れてください。
最後の一言は、掠れていて、僕の耳にやっと届くか届かないかわからないほど小さな声だった。

断ろうと、思っていた。
それなのに、どうして見つけてしまったんだろう。

甘い香りがする。胸の奥がちくりと痛む。彼女の髪が揺れていた。
髪だけじゃなく、白い手も、震えていた。微かに。
それに併せるようにエナメルがきらりと光る。
顔は笑っているのに、手が泣いていた。泣いているように、見えた。
だから。
気がついたら、口から出ていた言葉。

「これから、バイトが終わったら、ここで待ちあわせしようか」



あああ。ツラかった。元ネタから大幅に変えて丸々書き直してしまいました(^^;。
ちなみにこの『長月』を書くときのBGMはラヴサイケデリコの『Last Smile』。
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