『長月』 4 ・ 好き 目の前に妙な圧迫感を覚えて、まぶたを開いた。 顔面5センチの距離に、見慣れた顔が迫っている。 友人の佐藤だ、と認識する前に、叫んでしまっていた。 「うわ」 思わず声を出すと、その「顔」は急に離れていったかと思うと、不機嫌そうに口を開いた。 ついでにペチン、とおでこを叩かれる。 「何が『うわ』だよ。・・・ったくお前は・・」 阿呆。 目の前にあるのはムサい男の顔なんかより、綺麗なオネーチャンの方がいいに決まってるだろうが。 そんなことを考えていると佐藤は気持ちを読み取ったのか、心なしか険のある声で言った。 「あのなぁ、ちゃんと鍵かけてから寝ろよ。無用心だろ。」 「・・・悪かったよ。昨日すっげ呑ませて貰ったからさ。ちょっと頭痛くて」 起き上がり、頭をがしがしと掻きながら謝る。 昨日は(と言ってももう「今日」なのだが)帰り着くなり、ベッドに倒れこむようにして眠ってしまっていた。 謝りながらも、まだ頭の中はぼうっとしている。 カーテンを開けると、眩しい光と青い空が飛び込んできた。 かなり日が高くなっているようだ。それにきっと気温も上がっているのだろう。 クーラーをつけっぱなしで寝てしまったから、暑さを感じらずにすんだけれど。 今月の電気代のことを考えて、少し後悔しながら枕もとに置いてある携帯を手にとった。 シルバーのつるりとした感触が気に入っている、携帯。 好きなアーティストの壁紙にしてあるディスプレイには、「13:26」とあった。 指を折りながら、睡眠時間を数えてみる。 (えーと、昨日寝たのが明け方で。 それから・・・1.2.3・・・あ、何だかんだ言って結構寝てるんだ、俺・・・。) 結局8時間近く寝ている計算になる。 さすがに寝すぎたかもしれない、と思った。 明後日からは前期試験が始まるのだ。 佐藤はそんな僕の様子を見て吹き出した。 「まぁなー。あれだけ呑んでりゃ頭の一つも痛くなるわなぁ。・・・ったくザルのような胃をしやがって」 「・・・頭は一つしかねーよ。それにザルのような胃って何だそりゃ」 言いながら、僕はまたベッドに横になった。 スプリングの、ぼすん、とした感触が背中に当たる。 「それはだな。『呑んでも呑んでも溜まらない』ってヤツだ」 返す言葉もない。 それが二日酔いで苦しんでいる友に向かっていう言葉か。 「で、そのザル君にお願いがあるんだけど」 「何だよ」 「民法のプリントあったじゃん?10枚くらい束ねてたやつ。あれ貸して欲しいんだけど」 「あー・・・・それならそこのテーブルの上に置いてある」 僕は部屋の真中のコタツ兼勉強机を指差した。 もちろん今は9月だから、コタツ布団はかかっていない。 佐藤はごそごそとプリントを探し始めた。 テーブルには試験用のノートやプリント、マグカップなどが乱雑に置かれている。 「きったねーな。少しは整理しろよ」 「人のこと言えないだろ」 「へいへい、すんませんねー・・・っとあった。んじゃこれ借りてっていい?」 佐藤は黄色いマーカーペンでチェックの入ったプリントの束をひらひらとさせた。 「どーぞ。それもうチェックし終わったし。それにその試験持ち込み可だから、試験の直前に返してくれればいいよ」 「おー、サンキュ。んじゃな」 「・・・ちょっと待った」 そそくさと帰ろうとしている佐藤を呼び止める。 「ん?何だ?」 「そこにヤカンがあるだろ?水沸かして、味噌汁作ってくれ」 「はぁー?何で俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」 「頭が痛くて動けない」 簡単だろ?と付け足すと、佐藤はへいへい、わかりましたよー。と呟きながら台所に立った。 僅かにお湯が沸いている音が聞こえる。 佐藤は勝手知ったる他人の家、とばかりにTVの電源を入れていた。 あまり名前の知られていない芸能人が外国で食べ歩く、というグルメ番組。 土曜日の午後はどうしてこんなに面白くない番組ばかりやるのだろう。 「・・・面白いか?」 聞いてみると、案の定答えは 「いーや」 という気の抜けたものだった。 そっか、やっぱそうだよな。 ビデオでも借りてこようかな・・・と思ったが、テストのことを思い出して、やめた。 「なぁ」 TVの画面に目を向けたまま佐藤が話し掛けてきた。 片手で、所在なげにリモコンをいじっている。 「何だよ」 「一つ聞いてもいいか?」 「だから何だって」 「お前のこと紹介してくれっていう女の子がいるんだけど」 「はー。物好きもいるもんだ」 「やっぱダメか」 思わず口をつぐんだ。 佐藤と目が合わないように視線を天井に向ける。 「お前ってさー・・・女の子と付き合ってもすぐ切っちゃうし。誰か好きな人でもいるのか?」 「・・・・・・・・・・」 何も言えなかった。 何と言っていいのか、わからなかった。 肩まで伸びた黒い髪。 淡い影を落とす、目元。 好き。 好きな人。 佐藤はそんな僕の様子に苦笑いしながらヤカンの火を止めるために、台所に行った。 僕は何となくぎこちない雰囲気になってしまったことを申し訳なく思った。 ごそ、とベッドから起き上がり、ふらつく頭を抑えながらインスタント味噌汁の封を開ける。 お湯と一緒に箸も持ってきてくれたらしい佐藤に礼を言い、カップに湯を注いだ。 白い湯気とともに、味噌独特の香ばしいにおいがたちこめる。 味噌汁に息を吹きかける。 いわゆる「猫舌」というやつで、熱いのはどうも苦手だ。 早く冷めるように、箸でカップの中をぐるぐるとかき混ぜた。 「んじゃ、俺帰るわ。プリント、サンキュな」 「ああ、また来週」 ひらひらと手を振ると、佐藤は、ここまでよくしてやるヤツなんて女でもいねぇぞぉ、 などと言いながら家を出ていった。 何言ってんだ。いるかもしれないだろ。 パタン、とドアの閉まる音を聞きながら、また味噌汁に息を吹きかける。 「今はいないけど」 そう呟いた瞬間、急に部屋の温度が下がったような気がした。 そういえば。 4年前のあの日も、こんな晴れた日だった。 暑い暑い日で。 蝉がうるさく鳴いていた。 *** その日は終業式だった。 1,2時間目は通常授業、3,4時間目が大掃除。そしてやっと5時間目が終業式。 僕が通っていたのは世間で「進学校」と呼ばれている学校だった。 そのため終業式の日までもしっかり授業がある。 めんどくせぇなぁ。 友達とそんな言葉を交わしながら、弁当を食べ終わり、ぞろぞろと体育館に向かう。 けれども、みんなその足取りはどこか軽い。 終業式を迎えたからといって、すぐに休みに入るわけではなく、 これからしっかり10日間ほどの補習期間が始まるのだが、やはり「夏休み」になるのは嬉しい。 体育館へと続く渡り廊下を半分ほど行ったときだった。 体育館へ向かう生徒たちの中に、もう見慣れてしまった、肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪を見つけた。 友達に一言「先行くから」と告げ、急いでその背中を追いかける。 「妹尾さん」 僕と彼女は、あの化学室の一件依頼、言葉を交わす程度の仲にはなっていた。 それでも彼女に声をかけるときは、いつだって少し緊張する。 あのとき化学室で切った傷は、いまだにうっすらと聡美の左腕に残っている。 それを見るたびに、申し訳なさでいっぱいになるのだけれど。 ほんの少し、彼女と自分のつながりを見るような気分になるのは自分勝手な気持ちなのだろうか。 「あ、お疲れ」 何が「お疲れ」なのかよく分からなかったが、振り返った彼女がにっこりと笑ったので 僕もつられて笑顔になる。 「暑いな」 歩きながら制服のシャツの襟元をぱたぱたと煽いだ。 顔が上気しているのは、夏のせいだけではなかったけれど。 「ほんとやね。これから体育館の中に入ると思うと、すごいイヤ」 「校長の話は長いし」 「そうそう。生徒が倒れてもおかまいなし」 聡美は頷きながら、またクスクスと笑った。 彼女は本当によく笑う。笑うと微かに揺れる白い頬が好きだ。 僕よりも頭一つ分小さい彼女の頬を、こうやって眺めるのが好きだ。 もっと笑わせたくて、しょうもない冗談を口にしてしまう。 そんなとき、聡美を好きなんだなぁと実感する。 どこが好き、とか。性格がいいから、とか。 そんなこと関係なく、そこにいる聡美が好きなのだ。 もっと話していたかったが、聡美は体育館の入り口付近に友達を見つけたようだった。 「あ、ごめん。加奈子がおるけん・・・先、行くね」 申し訳なさそうに、聡美は肩をすくめる。 そのまま、友達のところに向かおうとしている聡美を、僕は引き止めたかった。 もう少し話していたかった。 明日から夏休み、なのだ。 補習授業があるとはいえ、会える時間はずっと減ってしまう。 「あ、あのさ。妹尾さん」 「うん?何?」 「俺と付き合ってくれんかな」 言ってしまった瞬間、僕は口を押さえた。 やばい。 一体俺は何を口走っているんだ。 みんなの前で。 しかも、こんな場所で。 さっきよりも、一気に体温が上昇するのが自分でもわかった。 体育館に向かうためにゾロゾロと歩いていた生徒たちは一斉に足を止め、 興味津々、といった様子でこちらを見ている。 さっきまで一緒にいた友人たちの「わっ、バカ」という声が聞こえた。 聡美はさらに驚いたようにその場に立ち尽くしている。 ・・・ダメかもしれん。これは。・・・っていうか、ダメだろ。 そう思って大きく息を吸い込み、空を仰いだ。 空は憎らしいほど青かった。 体育館横の青桐の緑がざわざわと風に揺れている。 一体、どれくらい時間がたったのだろう。 とてつもなく長い時間に感じられたが、きっと1分とか、その位の時間しかたってないはずだ。 気がつくと、渡り廊下には体育教官室から出てきたらしい、厳しいことで有名な教師が立っていた。 「こら、お前ら。こんなところで何立ち止まっちょんのか。はよ体育館の中入らんか」 教師にせかされ、野次馬生徒たちはゾロゾロと体育館に入っていく。 友人たちも、それに合わせて体育館の中に入っていったが、自分の横を通り過ぎるとき 「バカったれ」 と面白そうに肘をつついていくのを忘れなかった。 「ほら、お前もじゃ」 渡り廊下にはもう誰もいなくなったというのに、いつまでも立ちつくしているのを見かねてか、体育教師は面倒くさそうに僕の背を押した。 もう、何だかどうでもよくなって、のろくさと体育館に向かう。 聡美の姿は、どこにもなかった。 野次馬生徒に紛れて、一緒に体育館に入っていってしまったらしい。 はぁ、と大きなため息をつくと、体育教師が誰に聞かせるふうでもないように呟いた。 女を口説くには、それなりのムードちゅうんが必要なんぞ、と。 *** 「なあ、今日これからどうする?どっか寄って帰るか?」 クラスでのHRが終わったあと、友人の一人である村上が話し掛けてきた。 その声音には、終業式の日に――楽しい夏休みの前に――敢無く玉砕してしまった僕に対する同情の念がこめられている。 有難いやら困ったやら。 教室を見渡してみたが、ここにももう既に聡美の姿はなかった。 どうやら、徹底的に逃げられているらしい。 完全敗北だ。白旗だ。 ため息をつきながら、カバンに教科書やら辞書やら、荷物を詰める。 自分にはちょっと高めだったグレゴリーのデイパック。 「やー、それよりもさぁ。もっと元気の出るもの見せてやるけん」 妙に楽しそうな声で背後から僕の首に腕を回してきたヤツがいる。 「・・・田辺。あちぃ」 抗議の声を上げる僕の横で、村上が嬉しそうに言った。 「あ、ひょっとして。こないだ言ってたアレ??」 「そうそう、洋モノ!無修正!」 田辺の言葉に、周りにいたクラスメートがわっと寄ってきた。 「あー俺行く俺いく。」 「俺も俺も」 「なっ、オマエも行こうぜ。元気でるけん」 一体何の元気が出るというのだ。まったく。 わあわあと騒いでいる野郎どもを、教室に残っていた女子が胡散臭げに見ていた。 でも、それもいいかもしれない。友達と一緒に騒いで忘れるんだ。 そうだ、そうしよう。何だか、やけっぱちな気分だった。 「行く」 気がつけば、そう答えていた。 そうして、ゲタ箱まで来たときだった。 ゲタ箱から取り出した靴をボコン、と投げるように下に置く。 昔はキレイだった、ナイキ。 休みに入ったら、ちゃんと洗おう。清く正しく生きよう。 これから煩悩の世界に行こうとしているというのに、なぜだかそんなことを思った。 僕の隣で同じような靴を履こうとしていた田辺の手が止まる。 「あれ、妹尾さんじゃね?」 「え?」 慌てて田辺が指差す方向を見る。 遠くて小さくしか見えないが自転車置き場の入り口に立っているあの姿は。 ――聡美だ。 「ワリ。先帰る」 動揺してモタつく手で紐を結び、僕は急いで校舎を飛び出した。 校舎から自転車置き場までの距離が、こんなに長く感じられたことはない。 早く行かないと、また逃げられてしまうかもしれない。 それなのに、足がうまく運べない。 それは、ただ緊張しているだけなのか、答えを聞くのを怖がっているのか。 よくわからなかったが、きっと多分、両方だ。 徐々に聡美の姿が大きくなってきた。 走るのを止め、大きく息を吸い込んだ。呼吸を整え、ついでに額の汗を手の甲でぬぐった。 ここまで来て、聡美も僕に気がついたようだった。 目が合う。 初めて惹かれた、その目元。 茶色い瞳が、自分をとらえているのがわかり、全身がドクンと脈打った。 「ここで待ってたら会えると思って。・・・確か自転車通学やったよね?」 さっきまで声を聞いていたはずなのに、もう懐かしい。もうそれだけで嬉しい。 「ああ、うん・・・ってちょっと待ってて。すぐチャリ持ってくるけん」 僕は慌てて自転車を置いてある場所まで走った。 聡美は、そのままじっと立って僕を待ってくれている。 夏特有のねっとりとした風が吹いていくのを感じながら、チャリを押した。 どういう気持ちで聡美がここで待ってくれているのか。 当然だが、そればかりが気になった。 「・・・通知表、どうやった?」 自転車置き場を出て、最初に口を開いたのは聡美のほうだった。 高校前の大通りを渡り、スポーツ公園前まで来ている。 その間、二人ともずっと無言でお互いがお互いの様子を探り合っている、そんな雰囲気だった。 スポーツ公園内にあるプールからは、既に終業式を終えて早速遊びに来たらしい 小学生の歓声が聞こえる。 自分も小学生の頃は、夏休みになるとよくこのプールに泳ぎにきたものだ。 親から貰ったプールの入場料を握り締め、胸を躍らせて小さな自転車を漕いだ。 そのことをふと思い出し、今の自分と比べてみる。 あのときも、今も。こうしてプールの前で自転車を押している。 胸を高鳴らせながら。 「通知表かぁ。全然ダメやった。英語がなぁ、もうヤバイんやわ。俺」 心臓はドキドキといつもより多く働いているのに、それを表に出さないなんと言うこともない、普通の会話。 でも、こんなふうに二人で帰ったことなんて一度もないのだ。 聡美の言葉もどこかぎこちなく、僕の態度もどこかギクシャクとしていた。 「嘘ばっか。こないだの模試の結果、すごかったやん」 「・・・よく知ってんな」 「最初から興味があった、って言ったら、どうする?」 「え?」 「入学式のときに、初めて見たときから、好きだったって言ったら、どうする?」 「・・・・・・・・・・」 何も言えなかった。 本当かどうかもわからなくて、ただ夏の日差しだけが眩しく目に飛び込んできた。 「だから、本当は。すごく嬉しかった。今日、渡り廊下で」 消え入りそうなほど小さい聡美の声が甘く耳に響いた。 どうしようもなかった。 どうしようもなく嬉しくて、でもそれなのに締め付けられるほど切なくて そのとき、彼女の髪がふわりと香った。 初めて言葉を交わしたときの、あのときの香り。 気がつけば左手を伸ばしていた。 最初に触れたのは、手の甲だった。 手の甲なのに自分のものとは全く違う、やわらかくてふわふわとした感触。 そのまま、きゅうっと握りしめた。 壊れてしまいそうなほど小さな、柔らかな手。 聡美は驚いたように顔を上げ、僕の方を見上げた。 「そんなん見らんで。恥ずかしいけん」 言えたのは、そんな情けない言葉だけだった。 聡美は少しだけ目を見開き、それから彼女もまた照れたように足元に視線を向け、 小さく「うん」と頷いた。 *** もう、4年も前の話だ。 すんません・・・最後のほうゲロ甘です。うおー、砂吐きそう(笑)。ドリーマーほみぞ(核爆) タイトルからして甘いな・・・今回。ふー(汗)。やっと少し話が展開してきた感じでしょうか。 ・・・っていうか、大分弁、わかります? |
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