『長月』 3 ・ 深夜のコンビニとしじみ汁 妙なことになってしまったな、と思った。 ちらりと横を向くと黙ってうつむいたままの彼女が座っている。 長い髪に隠されて彼女の表情は見えない。 そのまま反対側の窓に目を向けた。 電車は、住宅街の中を走っているようだ。 時折遮断機のカンカンカン・・・という音が聞こえ、それもすぐに遠ざかっていった。 ーあれから。 落としてしまったバッグの中身を拾いながら、彼女はずっと謝りどおしだった。 すみません、本当にごめんなさい。 そのたびに僕はいいえ、気にしないでください、と言い続けた。 実際自分が悪かったのだから。 突然立ち止まってしまった僕のせいだったのだから。 そして、何となく気まずい雰囲気のまま次の駅に降りた。 気まずいのは、多分お互いに全く違う理由で。 違う車両からぱらぱらと人が降りてくるのをぼんやりと眺めながら さて、これからどうしようかとため息をついた。 この駅からアパートまで、歩いて帰れない距離ではなかったが 奢りということもあって、しこたま飲んでしまっている状態なのだ。 これ以上歩くのは正直キツかった。 「・・・これから、どうするんですか?」 ためしに彼女に聞いてみる。 え?と、彼女は驚いたように顔を上げた。 長い髪がはらりと落ち、顔がホームの白い灯りに照らされてはっきりと見える。 栗色の髪が灯りに反射して、天使の輪のように光っていた。 大きく見開かれた瞳が真っ直ぐこちらを見ていて、ほんの少しだけ、胸が騒いだ。 「え、・・・っと。あ、そうですよね。あの・・・乗り越しちゃった分の電車代とか・・・」 電車賃を催促されたと思ったのか、慌ててトートバッグの中を、広げ始めた。 財布を探しているらしい、その様子がおかしくて、僕はつい笑ってしまう。 「いや、そうじゃなくて。この駅から歩いて帰れるんですか?」 「いえ・・・また○○まで戻ろうかなぁって」 「そうですか。じゃあ・・・一緒ですね」 「はあ・・・・」 やっと見つけ出したらしい財布を、僕は手で制してそのまま反対側のホームに向かった。 電車賃を請求するつもりなんて、まったくなかった。 ふわふわと、夢の名残と一緒に明らかに女性のものと分かる足音が追いかけてくる。 僕が見つけた夢の名残。 それは、彼女の髪、だった。 正確にいうと、彼女の髪の香り。 初めて聡美と言葉を交わしたときに漂っていた、あの香り。 彼女の髪からは、同じ香りがしている。 それは僕の気持ちを揺らすのに十分なものだった。 どうしようもなく切なくなる気持ちを抑えながら、反対側のホームへと向かう階段を上った。 連絡通路にべたべたと貼られたポスター。 ところどころ錆びてしまっている手すり。 そんなものを訳もなく眺めながら、視線を彷徨わせた。 そうしないと、気持ちに負けてしまいそうだった。 *** ガシャーンッ、と、ガラスの割れる音が辺りに響いた。 あの激しさから言って、かなり大きく割れたのは確かだ。 僕は思わず「ヤベっ」と舌打ちした。 あれは完全に職員室で説教コース間違いなし。 しかも、正座で。 職員室の床板の硬さを思って、ゲンナリする。 放課後。校庭でのミニ野球大会。 試験前ということで、野球部が練習をしていないのをいいことに 隣のクラスと試合をすることになった。 こういうときに、つい熱中してしまうのが僕の長所であり短所でもある。 事実、張り切りすぎて、このザマだ。 前に走者も出ておらず、1−0、相手チームリードのまま迎えた9回裏。 僕の打順は、2番。 『ここで一発ホームランかましてやるけん』 などとうそぶいてバッターボックスに立ったのが悪かった。 僕が打ったボールは、ホームランどころかどう見てもファールコース一直線で。 しかも運悪く、校舎の窓を割ってしまったというわけだ。 「ばぁーか、ホームラン狙うけんじゃ」 「うるせっ。とりあえず校舎の中見てくるけん!」 僕はバットを校庭に放り投げ、野次を飛ばすクラスメートをあとにして、校舎に向かった。 もう一人残っとるやろーが!試合続けとけ!と言い残して。 *** 僕の打った球が向かった方向は、「特別棟」と呼ばれる校舎だった。 木造2階建てで、戦前から建っているのだという。 しかも当時は結核病棟だった、という曰くありげな噂付きの。 授業で使われる教室は化学室と音楽室しかなく、 はては空き教室が倉庫と貸した場所もある。 とにかく普段使われない場所なのだ。 放課後で、しかも試験前となればなおさらだ。 このままバッくれていたら、ガラスを割った犯人だってわかんないかもなぁ。 けれども、とにかくボールを拾ってこなければ。 「あーあ。もー俺ってほんとバカ」 がしがしと頭を掻きながら、ガラスが割れたと思しき場所へ向かう。 上履きを履いていないためか、足音はほとんどしない。 靴下越しに、リノリウムのひんやりとした感触が伝わってくるだけだ。 ちらりと「靴下が汚れるな」という考えが頭をかすめた。 母親の渋い顔が浮かんだが、一度足をつけてしまったのだ。今からグラウンドに戻っても きっと同じことだろう。 ・・・やっぱ何か不気味かも。 外はこれでもかというほど日差しが照り付けているのに、ここは建物の構造上なのか 日があまり差し込んでいない。 音楽を選択していないので、ほとんどこの校舎に足を踏み入れることもない。 この人気のなさを利用して、女の子とよろしくやった、なんて話もたまに聞くけれど。 「何がかなしゅーて、こんなところに足を踏み入れなければいけないんでしょうかね〜」 自分のせいだと分かっていたけれど、思わず呟いてしまった。 そのとき。 「誰かおるん?」 数メートル先の、化学室の中から細い声がした。 さすがに驚いて、足が止まる。 誰もいないと思っていたのだ。 「・・・おる。っていうか、・・・誰?」 あっさりと返ってきた答えに、さらに驚かされるハメになった。 「2年3組の、妹尾、ですが」 「妹尾さん!?」 止まっていた足が、再び動き出した。 化学室のドアをがらりと開ける。 「あー。やっぱり浅居くんだぁ。どうしたの?」 ほわん、とした笑顔に肩まで伸びた、まっすぐな髪。 間違いなく、同じクラスの妹尾聡美だった。 「どうしたの・・・って、妹尾さんこそ何しよるん?」 僕の声は安堵混じりの気の抜けたものだった。 「ああ、化学の先生に頼まれて。化学室の掃除しよった。浅居くんは?」 「えっと、野球のボールを捜しに来たんやけど」 「あ、それならこれかも」 彼女はしゃがみこみ、特別教室独特の横長机の下を覗き込んだ。 「さっきね、突然窓ガラスが割れて、このボールが飛んできたけん」 華奢な指先がボールをつかみ、ハイ、と僕に渡してくれた。 「あ・・・どうも」 何となく彼女の顔を見ることができず、その指先ばかり見つめながらボールを受け取る。 そして気がついた、ふとした違和感。 「妹尾さん?どしたん?・・・その傷」 「え?あ・・・うん、さっきちょっと」 はっと気がついたように、聡美は自分の左腕を触った。 その手には、赤い一本の線がすうっと引かれたように、血が流れていたのだ。 「さっき、ガラスが割れたときに切ったとか!?」 聡美は困ったように、手を振った。 「違うよ。これは自分で切ったの。浅居くんには全然関係ないの」 「とりあえず、保健室、行こう」 僕の言葉に聡美が、えっというふうに顔を上げる。 「迷惑やないの?」 えっ、と今度はこっちが言いたくなった。 「迷惑かけてるのは俺なんやけど。・・・俺が打ったボールで、妹尾さんが 怪我してるんやろ?何でそんなに気ぃ使ってんの」 「でも、私がトロいせいで自分で怪我したわけやし」 「は?」 「あの、突然ボールが飛んできて驚いて・・・持ってたビーカー落としちゃって。 それで慌ててコケたところで・・・窓ガラスで切っちゃって」 最後の方は、声が小さくなって聞き取りづらい。 本当に申し訳なさそうに、顔を赤くしている。 ・・・やばい。 結構、かわいいんじゃ、ないんでしょうか。 「でも結局俺のボールが窓ガラス割らんかったら、妹尾さんが手を切ることも なかったわけやろ?・・・やっぱ俺のせいやんか。そやけん、保健室行こう?」 言いながら、ドキドキしていた。 今まで意識したこともなかったクラスメート。 それは妙に胸に甘やかな痛みを伴っていて。 僕は初めて、「切ない」という言葉の意味を知ったような気がした。 *** 「あの。電車賃・・・本当にいいんですか?」 彼女が遠慮がちに話しかけてきた。 あれから二人黙ったまま、すぐ後にきた電車に乗ったのだが彼女は僕に悪いと思っているのか、 同じ車両に乗り、ずっと僕の側につかず離れずいるのだ。 確かに今まで見ている限りの彼女の様子では「ハイそうですか。では」と言って 簡単に去れないだろうなあと思った。 僕は首筋をぽりぽりとかいた。 正直困っていた。 おそらく彼女も困っているのだろうが、それは僕も一緒だ。 「このまま○○に戻ってもバレないと思うんですけどね。改札通ったわけでもないし。 でも、じゃあ・・・コンビニで味噌汁おごってくれますか?」 ふと口から出た言葉だった。 ここで「本当に大丈夫です。急いでいたわけでもありませんから」と 彼女に伝え、違う車両に行ってしまえば良かったのだろう。 一緒にいれば昔を思い出してつらくなるくせに、僅かに「もう少し一緒にいたい」と思っている気持ちが 言わせた言葉。 僕はもう少し、夢を見ていたかったのかもしれない。 隣の席の彼女は、やっとほっとした、というようにコクリと頷き、 「はい」 と微笑んだ。 よく考えてみれば、初めて見る彼女の笑顔だった。 *** 「しじみでいいんですか?」 「うん・・・っていうか、お酒飲んだ次の日の朝ってさ、しじみ汁吸いたくならない?」 「あ、何かわかります。お茶漬けでもいいんですけど・・・やっぱりお味噌系が欲しくなるっていうか」 「そうそう」 深夜のコンビニ。 僕は会ったばかりの女の子と、コンビニでインスタントの味噌汁を買っている。 妙な気分だった。 女の子と深夜のコンビニというシチュエーションは初めてではなかったが そこに「さっき会ったばかりの」というフレーズがつくと、何だか自分がとてつもなく 軽薄に思えてくる。 アパートの最寄駅を出てすぐのところにあるコンビニ。 乾物が並んだ棚の前を彼女と二人所在なげに歩いていると、商品の棚卸をしている店員と目があった。 周りから、僕たちは一体どう見えているのだろう。 「他はもう要りませんか?」 「じゃ、烏龍茶買おうかな・・・っていいよ。これぐらい自分で買うから」 「ダメですよ。迷惑かけたのは私なんだし」 彼女は缶ジュースやペットボトルが置かれている冷蔵庫のドアを開けた。 「でもこれじゃ、電車乗り越した分よりも高くなるよ?」 それに結局改札は通らずにすんだから、余分な電車賃を払わされたわけでもなかった。 「いいんです。私の気がすまないだけから」 彼女はきっぱりと言うと、僕の腕から味噌汁やおにぎりの入ったグリーンのかごを奪うように取り、レジに向かった。 今まで大人しい印象しか受けていなかった彼女の意外な一面を見た気がして 僕は少しあっけに取られてしまった。 結局烏龍茶まで買わせてしまって、コンビニを出る。 深夜の住宅街は静まり返っていて、時折街路樹を揺らす風の音だけがしていた。 僕のアパートはここから緩やかな坂を上ったところにあるのだが。 彼女も同じ方向らしく、僕のほんの少し後をついてきていた。 「あの・・・ホントに気を使わせてしまったみたいで・・ごめん」 ぺこりと頭を下げると、彼女は慌てたように手を振った。 「いえ、あの。こちらこそ、一緒に乗り越しさせてしまって・・・本当にすみません。 実は今日サークルの飲み会で。それで・・・つい気持ちよく眠っちゃって」 結構酒豪なんですよ、と恥ずかしそうに、笑う。 「そっかぁ、俺も今日飲み会でさ・・・友達のオゴリだったから、すーげ飲んだ」 「あはは、いいですね」 「うん、友達には悪いことしたけど」 そんな他愛もない話をしながら、坂の中ほどまで来ていた。 ここから道は二股に分かれていて、道のあいだには、大きな楠が葉をざわつかせている。 「じゃあ、私こっちなんで・・・」 彼女が右側の道を指差した。 「ああ、うん。・・・ありがとう。何か今日はよく奢ってもらう日だった」 僕の言葉に、彼女は申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。 が、これ以上謝っても堂々巡りだと思ったのか、 「じゃあ、さようなら」 と、レジの前で見せたようなきっぱりとした口調で言った。 そのままくるりと背を向け、僕と反対側の方向に歩き出す。 僕もアパートに向かって歩き出した。 もう、彼女の髪の香りはどこにもなかった。 香りなんて、夢と同じようなものだ。そこに確かにあるのに、実態がない。 触ろうと手を伸ばしても決して届かない。 そのときだった。 ホームで聞いたあの足音が、後ろから聞こえたような気がした。 思わず振り返る。 さっきまで聞いていた声が僕の背中を追いかけてきた。 「あの」 楠の下に、息を切らせて戻ってきたらしい彼女が立っている。 すぐ側にある街灯に照らされて、彼女の体が白くほんのりと浮かんで見えた。 「あの、私、岩代里美って言います。M女短の2年で。えっと。それで・・・あの・・ それだけなんです。じゃあ!」 本当に「それだけ」言うと、そのまま走り去ってしまった。 「・・・何なんだ一体」 一人取り残された僕は、呆然とつぶやいた。 何なんだ、一体。 彼女は過去でも夢でもなく、現実に生きる人だった。 聡美と同じ香りで。 聡美と同じ名前の。 僕は道路にぺたりと座り込んだ。 *二日酔いの朝にはしじみ汁。これは大学時代の友人の定番でした。 彼女の部屋で、もう一人の友人と私の3人でとぐろを巻くように 二日酔いで死んでいた日のことを思い出し、改稿させて頂きました。 元ネタでは(『月下美人』)おかゆだったんですけどね・・・。 お酒飲んだ次の日って、どうして味噌汁があんなにおいしく感じられるんでしょうか。 五臓六腑にしみわたる、というのはこういうことを指すんだなあと思う一瞬です。 |
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