懐園

1. 呪われた子供


 
全くもってこの屋敷のもっとも合理的でないものは、この広さだ。
アバンはほとんど小走りに回廊を抜け、自分の寝室よりよほど馴染んだ部屋へと、重い扉を一等身だけ押しのけて滑り込んだ。
アバンはたしかに同じ年頃の子供より、小柄であると自覚があるが、それにしても回廊からして6人は縦に連なって眠れるほどの幅がある。
あまり街に出る機会のない自分でも、これは法外の広さであると知っている。
なにしろアバンがこれまで見たことのある中で、自分の住まう屋敷よりも広い建物は、カールの中心に立つ王城くらいしかない。
屋敷を取り囲むように、背後にそびえる黒い森さえなければ、王侯貴族の離宮と言ってもいいくらいだ。
この黒い森は奥深くに魔界へつながる入り口がある、という伝えのある森だ。当然モンスターも出現する。もっとも、どの国の森もある程度大きいものならば、モンスターは生息しており、魔界へと続くというような言い伝えもよくある。
それでもまことしやかに囁かれる理由の一端が、この屋敷にある。
アバンの生家であるジュニアール家は、賢者の家系として認知されている家柄だ。実際カール王家との繋がりもあり、見識や意見を求められることもある。
そのせいか周囲の町や村は、こんな辺鄙なところに住まう彼らに「使命」を見出しているのだ。
きっと賢者さまは私達をお守りくださるために、この森に住まわれている、と。
けれどアバンはそれらしい仰々しさをこの屋敷に見出せたことはない。
ここにあるのは、古い血脈の確執と、頑固なじじいと、かわいそうな女性。それから、無力な子供の自分。
ああ、違う。
無力で、「無知」で、子供な自分。
自分の身に降りかかっていることなのに、それが何かまるで判らない。
何かをしなければならないはずなのに。
何かを?

救いたい。
助けてほしい。

けれど方法がわからないんだ。


「お母さん、今日はレンギョウが咲いていましたよ。もうすぐ春だ」

薄いカーテンで和らげられた明るい光りが、部屋中に満ちている。
ゆったりとした時間がここにはある。
品良く、上等の調度品でまとめられた部屋。その窓辺に据えられた肘掛のついた椅子に腰掛ける女性はゆるく微笑んだだけだった。
アバンは返事のないことに気にする様子もなく、抱えるように抱いた黄色い木花を、メイドの準備した花瓶に生けた。

「ピエトが……以前にも話したでしょう?放牧の。新鮮なチーズを持ってきてくれたのですよ。今から夕食がたのしみで。大丈夫、もう昔みたいにお腹を壊すまで詰めこんだりはしないから」

あれはまだ父さんとテランのはずれの森にいた頃だから、ああ、もう5年も前になるかな。懐かしいなぁ。
笑いながらアバンは振りかえった。
もうほとんど表情を変えることのなくなった、ただそこにある微笑み。
今母の浮かべる笑みがいつのものか、もう思い出せなくなっていた。それほどに彼女の変化はゆるやかで、ただアバンに向けられたということだけは間違いなく、それはどんな標本よりも残酷だった。
愛情の標本というものがあるなら、これがそうなんだろう。
無意味にあざやかにアバンにせまってくる。
愛と死。
彼女は呪われていた。





アバンの最初の記憶は、森のはずれにあるちいさな家だった。
この屋敷の裏手にそびえる森よりも、すっと明るい場所だった。それがテランの一角であったのを知ったのはもっと後になってからだ。
明るい笑いの似合う母は、家の周りの畑でいろいろ作っていて、アバンは周りをよちよち歩いては、手伝うつもりでよく邪魔をしていた。
家には本がたくさんあった。父は森で薬草を採って加工したり、母の畑の傍らで栽培したりしていたように思う。近くの村の人間がよく出入りしていて、父もしばしば留守をした。医者のような役割も担った、ひなびた田舎薬師だった。
その頃の記憶はたわいもないものばかりだ。
好物のパイで手や顔をべたべたにしては、母に笑われたこととか。
父の蔵書にらくがきをして尻をつねられたこととか。
肥溜めにお気に入りの手袋を落して大泣きして、父にとらせたとか。
……拾わせたくせに、あれは結局使えなかった。
今よりもさらに子供のアバンには、この夫婦がテランの出身ではなく、駆け落ちのようにテラン村にたどりついて迎えられたことや、本の量や内容があまり一般的でないレベルだったなどは知るはずもなかった。

それでも穏やかだった日々が、奪われたのは今から4年ほど前のことだ。
それは突然ではなかった。
はっきりしたことはアバンには判らなかったが、両親の不安に子供であったアバンは敏感に反応していた。
父は頻繁にテランの村の人たちと出かけて、家を空けることが多くなった。
時には村の人とはちがった、威圧感のある人を伴っていることもあった。
それは僧侶や司祭、魔法使いといった人たちであったと、後になって理解した。威圧感と感じたのは彼らの魔力だったのだろう。その頃すでにアバンはそういったものを感じ取れるようになっていたのだ。
あの日の瞬間をアバンは覚えていない。
記憶にあるのは家から上がる炎と、自分の足元を抱くように倒れている母親の光景からだ。その炎を標に駆け寄ってくる、父と村人を振りかえったアバンの中には、何の感情も浮かんではいなかった。
父親に揺さぶられても言葉は出なかった。村人に抱きかかえられると、母親を抱き起こす父を眺めた。
一見して深刻な傷は見られなかった。

「息はある」

大丈夫だ。父親の言葉は自分に向けられたものだったろう。駄目なはずなどない、という切実な願望が多分に含まれていた。
その言葉を聞いてアバンはあえいだ。呼吸の発作のように大きく口をあけたが、胸はつまったままに苦しかった。
口に流れこむ生ぬるい塩気を意識したとたん、爆ぜるように声が漏れた。いつのまにか涙が流れて、アバンは叫ぶように泣いていた。
やがて家に上がった炎も消しとめられ、村で手当てを受けているなかで母は意識を取り戻した。
なにも損なわれていないのだと、思っていた。
変わらなく抱きしめてくれる腕も、やさしい琥珀色の瞳も何も変わっていなかったようにアバンには思えた。
そう、確かに変わってはいなかった。ただ緩やかに、緩やかに停止していっただけだ。

その日から半年ほど経った頃、父はアバンに別れを告げられた。白い悪魔を探さなければ。

「そいつを探して倒さなければ、母さんの呪いは解けない」

アバンは訳もわからずに両親を見上げた。

「おかあさんはいるよ?」
「よく聞くんだアバン、母さんは魔族の魔法を受けたんだ。お前は覚えていないけれど、お前も本当は見ているはずなんだよ。そいつに母さんは魔法をかけられた。その魔法を解くにはそいつを探し出して倒さなくてはならないんだ」
「おかあさんはどこも悪くないよ?」
「そうだな、魔法が不完全なんだ。どうしてかは判らないが、……もしかしたらお前の何かが……」

語尾を濁らせて考え込む父をアバンは困惑して見るばかりだった。
かたわらで心配そうに見守る母が、そっと口をひらいた。

「あなた、やっぱりこのままでも……。3人で許されるだけ一緒にすごせたらそれで」
「駄目だ!呪いを解かなければ」

そう長くない。
最後の言葉は途切れて父の口から出ることはなかったが、アバンには十分に察せられた。

「おかあさん、おかあさん」
「大丈夫よ、アバン。ごめんね、驚かせて」
「母さんには時間を止める魔法がかけられているんだ。不完全なせいで、その効き目がひどくゆっくりになっているんだよ、アバン。だからすぐに止まってしまうわけじゃない。まだ時間がある」

母に抱かれる腕の中から、視線を合わせてアバンを見つめる父の言葉を必死に心に刻んだ。

「これから父さんの生まれた家に行く。そこで待っていてくれ。アバン、母さんを守ってくれ。頼む」

それから3人で少し泣いた。アバンは初めて父の泣いているところを見た。いつもは微笑みを絶やさない母も泣いていた。アバンも泣いた。
それから3人で少し照れたようにわらった。

ほどなくアバン達はテランを後にして、カールの黒い森にそびえる屋敷へとやってきた。
幌馬車に乗り、いたわりあいながらの旅は、深刻な重荷を負いながらも鮮明にアバンの心に残った。この思い出が屋敷に来てからの日々にあって、アバンの心をほのかに灯しつづけた。
幌馬車から見上げた屋敷は、今よりもさらに幼いアバンにとって城といってもいい大きさで迫った。

「これがお父さんの家?」
「俺の家じゃないよ、アバンのおじいさんの家さ」
「お父さんのお父さん?」
「まぁな」
「すごいね」
「凄いか、そうだな。できれば戻りたくなかった」
「……あなた」
「でも母さんを失うほうが何倍もつらい」

手綱をゆるく操りながら、振りかえって笑った。

「母さんと、アバンと一緒に暮らせなくなるのがつらいよ。でも父さんは欲張りだ。終りが見えているのに、逆らわないで待っているだけなんて耐えられない。絶対に母さんとアバンのところへ帰る。絶対に帰ってくるよ。だから呆れないでまっててくれよ」

アバンは何度も頷いた。
ずっと、ずっと待ってるよ。
だから帰ってきてね。絶対だよ。
それから父と2人で歌を歌った。アバンがテランの村にいたときに聞き覚えた遊び歌だ。
2番の半ばにさしかかる頃に、馬車は屋敷の門の前に到着した。


 

 

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