懐 園
3、裏切ったな
アバンは朝の鍛錬を屋敷内の広い庭のかたすみで終えると、汗をぬぐって呼吸を整えた。
魔法使いとはいえ、まったく身体を鍛えないというのは合理的でないと考えてのことだった。
術の行使にはセンスばかりでは覆い切れないものがある。強力な呪文になるほど、発動にはタメがいる場合が多い。その間は隙にも通じやすい。それを体術はカバーしてもくれるし、場合によってはより威力を増すことになる。術の行使そのものも体力があれば回数が稼げる。
それは魔法を会得するごとに実感として感じた。より早く、一人前になりたかった。そのために急ぐ気持ちは否定できない。
基礎をおろそかにしないように心で唱えながら、焦る気持ちはいつもどこかにあった。背負うものがあるからだ。
父も母もアバンに背負わせることなどは考えていないだろう。けれどアバンは二人の一端でも担いたいと願った。二人の子供であることが誇りだったからだ。
朝に独りで体術面での鍛錬を行う。
これについては実戦から遠ざかって久しい祖父の協力は、基礎やアドバイス程度のほかはほとんど得られなかった。
武術書や生体の研究書などから検証し、アバンなりに鍛錬を積み重ねた。
かならずしも満足はできない、非効率な部分もあったが、武術での師を求めることは出来なかった。
アバンがこの屋敷に来た時からの、祖父との取り決めの中には、この敷地から外には出ないというものがあったからだ。
だからアバンは武術はもちろん、魔法も実際の人間や魔物へ行使したことはない。祖父の作り出した術の対象や、的が相手だった。
そうした朝の日課を終え、食事をとると、豊富な研究書や古文書に没頭する。古文を読み解くための古代言語のみならず、魔族の魔法などを少しでも知るために、魔族の言語までも可能なかぎり習得しようとした。
思い返せば父の蔵書もかなり専門的なものだったのだと気付いた。
父もこうして、この書庫で学んだ時期があったのだろう。
祖父を否定しながら、その学問には抗えない魅力があったのだろう。捨てきれなかった蔵書にそれが伺われるような気がした。
古い血族だけあって、屋敷にある資料は膨大で、アバンにとってこの恩恵は孤独な日々を補って十分だった。
すくなくともまず出来ることがあるということは、アバンの苦痛を和らげた。
その日も変わらない朝だった。
――― あれ?
アバンは一瞬足をとめてまたたいた。
屋敷の中央部には中庭がある。まるでその中庭を取り囲むように、屋敷が建っているといってもいい。
いつものように朝食を終えて一休みしようと、アバンは母のいる別棟に向かった。アバンの私室もこちら側にある。
奥へと向かいながら、ふと何かにひかれて振り返った。
通り過ぎた中庭に面したテラス状の廊下を、明るい日差しが照らしている。
少し迷うように数歩立ち戻ると、中庭を眺めた。
対岸の母屋のテラスから祖父が降り立つ様子が見える。これもまたよくある日常の風景だった。
祖父は中庭を好んだ。よくその一角にしつらえられた東屋で読書をしたり、お茶を楽しんでいる様子はアバンも見なれていた。
教示を請えばゆっくりとアバンの言葉に眼差しを向け、ではどの部屋で、外庭でといった返事をされて、その日の授業が始まる。
そういえば、中庭で授業をうけたことはないな、とアバンは思いながら眺めた。
なんということの無い庭だったが、祖父にとっては大事な場所なのかもしれない。
そんなふうに祖父に視線を向けて、アバンは息をとめた。
中庭には祖父の姿が無かった。
たった今降り立つ姿を見たはずだ。死角に入ったというようなことではない。
一瞬に中庭全体に集中したが、祖父の姿はやはり見えなかった。見えなかったがそこに祖父を感じた。
何故かは判らない。だがそこに祖父が存在することをアバンは疑わなかった。
しばらく立ち尽くし、やがてアバンは声が震えないように願いながら声をあげた。
「サー=パイロ」
それはアバンが祖父を呼ぶ時の呼び方だった。パイロ卿。
こどもっぽいとは思ったが、当初素直に「おじいさん」とは呼べないまま今にいたった。もうこだわりはないのだが、きっかけもなく、今更という気持ちもあった。
「……どうした」
一拍置いて祖父のいらえがあった。物憂げに眼差しを向ける一拍。慣れた間だ。なにも見えない東屋からということを除けば。
「午後に精霊の相関性で、作用する魔法について質問があります」
「そうだな……昼食は招待があり外出する。4時に書斎で」
「わかりました」
なにもない東屋に一礼し、アバンは私室へ向かった。
気持ちを落ちつかせたかった。動揺を祖父にさとられたくなかった。
あの中庭に魔力を感じた。魔法の作用している時に感じる違和感のようなものが。何かがあの中庭にある。それが今のことか、日常のことかはわからない。それは午後に判るだろう。
祖父が地域の長や王に見識を求められ、食事に招かれることは時折あった。
すべてに応えているでもないようだったが、今朝方王室の白鳩が魔法状を携えて飛来したのを見ていた。この場合はほとんど祖父が外出することを、アバンは経験で知っていた。話しかけたのはそれを確認したかったこともあった。
なにかが酷く惹かれた。あの空間に。
強い不安のような落ち着かなさを警鐘かもしれない、と感じながらも、午後にはあの空間に降り立つ自分を疑わなかった。
母の元にはいけそうもなかった。
祖父が人ではない人型の御者にあやつられた馬車で、人でない執事に見送られ屋敷を出る。アバンはその光景を私室の片隅から窓をすかして眺めた。
何年もこの屋敷で暮しながら、よくわからないこの屋敷の住人たちを思った。
祖父以外は人でなかった。
使用人はすべて使い魔のようだとアバンは判断していた。
なぜ祖父がわざわざそんなものを人型にして使っているのか、アバンにはよくわからなかった。
偏屈の部類に入るに間違いない祖父の性格のせいで、人間の使用人がひと月と居つかないというのももっともらしいと思うし、むしろはなから人間を雇いたくないと思っているといってもアバンは不思議に思わない。
理由はアバンが考えるだけでもいくらでもあり、しかしどれも言い当ててはいないようにも思えた。
アバンはしずかに心中で100を数えると自室を出た。ゆっくりと中庭に向かう。
だいぶ高くなった陽のふりそそぐ中庭は明るく、なんら変わりないように感じた。実際降り立ち、東屋に立ち入っても何ら異変はない。
「昼食はこちらにご用意いたしますか、アバンさま」
声に振りかえると、さきほど祖父を送り出していた女性執事が、母屋のテラスに立っていた。
「いいえ、いつも通り母のところでいただきます。しばらく考え事をするので、構わないでください」
「かしこまりました」
この屋敷の使用人に遠慮の言い方は必要がないことを、アバンはのみこんでいた。
はっきり意志が確認できるまで、彼女らは所定の行動をかえることはない。
ひどく機会的にも思える態度だったが、態度でどうなるという間柄でもなかった。アバンには使用人達に自我があるのかもわからない。
執事が去るとアバンはテラスに上がり、中庭に沿ってゆっくりと歩いた。
「ここか」
3周巡ってアバンはある場所で立ち止まった。
ゆっくりと中庭に向かって手を伸ばした。手の皮膚にちりちりと違和感を感じる。魔力の障壁が、そのわずかな綻びがそこにあった。
「トラマナ」
呪文を唱えるとぐん、と強い抵抗を感じた。かまわずに呪文を維持したまま手を突っ込んだ。両手の先に硬い壁を感じた。
――― 扉だ。
なぜとは解らない、直感があった。同時に口は呪文を紡いでいた。
「アバカム!」
維持したままの呪文に重ねられた呪文が、1度解けて歯車のようにかみ合うような感覚とともに、強い光が手の先からあふれ出た。
「っ……!!」
目も開けていられない光に覆われ、軽い浮遊感にめまいがした。
「うわ」
突然に足の下に柔らかな土を感じてよろめく。足を踏みしめて思わず目を開けた。
あの強烈な光はもうなく、そっと風が頬を撫でる。アバンはゆっくりと辺りを見まわした。ゆるやかに飛ぶ鳥の細く高い声が聞こえた。紫暮れる空の色、微かに発光する見なれない木々、その向こうの東屋。
屋敷の東屋と同じ造りの、しかし異なる風景。
中庭よりもずっと広く、しかし閉塞された空間であることは感じられる。ぬける空の高さは、しかしアバンの知る空でなく。
アバンは東屋にむかって歩いた。木々にまぎれて、廃墟のような、遺跡のような残骸が見え隠れする。
東屋をはっきりと見る位置にたどり着いて、びくりと足を止めた。人がいる。
ゆっくりと立ちあがり柱の影から姿をあらわすのを、アバンはスローモーションでも見るように、ただ見上げていた。
「……ちいさなアドヴァーン」
深い声だった。たしかにアバンに向けられた言葉だったが、ただ意味のわからない音が過ぎただけだった。頭のどこかが焼き切れるような衝撃と興奮がアバンを塗りこめていた。
「……た…な」
これほどの、目のくらむような怒りと憎しみをアバンは初めて感じていた。
身体中が総毛だって魔力が圧し止めようもなく溢れてくるようだった。まるで毛穴という毛穴から炎が立ちあがる錯覚をおぼえる。
そしてそれは錯覚にとどまらず、放電のようにアバンのまわりに小さな白い炎が浮かんでは消えた。
「裏切ったな ―――!!!」
喉を裂くように吐き出された言葉とともに、ついに白い炎が巻きあがった。
「べギラゴン!!」
周囲のすべてを炎が呑みこみながら、牙をむけるその先には。
白い姿の魔族がたたずんでいた。
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