懐 園
6、生 死
深い深い呼吸。
留められたものをすべて吐き出すような、ため息とともに目を開けた。
アバンは数度瞬き、そっと手を動かす。感覚は正常に指先の触覚を拾い上げて、やわらかでのりの利いたさらりとした感触をアバンに伝えた。
ゆっくりと身体を起す。予想した頭痛もない。
見なれたアバンの部屋だった。
「サー ……」
「……」
ベッドサイドには祖父が椅子を持ちこみ、腰掛けていた。
いつからいたのだろう、アバンはふと思った。どれほど自分は眠っていただろう。
倦怠感が残ってはいるが、あの魔力をごっそり引きぬかれたようなダメージはほとんどなかった。
こんな風にいつ目覚めるかわからないアバンを、寝顔をながめつつ待つような人ではなかったのに。
「5日ほどになるか」
「そうですか……あの人は誰なんです」
「無かったことにはならない、時が来たから。だが、今は別れをして来なさい」
祖父は酷く疲れた表情で目を伏せた。
アバンが見送った時から5日ほどしか経たないと言うにも関わらず、10年経ったような老けこみようだった。
時が来た。あの中庭の魔族も……剣皇ヒュンケルと呼ばれていたか……同じようなことを言っていた。アバンは酷く嫌な感覚とともに思い出した。
「いったい何の時が来たというんです。だれと別……」
言葉が唐突に切れて、アバンの目が見開かれた。
「まさか」
アバンは転がり落ちるようにベッドから降りた。力が抜けてよろめく体を叱咤して素足のままで走り出す。
アバンにとって「別れ」得る人など、1人しかいないのだ。
「おかあさん!! おかあさん!!」
無駄に広い居間を横切り、母親のためにしつらえられた広い寝室へと駆け込む。
広い窓からやわらかいオレンジ色の光がさしこんでいる。
「母さん!」
取りすがった手にはほんのりと体温が感じられた。
生きている。アバンにはそれがわかった。だが同時に死が彼女をおおいつくそうとしていることも感じ取れた。
時が来た。
最悪の終わりが。
「母さん!」
「別れを」
遅れて祖父の声がした。もう声はでなかった。
どうして、とわめき立てたかったが、思っただけだった。アバンはこの屋敷での5年が、いつのまにか心のどこかで『覚悟』を育てていたことに気付いた。そのことに酷くまた傷つく。
父のことを信じていたのに、それでもどこかで叶わないことを。
それは酷い裏切りに思えた。
「おかぁ……さん」
動かないてのひらに頬を押しつける。
ごめんなさい……ごめんなさい、あなたを助けられない。
頑張ったつもりだった。成長したつもりだった。それでも一番の願いは叶えられない。何の役にもたたない。
「……!」
一瞬やわらかく、あたたかい感触が頬を撫でるのを感じて、アバンは目をひらいた。
体をおこし、母親の顔をのぞきこむ。その動作はひどく緩慢でぎこちなかった。母の顔を見るのが恐ろしかった。
ただ怖くてたまらない。
アバンは震えた。
母親の死顔はやすらかだった。
苦しみの影も、死を思わせるなにかの跡もなかった。けれどなにかが決定的に変わってしまった。
瞬きもしないアバンの大きな蜜色の目から、涙がこぼれた。
崩れる気配が背後で感じられ、母のベッドの一端がたわんだ。
ゆっくりとふりかえると、べッドに片腕を預けてかろうじて上体を起し座り込む祖父の姿があった。
乱れた息のその顔は、苦悶の表情が見て取れる。
「……が死んだ」
かすかにうめくような言葉に、アバンは目を細めて、ついでその名が父親のものであると気付いた。
祖父が父の名を呼ぶのを、アバンは初めて聞いた。
「白い魔族かどうかは判らぬ」
祖父はアバンを見てはいなかった。
酷く疲れた顔色と、急激に老いたように感じたのは、アバンの目覚めを待つ疲労ばかりではないことに気付いた。
アバンの目覚めるこの日まで、母を生かすために莫大な魔力を使いはたしたためのものだった。
「カール王を通じて確認を願った。知らせがきた。間違いないと」
それでは、あの日祖父がカール城へと呼ばれて出かけたのは、その為だったのか。
アバンはきしむ胸で、意識して息をはいた。そうしないと、止まってしまいそうだった。
「父は今どこに」
「連れ帰った」
ああ、それでは、やっと帰ってきたんだね。
止まらない涙と、呼吸とを感じた。いっそ止まってくれればいい。
アバンは瞼を閉じた。
屋敷の裏手に墓地があった。
その一画にふたりは並んで埋葬された。
5年ぶり見た父の顔は、痩せていたが変わらずやさしかった。
帰れないと覚った時、どんなに苦しかったろうかと思う。せめて絶望のなかでなく、それとわかる瞬間もなく、逝っていて欲しかった。
殺されたという以外、どんないきさつで死んだのかは判らなかった。死因は胸にちかい腹部の傷。
直接手を下したのは何者か判らない。魔族かモンスターか、あるいは人間かさえも。
ただ判るのは、白い魔族とアバンたち親子の戦いの、これがその結果だということだ。
失われたあの日の記憶が、時が至って結びつけられた。
なぜあの日の記憶が無かったのか、それは、それが当時のアバンには理解できないことだったからだ。成長し、魔力を得、あの魔族を出会うことで初めてそれは完成される記憶だったから。
白い魔族はアバンを滅するために、あの森へ来たのだ。
たぶん父は幾らかその理由を覚っていた。そして母もそれを知ったのだろう。
だからあの森を離れてこの屋敷へときたのだ。アバンを護るために。
そして父も母も失われたものを取り返すために戦った。
ふたりは死に、自分は生き残った。
自分はいったい何が出来たのだろう。何をするべきだったのだろう。
涙の尽きた目で、真新しい白い墓石を見つめた。
もう何もしなくていいんだ。
アバンは唇を歪めてわらう。もう何もかもが意味を失った。
「アバン」
数歩離れた背後から祖父の声がきこえる。
「ふたりは望みを果たした」
「……何の」
振りかえらないままアバンがつぶやく。
「叶えられる望みは少ない」
まだ少年のほっそりした背中に、屋敷に来てからの5年切られることのなかった青味を帯びた銀髪が風に揺れた。
「すべてが叶わぬ、そんな中では一番強い望みだけがかなえられる」
「……」
「白い魔族の殺意、あの方の護符、ふたりの望み、お前の願い」
それに連なる者たちの思惑。あの日、なんと沢山の想いが、引き寄せられたろう。
「お前の命だ」
すべての想い、相殺しあう願いの中で、一番強い願い。叶えられたふたりの祈り。
「……重過ぎる」
アバン自身の願いは叶えられなかったのに、世界のすべては奪われていったのに、いったいこの命でどうしろというのだろう。
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