不可視の海
序 / 見えないものは無いものではない。
こなれたワークブーツを脱ぐと、片方づつ両手にぶら下げる。
慣れない素足に粗い砂粒が微妙な刺激となって、くすぐったさに身をよじって笑いを漏らした。
その場でしばらく足元の砂を眺めながら足を慣らすと、触覚は順応していったが、奇妙な高揚感は気持ちの端っこを押し上げたまま、薄い笑みとなって唇にあらわれたようだった。
視線を上げると、広大な海が広がっている……はずだった。
足元の砂から太陽の余韻を感じられない程度には、日没から遠く、浜は閑散として人の気配もない。
昼間の肌を焦がすようなじれったい熱さは、どこにもない。
なによりあるはずの海は、視力では感知できない。
星明りも、かといって雲の形もみえないぬめった暗闇では、そらと海の境目を判別することはできなかった。
黒い。
距離も時間という概念もその空間には、存在しなかった。
ある種の感動を覚えながら、同時にまだ自然に感動する、やわらかい感性がいくらかでも残っていたらしい自分の心にほっとする。波打ち際に寄っていくと絹地を踏みしめるような感触にため息をついた。
白いしぶきすらたたない穏やかな波がさらい、不純物を排したこまやかな砂。
さらに海へ入っていくと、再び粗い砂粒が足の裏をたたいた。
本物の闇。光に侵されない静寂。人力の遠く及ばぬ潮の鼓動だけが、音と気配とでたち尽くす体を埋め尽くす。
目を閉じる必要はなかった。
彼はくるだろうか……。
来てほしい。
来ないでほしい。
まだそんな逡巡する気持ちがあるのか、といらだたしく思いながら、すね程の高さの水面を浜に沿って進んだ。
来なければこの誰の肌にも心地よい、選別された砂粒のような対面を維持できる。
波の向こう側にすべてを隠したままの黒い海は、その海底を暴かれることを望んでいるのだろうか。
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