不可視の海
1 . 「先生、適齢期って知ってる?」 (by レオナ)
まるですべてが夢だった、と言われれば、そうかもしれない、と思う。
現実に、しばらくはそう自己暗示にも近い言葉を心の中で繰り返しながら、レオナは体を酷使した。
トーナメント表を辿るように、戦いは代表戦になり、世界の総意が、独りの勇者に寄り集まっていく様を、誰より近くで見つづけた。
ある意味、それを後押ししたのは自分だ。それは王女としての正当な選択ではあると、自負している。
ではレオナとしては。
「でもやっぱり、選ぶんだろうな」
彼を。
たとえ失うと分かっていても。
近頃缶詰状態の、見飽きた執務室の天井を見るとはなしに眺めながらレオナは一人ごちた。
急ごしらえの木の天井。石造りの家が主流のパプニカの建築様式は、荘厳さでは、けしてどの国の町並みにも引けをとらなかったが、即席という訳には行かないのが弱点だ。
この仮の王居をはじめとした、木造の家はリンガイアとアルキードから派遣された技術者の指導によってパプニカの人々の手で造られたものだった。
半年前には考えられなかった、技術交流の逸品だ。怪我の功名と言うべきなのかは、判らない。
大魔王との最終戦まで、各王室関係者のなかで立ちあったのが、レオナ1人とあってか、どの国も復興の窮乏の中にありながら、パプニカの再建に助力を惜しまなかった。レオナは今や勝利と平和の希望なのだろう。かつてのフローラ姫がそうであったように。
「何を選ぶんですか」
いつのまにか留守になった執務を、特に咎めるでもなくやわらかな……聞きようによっては、間の抜けたとも言えなくもない……声が、迷走するレオナの思考を呼び戻した。
L字型に少し離れた東側の窓辺の机には、本来ならばパプニカよりもカールにいるべきなんじゃないか、とレオナも思う大勇者の姿があった。
バーンパレスで再会した時の、白く輝くような指導者然したなりでなく、一見学者風のハイネックの服で、せいぜい宮廷役人といった感じである。
年齢よりも若く見える容貌に黒ブチの伊達メガネをかけている。
そのガラスごしにやわらかい蜂蜜色にちかいブラウンの瞳が、やや上目遣いにレオナを見つめ、その口元には、いたづらを見つけた悪ガキ仲間のような笑みが浮かんでいた。
「……この建物は再建が終わっても記念に残しておこっかな〜なんて」
「ああ、それはいいかもしれませんね。それで」
レオナはため息をつくと、少しばかりイスを引いて、机との間に余裕をつくると、浮かせた足を所在なげに揺らした。
「もしも勇者がダイくんじゃなかったら、私はどうしたんだろうって……」
表情はすでに為政者の強い意思ではなく、少女らしい戸惑いをのせて、大きな瞳が愛らしい。
きゅっとすぼまった唇は、何の手を加えなくても明るいピンク色、ひなたのやわらかな日差しを受けたシルクのような金髪。
将来はバラのような美女になる有望株に間違いなかったが、今のところは年相応の初々しさもあいまって、マーガレットを思わせた。
「私は王女だから逃げたり出来ないし、逃げるつもりもないけれど、ダイくんにはそんな義理もないし……」
かすかに首を傾げると、長い髪が肩を滑り落ちた。
「ダイくんにはつらいことばかりだって判ってて、それでも傍に居て欲しかった。きっと勇者じゃなくても……私に未来が見通せてこんな結末がまっているってわかっていても」
レオナの言葉は仮定が重複していて、まるで理論的には出発点から破綻していたが、本当に少女らしい発想でおもわずアバンは微笑んだ。
為政者の子供にありがちに、レオナも実年齢よりずっと大人びていたが、年相応の迷いや、欲求をその内側に秘めていることに安堵の気持ちがあった。
その未熟さは必要なことだった。カッコ悪いと、物分りよさげに一足飛びに過ぎると、どうにも始末に負えない、大人のなりをした子供が将来出来上がるはめになる。
「ね、先生、勇者とお姫様のカップルなんて出来すぎかな」
「……で、出来すぎといって責める輩はいませんよ」
かわいいかわいいと、微笑むアバンを一瞬で凍らせる台詞だった。他人事ではない。
「そうですよね」
嬉しげに笑いかけるレオナはしかし、すでにいつもの利発なきらめきを瞳に湛えて、偶然の発言ではないこともアバンに覚らせた。
「勇者とお姫様の、ロマンス。数ある試練をのりこえて辿りつくハッピーエンド……目の前にお手本がいるんだもの〜」
もはや、墓穴もいいところと、青ざめるアバンを尻目に、両手を組んで夢見る乙女のポーズと、きらきらおめめで盛り上がる。
「なーんで、カールに帰らないんですか」
「か…帰りましたよ。ちゃんと。フローラ様のご命令で赴任してきたんですから」
「そんなの知ってます。この国の再建にアバン先生が必要だってことも」
この戦乱の中で父王の消息は途絶え、杳として知れない。亡骸すらも。
それでも国民の生活は中断することは出来ない。
ただでさえ国王消息不明で、息消沈する国民に為政の遅れで更なる不安を与えては、今後のパプニカの王政へ重大な影響を与えかねない。
父王タイガは優秀な王だった。それゆえに、政務は集権的で、それは事ここに至ってレオナへとそっくり移行された。
カールへ一度は帰国したアバンが、師としてパプニカを訪れたのは、実にその翌日だった。
『長き兄弟国としての友好に基づき、その微力を用いて、パプニカの再建に尽くせとの女王陛下の御勅旨を拝命し、国を離れ一師弟として、姫のお心の安寧なる助けとならんと馳せ参じた次第にございます』
終戦に沸く宴のなか、三賢者とともにレオナはアバンの挨拶を受けた。
そして宴の締めくくりに、民から言葉を求められたレオナは、父王代理として、政務を三賢者とともに行うことと、アバンとアポロの用意した大筋の再建案を提示して、一気に国民の信頼を増すことになった。
父王代理のままに政務を行うことは、パプニカの王不在のままの再スタートを意味したが、合えてそれを押したのは他ならぬアバンだった。
『これには二つの目的があります』
まずひとつは、レオナの若さである。
父王譲りの聡明さと、大胆な判断力を否定するものこそいないが、事、戦乱の過ぎた実際の政務となれば、若さそのものが否定的材料となる。そして、そればかりはどうにもならない事実なのだ。
そのために、先王の存在をあえて掲げることで、国民、ことその中の有力者の忠誠の対象は先王であり、レオナはその代行者というスタンスをはっきりと明示させたのだ。
同時に、戦前から先王の元で政務に当たっていた三賢者に、改めて執行権を任じ、一時隠居していたバダックを、近衛隊長として再任したことで、古くからの年寄り連中への、同体制の継続をアピールした。
三賢者アポロは、先王と同じくレオナの補佐として中央政務に、マリンは調停の達者さもあって、物流を任された。食料や、物資、資金の捻出と、国民への配分に大忙しだ。再建工事の監督と治安はバダックとエイミに。
やがて再建が実現した時、レオナは名実ともに女王として立つことになるだろう。
今まで信じていた王政の揺らぎなさと、迅速な未来ビジョンの提示で、まずは一勝といったところだった。
日を置かぬ、フローラ女王の采配と、心遣いに思わず泣き出してしまいそうになったレオナだったが、同時にフローラからアバンを奪ってしまったようで、ずっと気になっていたことも事実だった。
「私、ずっとフローラ様にあこがれてました。あんな風にありたいって。アバン先生のことも尊敬してます。だからお二人には幸せになって欲しい……」
「レオナ……」
いたずらな表情を収めて、訴える真摯なレオナを、しかし肯定もせず、静かに見やるアバンのかすかな微笑は、おそろしくフローラに似ていた。彼は死んだんでしょう、とレオナに確認した、あのせつない微笑みに。
『彼ならば、こんな事態になって、隠れているような人ではないもの』
だから、現われない彼は死んだ以外にない。
言外の言葉にレオナは一瞬体を震わせた。
まるで自分のことのように誰よりも理解している、それを見せ付けられたようで……なのに一緒にはいられない現実を見せられたようで。
「私たちは……もう出会えるかどうかも判らないから」
返事を返さないアバンに、続けるつもりでなかった弱音をつぶやいた。
生きている。でもレオナは見たのだ。彼の父親である純潔の竜の騎士の、ドラゴンフォームでさえ、あの爆発には耐えられなかった。それと同じ爆発を、力も使い果たした体でまともに受けたのだ。
『ダイの剣の輝きは失われていない』
そう、レオナにしても死んだと思っている訳ではない。
でもその生は、果たして自分の望むものかはわからない。
あんなにみんなに愛されていた。仲間にも、モンスターにも、神にさえ。
あんな奇跡のような存在は、自分のようなただの人間につなぎとめられるものなのか。
夢のような存在―――
「生きていますよ、ちゃんと、ダイくんという存在は。夢じゃありません」
まるで見透かすようなアバンの言葉に、レオナは瞠目した。
するとアバンは照れるようにちょっと笑って続けた。
「ねえ、ダイくんはまだ一二歳なんですよ。
あなたは自分が一二歳だった時のことを覚えてますか」
そう遠い昔のことではない、毎日毎日を克明に記憶しているわけではないが、記憶はちゃんとある。
だが言われて思い返すと、妙に昔のことのように思えて、レオナは戸惑った。
思い返すと、たった一年前のことでも、あいまいな部分も多い。でも、克明に一瞬一瞬まで思い起こされることもある。
ダイくんと始めてあった時のこと。
「それは、あなたにとってダイくんとのつながりが奇跡だったからですよ
「わたしが勇者として育てようとした子は、ダイくん一人ではありません。実際には私の元から巣立った勇者はダイくん一人ですから、誤解されることも多いんですが……」
アバンは思い出したように、机の上にあったハーブティで口を湿らせると、再び口をひらいた。
「……それについては、教育者としての私の資質や力量とも関係あることですし、単純に別の資質に気づいて方向転換したこともあります。まあ、まれに資質を無視して意思の頑固さだけで、職業を維持した子もいますが」
ポップくんのことですか、レオナが質問をはさむと、アバンは笑いながらゆるく首を振った。
「ポップくんはああ見えて、結構広い資質の持ち主だと私は思っていますよ。勇者でもなれるかも知れません。ただ、開花させることは私には出来ませんでしたが……」
本当に追い詰められないと、才能を発揮しないのんびり屋さんですね。ほら、いつまでにやらなきゃならないってことを、いよいよ前夜になって慌てふためいて……結構、やり遂げてしまう人いるでしょう。
あまりの喩えに、思わずレオナがふきだした。
確かに出会ったころの、魔法使いとしてもずいぶん頼りなかった彼は、もっとも急激に成長した。たった三ヶ月足らずで、賢者にまで昇格を果たした、今や最強の部類に入る。その成長は、考えようによってはダイより目覚しい。
「……ヒュンケルですよ。彼はもともと戦士向きではありません」
レオナはびっくりしたようにアバンを見た。彼はこれ以上ないように、戦士に見える。おそらく誰一人として否定はしないのではないだろうか。
あの本来のベースとしての戦闘能力が人間を上回る魔族やモンスターを押しのけて、魔王軍の一将を務めたほどなのだ。
「頑固ですから……かれは」
話がそれました。軽く咳払いをするとアバンはそれ以上のコメントをせず、話を戻した。
「あなたからの依頼で私は、ダイくんを指導しました。彼の資質と、おぼろげながらその由来は感じていましたが、それよりも強く私の心を捉えたのは、あなたとの絆の強さです。……この子は私を超える勇者となるだろうとその時思いました」
軽く視線を伏せ一息つく様子を、レオナはじっと見詰めた。
「きっとダイくんも、あなたとの出会いを奇跡のように思っているでしょう。
でもまだあなたに追いついていないだけなんです。
男の子はみんなナイ〜ブなんですから、ゆっくり成長を待ってあげてください」
二人の絆こそが本当の奇跡だったのだから、出会いはきっと繰り返される。
「ヒュンケルも、ダイくんの魂が境界を越えた感覚はなかったと、言っていましたから、ダイくんと次に会っても、ちゃんと私たちにもわかりますよ」
「はい」
レオナは明るい笑顔で頷いた。なんか、一部ごまかされた気もするけれど……結局フローラとの事は、かわされてしまった。
それに―――。
一瞬気づいて、でも怖くて、アバンに問いただせなかったことがある。
『ヒュンケルも、ダイくんの魂が境界を越えた感覚はなかったと……』
ヒュンケルには死線を越えて去った魂を感じることが出来るのだろうか。
なんとなくありえそうな気もした。彼は不死騎団の頭領だった。死なない騎士団。
その正体は死者の軍団だ。そして、バーン大魔王の魔力を吹き込まれた『それ』を操っていたのは彼だ。
戦争が終わった今となっても、ヒュンケルは魔王軍の詳細を話そうとはしない。
大抵の者はヒュンケルのきつめに整った容貌と、年齢を上回る怜悧さに世間話を持ちかける事もなかったし、あまり表立っていない、しかし隠されているでもない素性を知る者は明らかに接触を避けた。
ならば、父王の生死の行方を、知らないというヒュンケルの言葉は本当だろうか。
遠い地の出来事ではない。パプニカを陥落させたのは、他ならぬヒュンケルなのだから。
短い休憩は終わり、再びレオナは、目の前の事案に没頭した。
どちらにしても、今出来ることも、すべきことも、他には思いつかなかった。
* * *
穏やかな風が海から丘に駆け上ってくる。
なだらかな丘の頂きにある、白い石造りの建物。しゃれた造りのテラスには、籐のかウチが置かれ、生成りのクッションが添えられていた。
テーブルはやはり籐の枠と盤面に磨かれた大理石がはめられている。
対で並べられたカウチの脇には、エメラルドグリーンのぷっくりと膨らんだ実をたわわにつけたマスカットや桃が盛られた皿が、華奢な飾り台におかれていた。一部皮をむかれたままに放置されたそれは、食べるため、と言うより香りを楽しむためのものだ。
さまざまな地域の特産を組み合わせて作られた家具や、高価なやはり舶来の果物。
世界中が復興におおわらわな中で、まるで別世界のような穏やかさと、華美ではないが十分に贅沢な空間が、この屋敷にはあった。
ベンガーナの港町に程近い、この屋敷は貿易で栄えたこの国の商人たちの中でも、もっとも有力なジラフ伯の、別宅であった。
そのカウチの肘掛に、肩肘をつきながら、もう片方の手でページをめくっているのは、二ヶ月ほど前からこの屋敷に滞在しているヒュンケルだった。
名目上は、ボディーガードだが、実のところは単なる居候……賓客待遇での滞在である。
しかし、ジラフ伯の客ではない。
この別宅は先の戦争が激化したころから、本来の主ではない、しかしヒュンケルよりも余ほど『賓客』の呼び方にふさわしい男の住居となっていた。
ヒュンケルはその男に請われてここへ滞在しているのである。
エナ・ハイマン。
王族である。にもかかわらず、位階がないのはベンガーナと違い、身分制を用いないパプニカの王家の外戚だからである。
正確にいえば、王以外の臣以下国民までが『平民』であり、臣と民を分けるのは役職のみとするのがパプニカの身分制度のため、ベンガーナのような王の下に、貴族位と官位とが存在し、国民があり、渡来民があるという階段的なものではないのだ。
ハイマンの祖母と、レオナの曾祖母は姉妹に当たる。
利発な姉妹はどういう経緯かは明らかでないが、姉であるハイマンの祖母が、ベンガーナの先王の弟に嫁ぎ、妹が近衛団長を夫に迎え、女王に着いた。
ハイマンの母親は、パプニカの臣と婚姻し、再びパプニカ王家の血は、ベンガーナのつながりを持ってパプニカに帰った訳である。
ずいぶんと履歴がややこしく思えるが、要はパプニカ王家の流れは、現在本家のレオナ・パプニカの系譜と、分家のエナ・ハイマンの二つが存在しており、ハイマン家は同時にベンガーナの外戚でもある。
その関係をフルに活用した結果、激しい魔王軍の攻勢により城の陥落するより時期を前に、ハイマンはベンガーナの地に避難した。
城の陥落を聞いたのは、このジラフ伯の別邸のカウチの上だった。
「ヒュンケル、今夜は踊り子を呼んでいる。街で見かけたが、なかなかのものだったのでな」
ヒュンケルの寝そべる反対側のカウチに、やはり杯を掲げて肘掛にもたれている男が歌うように声を上げた。
四〇代の細面の顔は短く刈られた金髪に縁取られて、揶揄するような暗い灰褐色の瞳に、やや神経質そうな細い眉。
肌が白く、日に焼けたことの無い線の細い体躯、一目で貴族と知れる容姿があまりにもこの邸宅に溶け込み、またこの時代の情勢にそぐわなかった。
「……この復興で余裕の無い時期に、よくそんなノリで反感を買わんな」
軽いため息とともにヒュンケルは、追っていた文字列から視線を上げると前の男……ハイマンに移した。
「心配してくれるのか、嬉しいね」
居候の癖にあまりハイマンに構わないヒュンケルが返事を返すと、嬉しげに手をすりあわせた。上機嫌な時の男の癖だ。
「どんな困窮時にだって娯楽は必要だよ。そして踊り子には、踊り以外ではたいていにおいて無能なものだ。かれらに踊る場所を与える者がいなくては、かれらは飢えてしまう」
必ずしもハイマンの言っている内容は貴族思考で、公正な判断と言い難い部分もあるが、そう間違っているわけではない。
芸能者である以上、その芸術で身を立てられるに越したことはないのだ。
現実にハイマンは出奔したパプニカでも、このベンガーナでも、芸術の保護者としての役割にあり、認識されていた。
彼の審美眼はけして金にあかせたものではなく、音色を聞き分ける繊細さは批評家に劣らない。
だが一方で〈親の遺産を食いつぶす、道楽貴族〉との評価がささやかれもする。
だがそれを気に留める様子は、少なくとも表面的にはハイマンには見られなかった。
「きみも是非に鑑賞してくれたまえ、以前のように中座してくれるなよ」
ヒュンケルは返事をせずに手元の本に視線をもどした。
ヒュンケルの滞在中、以前にもハイマンは芸能者を夕餉に招いたことがある。
その時は楽の奏者で姉妹だった。赤い髪を椿花の油でつややかに結い上げた二人は、健康そうな日に焼けた肌をさらしていたが、続く戦禍で困窮していたのだろう、幾重にも飾られた装飾品が、やつれた腕に重く枷のようだった。
弦を爪弾く姉、笛を奏でる妹。
彼女らの叔母という、初老の女性が売り込み役のようだった。
しばしは二人の演奏に聞き入った。
ハイマンの二人の演奏を賛辞する麗句の半分ほどはヒュンケルには意味を得なかったが、そんな無骨なヒュンケルにも二人の演奏は心地よく、食事をしながら聞くには惜しいような気がして、手を休めたほどだった。
やがてヒュンケルとハイマンの間で、酌を取り持ち、せわしなく仕えていた老婆がよりヒュンケルに体を寄せ、耳元でささやくまでは。
―――どちらかお気に召しましたか
傍目にはなんら変わらぬ表情で、酌をうけたヒュンケルだったが、その瞬間にたおやかな音色は意識から去り、杯を飲み干すと、静かに視線をふせた。
楽に聞き入っているようにも見える態度に、老婆はハイマンの酌に移ったが、ヒュンケルはどうやって中座しようかと算段をめぐらせていた。
芸能者の売るものは芸ばかりではない。もちろん色々で、まったくの芸だけを売り物にするものもいるし、逆に芸は余興と言うものもいる。
別段ヒュンケルはそれを卑下する意識はなかった。
一番には、そういった現実を見慣れているということもあったし、それらの行為そのものに浄・不浄の観点を置く感覚がない。
人間社会のなかで育つことのなかったヒュンケルの道徳観念や世間体などは、知識以上のものではなく他人事にすぎないところがあり、それが浮き世ばなれした印象を滲ませる結果となっていた。
ただ、老婆の滲ませた打算を察知してしまうとどうにもダメだった。
もともとそういった欲望は後回しのタイプである。さらにそこへ第三者の思惑が絡んだりするともうお手上げだった。
年の割に老成したようなところのあるヒュンケルだったが、それらすべて呑みこんで、上手くあしらうなどという老練さは持ち合わせていない。
行為自体が変わるわけではないのだが、意味が変わった、と反発を感じてしまうのは、年相応の若さゆえかもしれなかった。
芸能者のほとんどは遊民の位置にいる。国を持たず、ホロのついた簡素な車をロバに引かせ、そこで寝起きしながら世界を巡るのだ。
その一方で、数は少ないがお抱え者と呼ばれる者がいた。王族や有力な臣官、商人などに専属する芸人で、遊民仲間にはあまり評価されないが、なにより囲われている間には食べるに困ることはない。
今日生きる糧のために、芸を磨くのではなく、芸のために芸を磨くことの出来る環境は、彼らに魅力的でないはずが無い。
戦争の傷も新しい今、楽を楽しむ余裕も無い人間は多い。姉妹二人と老婆で流しを続けるには酷な世情だろう。
ハイマンが芸能者たちのパトロンであることは、芸に携わる者で知らない者はまずない。老婆がどうにかして取り入ろうとするのも、せめられぬ背景があった。
とはいえ、姉妹も承知のことかどうかまではヒュンケルには分からなかったが、それこそ食客のヒュンケルには当てにされてもどうにもならないことだ。
どうにも上手くないとは判っていたが、用を足すとハイマンの前を辞し、そのままその席には戻らなかった。
なにを勘違いしたのか、廊下にまで御用聞きよろしくヒュンケルを追ってすりよってきた老婆に辟易したのは余談だ。
ハイマンの中座してくれるな、というのはその折のことを揶揄しての言葉だった。
「まったく無粋にも程がある、あんな風に逐電されては、彼女らの芸能者としても女としても立つ瀬がないではないか……ン……」
口の片側をゆがめながら、あごを突き出すようにしながら、語尾をあげてヒュンケルの返答をうながした。
「……」
「まったく若くたくましい肉体を遊ばせておくとは、もったいない……や、遊ばせないのが惜しいと言うか」
返事のないことも気にするようでもなく、次第に謳うような口調で続けた。
「さらす銀髪の光は伝説の神鋼オリハルコンの輝きもかくや、凛とした強い眉、色の無いかのような稀有な瞳の奥に覗く紫淵は、切れあがった眦とあいまって研ぎ澄まされた刃の如き……」
聴く耳は持っても、歌は吟遊詩人に任すにかぎるな、と、ふと言葉を区切って歎息すると、ハイマンはさらに不調法なヒュンケルに判りやすい表現に切り替えた。
「少々きつめだが、せっかくの色男が……知らぬわけでもなかろうが、それとも聖人を気取っているのか、男色専門か」
「……」
「聖人にしては理想を語る処も、夢に浮かされたような瞳もみたことがない、そうか、これは気づかず若い盛りに無体をしたな……今夜は私の閨にくるか」
「……どうもここに長居をしたな」
冷ややかな表情で、読みかけの本を閉じたヒュンケルに、ハイマンは呵呵と笑いながらカウチの沈み過ぎるきらいのあるクッションに寄りかかった。
「……違うのか残念、怒るな、あんまり取り澄ましているから、突つきたくなっただけだ」
細い眉を片側だけあげて、スガ目にヒュンケルに視線をくれた。
この二ヶ月でだいぶ呑みこめてきたハイマンの性情だが、一気にヒステリックなほどに陽気にはしゃぎ、瞬間冷淡なまでにあっさり切り返す落差はヒュンケルの苦手とするところで、半ば本気で呆れて立ちあがりかけた腰を居心地悪げに、カウチに戻した。
「今日の踊り子は先だってのような心配はいらんよ、それに今夜はジラフ伯が来ることになっている、君も会ってみたいと思っていたんじゃないか」
ヒュンケルが微かに眉をひそめた。それはジラフ伯の名が出たことにではなく、ハイマンの爪を噛む癖が出たのを見てのことだったが、ハイマンはそうは気付かなかった。
「暴漢に襲われた私を救ったのは、偶然の上にきみの意思でもない。私の誘いを無視しかけていたのに気持ちをかえてこの別荘に滞在したのは、私がジラフ伯の居候だと知ったからだろう」
眉を寄せると、こめかみの辺りの薄い皮膚に血管が一筋浮き上がり、いっそうハイマンを神経質に見せた。
「……そんな薄情な人間だと言うに、きみの雰囲気はひどく安心するのだよ、どうしてだろうね、私の半分ほどしか生きてない若造の、しかも私の嫌いな暴力を職業にしている野蛮人だのに。
なんとなく人間らしくないような、ケダモノのような目だろうか」
いらいらした口調が、だんだんと気弱にかげっていく割に、喧嘩をうっているのか?と言いたくなるような言葉を吐くハイマンに、内心苦笑した。
四十歳もとうに過ぎた中年男が、爪を噛み噛み落ち込んでいる姿など、醜悪の一言だったが、どこか愛嬌を残しているような気がしてヒュンケルは柄になく突き放しきれないでいた。
ハイマンの独り合点をいちいち修正するほど、まめやかでも親切でもないが、ヒュンケルがここに二ヶ月近く滞在しているのは、ジラフ伯ではなくハイマン自身に興味を覚えたためだ。
短い間だったが、因縁の深いパプニカ王国と王族。
レオナ・パプニカ
ヒュンケルを生き長らえさせた、強く、美しく、愚かな少女。
アバンやフローラ女王、そして少女の父タイガと同じ純白の神炎のごとき魂の光りを放つ処女。
エナ・ハイマンの名は、王宮の関係者以外から大戦の前にも後にも聞き知っていた。
臆病者の代名詞のような扱いで。
レオナの戦功がよりハイマンの待遇を、影のように強く照らしてしまってしまっているようでもあった。
「その手はなんだね?」
ハイマンは無言でぬっと突き出された手のひらに気付いて、ヒュンケルに困惑顔を向けた。
「爪きりを持って来い。爪が伸びているからそんな風に噛むンじゃないのか?」
自覚の無かったハイマンは虚をつかれたように動きをこわばらせると、頬と耳とを赤らめて、しかし次にはいそいそと席を立って部屋に爪きりを求めて入っていった。
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