不可視の海

2.  「私待つわ、いつまでも待つわ、たとえ・・・」 (by エイミ)


 
怒号のような強暴な空気が町の通りに張り詰めた。
 
「さっさとしろっ……」
「子供を離せ、誰もおまえをバカになんかしてない」
 
ぎらぎらと血走った目を上目遣いにして周囲を見まわしながら、腕で首を引きずるように子供を抱きこんだ男は、路地脇の建設中の家壁を背に威嚇した。
「なんだってんだ、酔っているのか?それにしちゃたちが悪い」
「その物騒なもんをおろせよ」
人々が、口々に諌めようと周囲を取り囲む。それが返って追い詰められたように感じたのか、男はヒステリックにわめき散らすが、半分もその意味は判らない。言葉がわからないわけではない。
手にした包丁のようなものをしっちゃかめっちゃかに振り回し始めた。
 
「おい、ありゃあ彫金屋のとこのせがれじゃねえか?おい誰か親父呼んでこい」
「警護隊の巡回つかまえてこい」
 
それ以上近寄ることも出来ず、遠巻きに眺めるばかりだった人垣の一部がひらいて、若い女性が足早に進み出た。
 
「賢者さま!」
「ああよかった、警護長が近くにいたか」
 
供を連れるでもなく、単身前に進み出た賢者と呼ばれた女性は、二十歳になるかどうかというところで、腰にとどきそうな真っすぐな黒髪を風の好きに遊ばせていた。
 
茶色い瞳を取り囲む、豊かなまつげが目の印象を強く彩っている。
額当てには、燃えるような真紅の石がはめ込まれ、黒い髪と瞳と、白い肌とをより際立たせており、白を基調とした服とマントに隠されないすんなり伸びた肢体に着けられた、鋼色に輝く脛当てとひじ当てだけが警護兵の物と意匠を同じくしていた。
ぴんと伸びた背筋、女性らしい豊かな胸と引き締まった腰のラインは、しかし、きびきびと闊歩するしぐさのせいか、強く清々しかった。
 
「いったいどうしたのです、何が望みですか」
 
きびしい表情で問いかけるパプニカ三賢者の一人、風のシンボルを額に頂くエイミを、渦中の中心にいた錯乱していた男はしばらくぽかんと眺めていたが、思い出したように低くうめき声を発すると、子供を抱え込んだ。
最初は逃れようと暴れていた子供も、恐怖のためにすでに疲弊しきって、おとなしく抱かれるままになっている。
 
「ぅ……う……るさいぃ、よ、寄るな」
「落ちついて、子供を放しなさい」
「なにを……いってんだ、よう……こいつはスパイなんだ、魔族が俺を殺そうとしているんだあああ」
 
がたがたと体を震わせているのは、恐怖のためなのか、怒りのためなのか判然としないが、男の瞳は焦点が定まらず、どこかにごったため池が、肉の中にぽっかり埋め込まれているようで、エイミはマントのしたに隠れた肌をあわだてた。
 
「それは子供です、人間の。魔族もモンスターもこの辺りにはもういません、心を落ち着けてよく見て」
 
ぶつぶつと誰に向けるでもなく独りつぶやきつづける男に、慎重に、ゆっくり噛んで聴かせるように、しかし揺らぎを持たせない強い意思を載せてエイミは投げかけた。
 
「そんなはずは無い……俺は……確かに見たんだ……」
 
一瞬瞳に光が揺らめき、男は腕にした子供を見返した。
 
「あ……」
 
子供もろともくず折れるように、地に膝を着いた。
閃いた男の瞳の光は、次の瞬間にはもとのにごった水面のようになっってしまっていたが、先ほどと違ってその水面は肉の堤を破って、茫茫と頬をぬらした。
 
「……どおしたんだ……おいぃだいじょおぶかよお」
 
そして両の掌で子供の頬を鼻筋から耳の方向へ、何かを払うように蠢きつづけた。
 
「……うじが……どうして…とれねええ……蛆が、かわいそうによお」
 
酷い気分でその場に立っていることに、疲労を感じつつ、エイミは視線を男の背後の壁に流した。
次の瞬間、建設中の建物の内側から、骨組をくぐるように影が二つ飛び出し、男の背後から引き倒し、刃物を持った腕をねじり上げた。
零れ落ちるように倒れようとする子供を、合図を送ると同時にすばやく駆け寄ったエイミが抱きとめた。
 
「おおおおおおぉ……」
 
寸暇をおかず、本能的にエイミは子供を抱いたまま身を伏せた。
何かが弾けた。
エイミの頭部の通り過ぎた空間を、銀色の閃光と熱がストロボの放つ光のように覆った。
 
「エイミさま、お怪我は」
 
二人の衛兵の一人がエイミと子供とを支え起こした。
もう一人の衛兵に取り押さえられている男は、表情の抜けた出来の悪い蝋人形のように、無反応にされるままになっている。
 
「大丈夫です、ご両親は?……一緒に医者のところまで送ってあげて」
 
エイミは周りの人垣に問いかけ、両親らしい人を見出せずに、後半は衛兵に声をかけた。
するとそれまで無反応なままだった子供が、急に取りすがって離れようとしない。その強い指の力に痛みを覚えながら、そっと背をなでると、呼吸を思い出したかのようにしゃくりあげ始めた。
 
「け……賢者さま」
 
ほっとした雰囲気の周囲の人垣からまろびでるように、老人があらわれた。
 
「おやじ、来たかよ」
 
先ほど呼びに言った彫金屋の親父らしい。
衛兵に取り押さえられた、茫然自失の様子の男を見ると、顔色を変えてエイミの足元に額づいた。
 
「申し訳ありません、間違いなくワシの息子です……ああ、決して狂暴な性格の者ではなかったのです、それが余所さまにこんなご迷惑をかけようとは」
「どうかお立ちになって、どういった状況か私もよくは判らないのです。ここでの様子は衛兵に聞いてもらいます……息子さんは錯乱されているようです、医師のもとに運びましょう」
「息子のかかり着けの医者がおります、案内します」
 
老人は目もとの皺に涙をためながら、打ち明けた。
「お恥ずかしい話ですが、息子は旅商いの最中魔王軍との戦乱に出くわし、いまでも時々眠れなくなると眠り薬をだしてもらっておったのです」
 
エイミはうなずくと衛兵に目配せして、男を引き立たせた。
 
「……きみも来る?」
 
少しためらって、エイミは腕の中にいる子供にといかけた。
なんだかその方が良いような気がした。
真っ赤になった目と鼻をエイミに向け、先まで自分に乱暴を働いていた男に向け、又エイミに向けると、コクンとうなずいた。
事情聴取のために衛兵を一人残すと、もう一人に男を連行させ、エイミは子供の手を引いて歩き出した。
 
切なかった。
 
こんなところにも、暴力の爪あとが残っているのだと思うと遣るせなかった。
 
そして公人の身を離れた場所で、悲しみ恋しがる自分がいる。
民を苦しめた敵将であったヒュンケルに思いを寄せる自分。
 
エイミにとって、彼の人の存在は初めて目の当たりにする残酷な戦争を、ろ過してくれる美しいプリズムのような存在だった。
苦悩する彼の姿は、芯からの悪などないと信じさせてくれた。
彼に恋することで自分は、敵をただ憎むだけに終わることなくすんだのだ。
 
エイミはそう信じている。
 
十歳にもならぬうちから、姉のマリンとともに幼い王女の側近として王宮に上がり、賢者としての教育を受け育ったエイミの初めての恋だった。
戦乱のなかで不安と焦燥と無力感に襲われる中、恐れと相反する優しさを感じさせる青年に、エイミは心を奪われていた。戦乱の恐怖はいつか遠のいていた。
幼い恋は、世間をはばかる相手である事も、またその相手に受け入れられないことも、むしろ甘い陶酔をもたらすスパイスに変えて激しく燃えた。
賢者としての職位も、国の中枢にある立場もすてても構わないと思っていた。
 
実際に彼の人の旅立ちの時には、その意思を彼に伝えて供にたつつもりでいた。それを阻んだのは、普段はあまり言葉の多くない、しかしけしてエイミを邪険にすることの無い態度で接していたその人だった。
 
本気で怒っていた。
 
そんな怒りの表情を隠さない青年を、意外なことに戦時中、自分は見たことが無かったのだと後になってエイミは気がついた。だがその時はただ、体が凍りついたように動かなくなっただけだった。
 
自分の腰元くらいにしか背丈のない子供の歩幅に合わせるため、かなりゆっくりした足取りだったが、老人と正気も覚束ない男を連れてでは丁度よいくらいだった。
エイミはやわらかな子供の掌のぬくもりを感じながら、一度だけすがりついた青年の背の熱を思い出していた。
 

 
久しぶりにそろった食卓に食が進み、各自の近状報告も出揃ったころには、六人はテラスにでて、マリンのいれた紅茶でお腹を落ちつかせていた。
レオナ、アバン、バダック、アポロ、マリン、エイミ。
それぞれが要職にある、まさに現状のパプニカの中枢を担う面々ゆえに、なかなか全員がそろっての夕食はしばらく振りだった。
 
「子供には、戦争が終わったっていうのに、また恐ろしい目にあってかわいそうだったわね」
 
エイミの話を聞いたレオナは可憐な顔を曇らせた。
 
「痛ましいこっちゃの、その男とて根は善良だったんじゃろうに……」
昼間の騒動を話題にのせると、みな歎息した。バダックの憂えるとおり、まるで誰も彼もが被害者のようで、やるせない事件だ。
 
「結局その気を病んだ男の人はどうしたの?エイミ」
 
マリンがアポロのカップにお代わりを注ぎながらたずねた。
 
「酷く衰弱している上に、意識がしゃんとしないの。事情を聞くことも出来ないし、かといって今回みたいに暴れられても困るから、かわいそうだけれど、牢に入ってもらったわ。そこにお医者さまも通ってくれることになったの」
「しかたないな、そこで回復してからだな……しかしご老体にはこたえたろう」
「なんじゃい、また年より扱いか」
「バダックどののことではありませんよお判りでしょうに、人が悪い」
 
アポロは笑ってちゃちゃをいれるバダックに苦笑を返した。
 
「ご家族はもう半ば諦めているようよ、それよりこうなった以上、時間がかかっても治療に専念できるわけだし」
「そうね、いつかきっとよくなってまたきれいなアクセサリを造ってくれるようになるといいわね」
 
レオナもうなずいて返した。
それまで黙って聞いていたアバンが、ちょっと首をかしげた。
「その男性は、事件を起こす前には、かなり危険な状態になっていたんですか?衰弱して?」
「それほど切羽詰った状態ではなかったみたいですけど、かなり不安定ではあったみたいで、二、三日に一回くらいは眠り薬を飲んでいたそうです」
「意識もはっきりして?」
「そうですね、割と昼間は復興作業にも出ていて、今回も建設現場にいたようです。ただ、今朝は初めから、かなりいらいらしていたようです」
「ふーん……」
 
アバンは頷くと深くテラスのイスに腰掛けなおして、何やら考え込んでいた。
 
「なにか気になることが?」
「そうですね、エイミさんが見た閃光というのがちょっと気になりますかね……」
 
言われて思い出した様子でエイミが頷く。
 
「ストロボのような光と、少なくとも危険を感じるような程度の熱はどこから発生したんでしょうかね」
「なにか、魔法石か粉かを持っていたんじゃないかと思うんですけれど」
「火薬とは思わなかったんですね」
「匂いを感じませんでしたし、点火の隙もありませんでしたから」
「だがエイミ、今のおまえの話だと、衛兵が取り押さえた後に閃光が発生したように聞こえたが……」
 
横合いからアポロが思いついたように指摘すると、エイミも何処となく不自然な感覚を持ったのか、しばらく記憶を辿るように押し黙った。
 
「……一瞬の間に連鎖して起っているので、前後ははっきり特定できないわ。ほとんど同時に起ったようなものだから……でもそんなに重要なことなんですか」
「いえ全然」
 
最後はアバンに向けて問い掛けたエイミに、あっさりと答えて微笑した。
 
「ただなんとなく引っかかるものはありますね」
 
アバン以外のその場にいたメンバーは目を見交わしたが、誰も今のところアバンが何を気にしているのか判らなかった。
 
「マリンさん、現在パプニカに出回っている医薬品関係の物資は、どれくらい把握していますか?」
「医薬品ですか」
 
話の流れから魔法石などの、アイテムかと思っていたマリンは、念の為復唱して続けた。
 
「個人的に行き交いして持ちこんだ薬草も、こんな状況ですから多いと思います。そちらはどうにもなりませんが、救援物資として、他国から供与されたものと、商人を介して入ったものは、故意に隠していない限りほぼ全て把握しています」
 
魔法が存在し、病死などは少なかったが、魔法を使える者は特定の職業としてみなされる程度には貴重だった。
多くの者は、安価で手に入りやすい薬草を携帯していたし、それらの薬草を精製して用いたり、外科的手術を行う医者も存在していた。
僧院などは、このどちらもを併せて施した。
一般に人間が使える魔法は、聖なる光の属性のものと無属性のもの、精霊に属するもので、モンスターや魔族に負わされる攻撃のなかには、暗黒属性のものがありこれには、治癒魔法が効かない。
しかし、薬草の多くは人体の体力や、抵抗力を強める効果のものなので、そういった魔法の使えない場合も有効であるとされていたのだ。
逆に、呪いの類は薬草では対応できない。両者は上手く共存していた。
 
 「すばらしい。薬草状態のものは結構です。精神安定や睡眠作用を目的として精製されたものだけ、ちょっと調べていただけませんか。出来ればサンプルを少しずつで構いませんので、すでに僧院や医師に流通したものについては用意してください」
 「判りました。それほどかからないと思います。現在量は増えていますが、戦争のせいで流通経路は限られていますから」
 「先生はその眠り薬のせいで、そのへんな光が出来たとおもってらっしゃるんですか?」
 
どうも突飛な考えのように思われるが、アバンの指示からはそう推測された。
しかし、それが気にすることなんだろうかとレオナは小首をかしげた。
 
「今のところ興味半分です」
 
軽く肩をすくめたアバンに、それ以上話を続ける意思の無いことを読みとって、レオナはそれ以上の追求をあきらめた。
本当に重要なことと判断されれば、アバンは話すだろう。どちらかというと、秘密主義な傾向の強いアバンだったが、レオナを国王として教育する役目も兼ねてのフローラからの依頼であることをわきまえている。
 
なんだか静かだな、とバダックを振りかえると、肘掛のついた籐のイスで居眠りをしている。
レオナの視線に、他の者も気付いて微笑んだ。
レオナのお守役を隠居の張り合いにしていたバダックだったが、再建の現場をまわって、調整役や職人たちを鼓舞して回る忙しい日が続いていた。
疲れてもいようが、その毎日はいつになく生き生きとしていた。
要職を任される嬉しさもあろうが、それにまして復興していこうとする、民衆の活気が国にあふれていることに喜びを感じているようだった。
 
だれもが多忙を極めていたが、今ひとときは優しい静かな時間を、ゆっくり堪能しているようだった。

 
*      *      *

 
 テラスから見渡せる水平線に太陽が沈んだのはだいぶ前だったが、未だにその光は海面近くの空をこん然としたスミレ色に染め上げていた。
その一方で天空には、星の輝きがすんだ空気を射るように点在している。
ヒュンケルは滞在している屋敷の内からしばし仰ぎ見ていたが、華奢な透かし織りのシェードを窓辺に下ろすともとの席に戻った。
沢山の燭を掲げた室内は、昼の日差しとはまた違った、しかし十分な明るさをもたらした。
ヒュンケルには太陽の光よりもよほど馴染んだ光だった。
 
「なにか屋外に見つけましたか」
 
使用人を使うこともなく、自ら巻き上げてあった夜の潮風を和らげるための布を下ろしてきたヒュンケルに、対面に座していた男が声をかけてきた。
 
赤毛にちかい癖のある茶髪は短く整えられていた。薄い一重のまぶたに半眼に覗く瞳は、オリーブ色をしている。日焼けした肌は褐色に近い色をしていたが、海の男とも町衆とも違う、どこかインテリ風な線の細い体をしている。
ジラフ伯は、大方の人間が、あらかじめ知る彼の社会的影響力や地位から想像するよりも若かった。
三十歳も行っていればいいほうだ、という若い外見だったが、本人は笑って実際の年齢はそこに十余り加えるようにと自己紹介を終えた。
 
「や、なに、こう見えてこの無粋無骨な男も、美しいものは素直に美しいと感じる素直な感性は持ち合わせているようでな、おおかた夕焼けの燐光でも眺めていたのだろうさ」
 
もっとも上座にくつろいでいたハイマンが、本人に代わって……しかし案外的確な返事を返した。
ハイマンとジラフ伯はこうして並んでいると、何処となく似通った雰囲気を持っていた。
もっともそれはヒュンケルが感じた最初の直感みたいなもので、とりたてて外見が似ているわけではなかったが。
 
ヒュンケルが窓辺にたったのは、虚をつかれた自分を感づかれたくないためでもあった。わずかな動揺だったが、機微に敏いハイマンがまたいらぬ誤解をしそうにも思えたためである。
ジラフ伯にちらりと視線を流して、再び自分の杯へと戻した。深い琥珀色の液体は、普段よく口にする赤い酒とは異なり、洗練された澄んだ香りをもたらした。
 
―――やはり似ている。
 
今度の懐述はジラフ・ラサハと、エナ・ハイマンとではなく、ヒュンケルの記憶にある、ある人物との比較だった。
 
かつてヒュンケルが長くその身を置いた、バーン大魔王の元、人間界侵略の主力大隊であった、ハドラーを指令にすえた六大軍団。
その妖魔師団と呼ばれた、ザボエラ率いる軍団の首脳であったザムザという男の面影を、はじめてみたジラフ伯の面差しに見とめたのだ。
髪や色も、肌も記憶の姿とは異なるが、面立ちとそのオリーブ色のまなざしがよく似ていた。
 
ザムザの最期をヒュンケルは見ていない。
ただその最期の様子を、ポップやマアムがレオナ姫に告げるのをそれとなく聞いただけだ。
内情を知るはずのヒュンケルとクロコダインに、レオナは意見を求めたが、クロコダインがおおまかな魔王軍内での位置を確認しただけで、ヒュンケルはただゆるく首を振っただけだった。
それは知らないとも、話したくないとも取れる反応であったが、クロコダインがややいぶかしげな視線を一瞬投げただけで、他のものは特に気に留めなかったようだった。
クロコダインの視線には気付いていたが、ヒュンケルはそれを無視した。
ザムザの死と関連しての情報に、この闘いの情勢を変えるほどのものをヒュンケルは持ってはいなかったし、それはクロコダインにも解ったのだろう。
 
ザムザの最期はヒュンケルに、幾ばくかの寂寥と羨望という感傷をもたらしたが、それを誰かに語る気はさらさらなかった。
目の前の初めて対面する赤毛の男は、記憶のザムザよりも十かそれ以上年上に映ったが、実際には魔族のザムザの方がはるかに年月を経ていた。
 
「お若いのに立派な戦士っぷりですな、エナ様が窮地を助けられたというのに、直接のご挨拶が遅れ申しわけありません」
 
物静かな印象の微笑みと供に、食客であるヒュンケルにも丁寧な口調を崩さずに対応しているところに、返ってある種の老練さが伺えた。
 
この屋敷に滞在するきっかけとなった一件とは、ハイマンが供を連れてベンガーナの城下町をうろついていた折、暴漢におそわれたことだった。
発端は物乞いの子供が、ハイマンの豪奢な身なりに常になくまとわりついていたのだが、相手をしなかったことにある。
ハイマンの持論としては、どんなにまずい芸でもなにかをするなら施しの価値もあるが、ただの物乞いでは興がのらないということだったらしい。しかし、あいにく貴族習慣の染みついたハイマンにそれを子供に説明する親切心などはなかった。
じれた子供がハイマンに取りつき、何かしら奪おうとして騒ぎになった。そのころには町の野次馬やら、子供の仲間やらが遠巻きに集まっており、その中にはハイマンを快く思わない不心得者が混じって、その騒ぎに便乗して暴行略奪を行おうとしたため辺りは騒然となった。
もちろん、供が数人護衛も兼ねてついていたが、押さえどころを把握できない状況でもみくちゃにされ、ハイマンの近くから離れないだけで精一杯だった。
 
「礼を言われるほどのものでもない。むしろこの長い滞在はすぎた待遇だ。辞すに主に会わぬままにも無礼だろうから、厚意に甘んじたが、それも今夜であらためよう」
「なんだ!私が求めてのことだ、おまえが遠慮することではないぞ。そんなに私の相手は退屈か」
 
むくれた様子でハイマンが口をはさむのを、ジラフ伯はなだめるように言葉を継いだ。
 
「誠実なご気性なのでございましょう、この地は強固なる国王軍に守られ、先の大戦でも平和のたもたれた少なき国。戦士のヒュンケル様にはものたりなく思われるのかもしれません」
「うむ。そこがおまえの瑕だ、ヒュンケル。戦士だなどと野蛮な行為でのみ己の価値をはかるなど、ナンセンスだ。おまえの存在そのものに価値があると判断し私がおいているのだ、引けめなど無用だ」
 
どうもハイマンはヒュンケルのことを、高く買って、それを力説してくれているようだが、果たしてけなされているような気分になるのは、けしてヒュンケルの被害妄想とはいえないだろう。
もういいかげんに慣れたハイマンの口上に軽くため息をつくと、ヒュンケルは手に持ったグラスを乾した。
 
「エナ様、それでは戦士という職業に誇りをもっていらっしゃる方には、手厳しいお言葉ですよ……ヒュンケル様は特別な戦士。かの大魔王を倒した勇者様のパーティの一角を担われた、先の大勇者様のご子弟でいらっしゃる」
 
一瞬鋭く閃いた視線を感じつつも、ヒュンケルは表情をかえることなくジラフ伯自らの献杯を受けた。
その傍らでハイマンが目を見開いて硬直したのが、気配で伝ってくる。
 
―――さすがに食えない男だ。
 
もうヒュンケルの身上は、すっかり洗い出してあるのだろう。多分面談は忙しいことも理由だろうが、素性を調べるためにも時間が必要だったのだ。
名を隠すことはしないとは言え、それだけで調べ上げる情報収集力はさすが名だたる商人というべきか。
もちろん、ヒュンケルが元々は魔王軍の将であったことも了解ずみだろう。しかし、この場でそれを持ち出さなかったのは、ハイマンを気遣ったからか、別の思惑あってのことか……。
 
「……そうなのか」
「ああ」
「なぜ言わなかった」
「聞かれなかった」
「私がレオナ姫と親族関係にあったことは、知っていたのか」
「ああ」
「私に目的あって近づいたのか」
「いや、偶然」
「……なんだその態度は!なんでもっと慌てたり、弁解しないんだ、張り合いのないやつめ!」
 
戯曲のワンシーンでもあるまいし、こんなことでハイマンを相手に、愁嘆場を演じるつもりのないヒュンケルの態度に物足りないらしく喚き立てた。
 
「だいたい大戦の英雄が、なんでベンガーナの城下町をうろうろする用がある」
「……英雄どころか戦犯だからな。それに『野蛮な戦士』は戦争が終われば用なしだろう」
 
軽いため息と供にヒュンケルが返すと、怪訝そうにハイマンはジラフ伯に視線を向けた。
 
「戦犯など……ヒュンケル様はレオナ様より恩赦をいただいていらっしゃるのですから、誰にはばかることも……」
「恩赦ということは、罪を犯したということであろう、ヒュンケル。王の権力で枷をとかれても、罪が消えることはない」
 
ジラフ伯のとりなしをさえぎると、ときおり垣間見せる冷淡な瞳でハイマンはヒュンケルに告げた。
 
「そのとおりだ」
「そんなおまえが偶然に王族である私を助け、何の策謀もなく私の側に滞在するなどありえると思うか」
「難しいな」
「ばかもの、ここでは否定せねばならん。おまえは私の信頼など毛ほど価値も感じぬのであろうがな」
「必要ないだろう。疑われてもいないのに」
「……」
ヒュンケルはわずかに目を細め、彼には珍しい笑みとも見える薄い表情を唇にうかべてハイマンを見やった。
ハイマンは一瞬驚きの表情を浮かべたが、直ぐに飲みごろを過ぎたワインを含んだような顔で唸った。心なしか顔が赤い。
押し殺した笑い声が漏れ聞こえハイマンとヒュンケルは振り向いた。
 
「ふふふ、取られましたねエナ様。……ヒュンケル様、出来ましたら私からも今しばらく滞在をお願いしたいのです。今後は正式に雇用という立場で」
 
面を伏せ気味に笑う姿は屈託なく、こんな風にも笑えるのかとやや意外な気持ちでヒュンケルはジラフ伯を見やった。
 
「雇用というが俺はたいした技能もないがな」
「いいえ、あなた以上はなかなか望めないものです。ありていに言いますが、その腕を買い取りたいのです」
「……用心棒か」
 
納得したようにヒュンケルはため息をついた。
 
「私はこのベンガーナの御用達をつとめる商人です。この戦争で多くの被害をこうむった国にも支援物資や、便宜を図った商品売買の流れを国策もあって預かっていますが、治安の悪化は深刻です。国境を越えたところからは国王軍も、その威力を半減させてしまいます。もちろん護衛はつけておりますが……お察し頂けるでしょう?」
 
あまりに大きな軍隊を護衛に付ければ、他国への行き来は不穏な印象を与えかねず、かといって私設の護衛はこの状況でそのレベルの高さは望むべくも無い。ぬきんでた腕があれば襲うほうがよほど高い収益が望める。それだけ保安懲罰の威力が弱まっているのだ。
ヒュンケルは頷いた。
 
「国境まで出迎えの護衛をよこしてくれるところはいい。ですがそんな手も惜しい状況の都市・国家も多い。現在直接私どもが商っているのはテラン、リンガイア……」
 
並べ上げる声を聞きながら内心ヒュンケルは舌をまいた。主だった都市・国家の名前が挙げられていた。貿易国家ベンガーナのその中核を担う商人とは知っていたが、この混乱と不況のさなかそれだけの需要を満たす物品を動かせる力量と影響力はすばらしい。そしてそれだけの権力を持ちながら、表立った場へ現われる事の滅多にないわきまえには並々ならぬ采配がうかがえた。
 
「今は運搬を極力小分けにすることで、被害を少なくしていますがそれもこの時勢では惜しむべきでしょう。時間と費用がかかり過ぎる」
 
ヒュンケルは戦闘の実力はもちろんのこと、その経歴と名がものをいうのだ。
公表する必要はない。商人に商人同士の情報の共有があるように、傭兵と悪党盗賊の類は特有の情報網がある。一見立場が正反対のように見えるが、主を持たず腕を頼みに生きる者には敵味方という概念は、蜃気楼よりも当てにならないものだった。
少しの噂とそれを裏付ける事実を1、2つ用意すればいい。
 
―――ベンガーナのジラフに『ヒュンケル』が雇われたらしいぜ。
―――誰だそりゃ。
―――なんだ知らんのか、あの勇者のパーティの戦士だよ。アバンの使徒とかいう。
―――……ここだけの話だがな、その男実は人間のくせに魔王軍の軍団長だったらしい。
―――バカか、んなのが処刑もされずにいるかよ。
―――どうやって処刑すんだ、最強の戦士だぜ。パプニカも利用できるなら、丸めこむ方が利口って思ったんだろうよ。
 
 それでも侮って来た輩を返り討ちにすれば、直にそんな命知らずはいなくなるだろう。
これ以上はない『ヒュンケル』の利用法だ。
 
「それに先々、1度はハイマン様もパプニカに帰国されねばなりますまい」
「厄介払いか」
 
まるで部屋の掃除を指摘されて「そんなの判ってる!」とふてくされる子供のようにハイマンがつぶやいた。すっかりつまらなそうに、クッションにふんぞり返っている。
 
「避けられますまい?もちろん直にお戻りになられても私は歓迎いたします。ハイマン様の資質はこのジラフ、誰より買っていると自負しておりますゆえ」
「腹に一物かかえて近づいてきたのなら、ヒュンケルに私を護衛させるのは危険なのではないか?」
 
ヒュンケルに言い負かされたのが悔しいのか、ジラフに帰国を促されたのが癪なのかハイマンは畳み掛けた。結局そこに帰るのかと、やや内心お疲れ気味なヒュンケルを余所に話は進んだ。
 
「エナ様の鑑識眼を信用しておりますから」
「……ヒュンケルがそんなのを引きうけるわけがあるまいよ。私を助ける時でさえ威嚇もせず、剣を鞘から抜きさえしなかったヤツだぞ」
 
ジラフは笑った。商人の笑みだ。
ヒュンケルを自由に解き放ったレオナやアバンのように、この男も見ぬいている。どんな鎖よりも確かな戒めを。
咎を掛けぬことで永久化する贖罪の効力を。
 
「ヒュンケル様は人・民のためにお力を与えることに、ためらわぬお方ですよ」
―――『パプニカ』の利益につながる以上、あなたに選択の余地はありますまい?
「……引き受けよう」
 
ため息とともに吐き出された言葉に、ハイマンは目を見開いた。
最高級の素材をより安価に手に入れる。商売の基本中の基本と、雇用者の理想である"給料のいらない従業員"の両方を限りなく近い形で手に入れたジラフの、誰にもあきらかな独り勝ちだった。
 

 

 

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