不可視の海

3.  「私ってダメ男好きかも」 (by マリン)


 
マリンにとって、女性であるよりも賢者でいるほうが自然だった。
 
ようやっと好き嫌いをことばで表すようになった妹と、城へ上がったのは生まれた王女の遊び相手として。二歳になるかという王女は美しかった。
輝くような柔らかな金の髪と、おきなブルーの目が実は酷くうらやましくて、ああやっぱり王女様とけらいは最初から違うんだ……子供心になんだかがっかりしたのを今でも覚えている。
もっとも今はあの頃のがっかりはなく、くすぐったく幸せな思い出と変じた記憶だった。
妹だけでも十分たいへんだったのに、大人はみんなあたしをたよってばっかり!しょうがないわねえ。やっぱりあの頃も嬉しいことでもあったのだ。
いつのまにか賢者と呼ばれるようになって、頼られることが楽しいことばかりでなく、ことに自分は結構な責任を負っていることに思い至る頃には、マリンにとって頼られることそのものが必要とされることと同義語となり、それ自体が生きがいになった。
ようやっと二十代になろうという若い自分が<生きがい>などというのも口はばったいが、早くに母親を失ったレオナ姫には姉のように、時には母親のように求められる役割を応じてきた自負がある。
先の魔族との大戦が始まり、亡国の危機に見舞われるなかにも、マリンが比較的動じずにいられたのは、この性分によるところが大きかった。
 
そんななか妹のエイミが恋をした。
 
そのことに一番に気がついたのもマリンだ。そのこと自体は彼女にとって驚くことではなかった。当然それはいつか訪れることとして予測の範囲内だったし、「予測しえない相手であろうときっと応援する」と決めてもいた。だから相手があの『ヒュンケル』であろうが関係はなかった。
だが妹の変貌は予想以上だった。同じ教育を受けながらその資質が分かれたように、彼女は恋を選び取るために国も家族も捨てようとした。
マリンはたとえエイミが結婚し、家庭を持ったとしても、それはマリンの生活の圏内であるような思い込みがあったことにその時気付いたのだ。
 
―――こんな困難なときに、なんて無責任な!
 
そんな感情がなかったわけではない。それは当然だと思う。
二人は将来賢者となる資質を認められ、王室へあがって以来選りすぐりの教育、物資、待遇を与えられてきた。それは国がもたらしたものであり、民の資金からなるものだった。
幼い頃から何倍も歳の上な人々に、敬称と礼節をもって迎えられてきた。
それらを、復興に苦心する全ての人々を、エイミはかえりみなかった。
それが苦く思われた、そうだろうか。
違うだろう。エイミの想い人である男が、エイミを振りきって出奔し一年ちかくが経とうとしている今、あの頃よりもずいぶん落ち着いて考えられる。
それだけじゃあなかった。あの頃の、そして今でも少しマリンはエイミが妬ましい。「姉妹なのに」というべきか、「姉妹であるから」と思うべきかは判らないが、なんて奔放だろうと思う。
相手を想うことにその周囲を考えてしまう自分と違う妹。最初それほど困難とは思われなかった(逆ならば立場上、難しいとおもったが)エイミの恋心は、あっさり拒否された。
その時は身内の贔屓もあって、エイミのどこに不満があるのだ、大体贅沢言える立場か、と内心憤る気持ちもあったのだが、それこそ彼の立場で受け入れるのは難しいのかもしれないと思い至ると、それはそれで同情したくなった。
 
同情、そう同情だ。
 
万人に祝福されることなどないような恋への。
己の乏しい恋心を思うとちらつく背中が、マリンを少しばかり感傷的にさせる。恋と言うにはいささか口幅ったい、しかし憧れというには歪な気持ち。
 
タイガ=パプニカ。
 
心の中でさえその名前を形にすると、マリンは後ろめたくなる。レオナの父、先の大戦の最中までこの国の王であった男。心配するまでもなく、誰にもこの気持ちは悟られてはいないのだが。
その淡い想いに我を忘れることも、なにか不振な挙動に表れたりなどまるでしない自分に、マリンはずっと女性としての魅力に乏しい人間だ、と自嘲していた。
後先を考え、周りの反応を考え、有能な臣下であることが最上だと判断しそれを実行してしまえる自分。
だが妹は違った。当人に告白し、拒絶されてなお諦めることなく恋情を燃やしつづける。激しい情に彩られた彼女は美しかった。
おそらく自分には一生持つことのないだろう激しさが、すこし妬ましい。だが、それが自分の形に合わないことも知っているから願いはしない。あの炎は彼女の中にあって美しく燃えるのであって、自分の中にあれば不慣れな炎に、なんの救いにもならない傷ができるだけなのだ。
王の行方は闘いが終ってもつかめなかった。その亡骸もないことがマリンにとって一番につらいことだった。せめてその最期が誰かの口から告げられるのなら、その是非はともかくすがって信じたかったが、もっとも知っていそうなヒュンケルは知らないという。
 
お前が殺したんじゃないのか?
 
面前でそう問い詰める人間がいなかったわけではないが、それに対しては「違う」と言葉にした。彼の場合ああして言葉にしたものは<事実>だ。ただし彼がマリンたちの望む形での<真実>を述べているかは微妙だ。
結局マリンの想いは、決定打を得られず宙ぶらりんなままだ。
そういえばエイミも置いてきぼりをくらったまま、国政に戻り恋の行方は停滞したまま今にいたっている。
マリンは回想を打ちきってかすかに笑った。
 
―――やっぱり姉妹だ、私達ってよく似てる。
 
そんなの似なくてもいいのになぁ。ため息がもれた。
 
 

 
うららかという形容がふさわしい、優しい光の溢れる執務室でアバンとマリンは向き合っていた。
数日前、話題に出たエイミの取り押さえた男性について依頼していた件の報告に、マリンが小ぶりの籐カゴをかかえてきた。カゴのなかには、男性の服用していたものと同類の製薬の小ビンが並んでいた。
アバンは目の前に並べられた薬品のサンプルに息をついた。考えたより少ない。ただでさえ忙しい身にはありがたかった。
パプニカ国内の復興も軌道にのり、政務も新しい若いメンバーを中心とした体制に上手くシフトできた。アポロの存在にかなり助けられた。先王タイガが将来の中核にと教育していた賢者は、派手さはないが堅実な実力をすでに備えていた。
 
彼とはカール騎士団にいた頃からの知己だった。その頃すでに賢王と名高かったタイガ王だったが、ごく身近のものにはたいへん困った存在でもあった。徘徊のケがあるのである。
本人が「お忍びルック」と称する遊び人の風体で、城下町に飽き足らず近隣諸国にまで時には供もなく出歩く。酒場に出入りする。賭け事をする、時には無銭飲食で雑用まがいに働かされる。妃を見初めたのも、その徘徊中であったということだから、手回しや後始末に近衛の者たちの苦労は察するにあまりある。
アバンがタイガ王とはじめて出会ったのは、実はその徘徊行脚中であった。しかも場所はカールの城下町。
元々交流のあった両国だが、フローラ姫の誕生祝いを兼ねた交流訪問の二日前のことだった。現地合流という法外な行動予定を押し通し、単独でカールに先んじて入国していたらしい。
アバンは当時騎士団に入隊してさして間もなかったが、個人的にタイガの徘徊癖は知っていた。もちろん教えられた訳ではない。
放浪癖と友人に揶揄されるアバン自身が、ちょっと変わった男の噂として耳にし、実際に見かけたこともある。
気風はいいが金はなし、腕っ節は立つが傭兵でもなく、賭け事も酒も街にきてから稼いだ金でまかない、儲けてもスッても姿を消す時はまた無一文。容姿も良くて女にももてるが、男連中と諍うこともない。むしろ好まれているらしい。
そりゃまた気合の入った遊び人もいるなあ、とアバンも一度会ってみたいと思った噂の男だが、実際に見かけた姿に流石に驚いた。
見かけてすぐ「あれか」と気付いた。人を引きつける明らかに周囲から浮いた存在でありながら、不思議と馴染んでもいた。独特の雰囲気に、その姿を眺めること三分。正体に気付いて固まって五分。その時はそのまま回れ右してその場を逃げ出した。
まさか自分をみて素性がどうといわれることもないだろうが、なんだか危険だ。少なくとも今の自分には手におえない。
それをまたどうしてかカールの城下町で見かけちゃう自分も、運が無いというか。しかもなんで彼はこちらに気づいて笑いかけて手を振ってるんだろう、「やあアバン」ってなんで名前しってるんだ……。
 
ともあれ以来アバンとタイガ王は公私に渡って交流をもっていた。勇者の家庭教師と称した、各国を巡った人材発掘の理解者であり、援助者でもあった。
よもや彼ほどの者がその生死すら判らぬことになろうとは、アバンも予想していなかったが、フローラに依頼された以上に彼自身力になりたかった。タイガの面影を容姿・性格とも強く残したレオナ姫と若い賢者たちの力に。その気持ちは嘘ではない。
嘘ではないが……。
 
「―――それからこちらが、件の男性の服用していたものです」
 
マリンが最後に差し出した小ビンに意識を戻した。それは考えはしたが依頼の範疇にない。本来の業務で十分に多忙なマリンにそれまでを頼む程ではないと思ったからだ。
興味はあったが本能的な勘のようなもので、これらの薬品の安全性さえ確認できれば、それ以上の追跡はすまいと判断した。
アバンの視線に気づくと、マリンは手元の資料から顔をあげてにこりと微笑んだ。
 
「差し出がましいと思いましたが、たぶんアバン様は確認されたいだろうと思いましたので。エイミに頼みました」
 
「ありがとうございます、本当によく気がつかれる。助かります」
「いいえ、気付くなんて。……慣れているだけですわ」
「あーー」
 
アバンとマリンは顔を見合わせると、共犯者めいた笑いをかわした。
 
「ふふ……タイガ様も思わぬことをよく気にされて、私も後になって『ああ、そういうことだったのか』って驚かされました」
 
「タイガ王と一緒にしないでくださいよ〜。変人ぶりは私なんか足元にもおよびません」
「まあ、酷いおっしゃりよう」
「マリンさんもさぞかしご苦労になったでしょうねぇ」
「いいえ、ぜんぜん。私は楽しかったですわ、アポロは時々泡を吹きそうになってましたけど」
 
本当に楽しそうに笑うマリンに、アバンも気持ちが幾分軽くなったように思われた。
 
「でも精製されたものを、どうやってお調べになるんですか」
 
薬草などと違って、精製された薬はもとの形はもちろんない上、匂いなども変わっているものが多い。薬草を扱う医師などの中でも精製を行うのは高度な技術の持ち主に限られる。扱いも保管も難しいのだ。
 
「ふっふっふ。それはこの<アバン特性成分別変色判定紙>通称<カンタンカメレオン紙>で判定できるのです!」
「……ま、まあ……」
 
なんだかどう見ても世間一般的でないものに、通称なんてあるのかしら、と内心ツッコミをいれてしまったマリンに罪はない。大体あんまり短くなってないし。
ダテ眼鏡を怪しく輝かせながら人差し指を立て、教師モード降臨で、その怪しげな試験紙の解説を続けるアバンを眺めながら、マリンはそっと資料をめくって次に必要になるであろう情報を用意する。
どうもこれがアバン先生の趣味だという『発明』らしい。たまにバダックと息投合して、話しこんでいたりするのも見かける。その間はレオナ姫さえ遠慮するという、いつもの政治をしているアバンとはかなり別人的だ。
 
「……まあそんな仕組みなんですが。そういえば、流通経路が限られているということですが」
 
ようやっと満足したらしく、本流に戻ってきたアバンにそつなくマリンが答えた。
 
「ええ。実際確認したら、私の思っているより少なくなってました。もう手間のかかる精製した薬品はこの混乱で底をついたような感じなんです。ほとんどが生薬と乾燥の煎じ薬で、一部の医師が自分の治療に使う程度を精製しているだけで、そちらは出まわってません」
「そうですね、例の患者さんは行商を行っていたようですから、携帯に便利なので持っていたのかもしれませんね」
 
マリンが頷いてアバンの推測を認めた。
 
「そうなんです、それで以前から薬草や製薬は決まった商人のところで求めていたそうで、医師にも処方箋をもらって……。もっとも今はそうでなくても、薬を扱える商人は限られてますからかかりつけだった医師のところでも、同じところのものを利用しているそうですわ」
 
数枚の資料をアバンに差し出した。
 
「ベンガーナの豪商ジラフ伯です」
 
 
 
*      *      *

 
 
ベンガーナの首都クルナム。その城下町の雑踏の中をヒュンケルは一人歩いていた。
ベンガーナは魔王軍進攻の被害が少なかったこともあり、復興はどの国より早かった。それは貿易大国である事も大きい。さまざまな国の人間が雑多なまでに交じり合うこの街は、どの国より生気に溢れている。けしていい事ばかりではない。治安の不安定さが元々あったために、ベンガーナの軍隊は兵器の所持や開発を余儀なくされた面もある。
クルテマッカZ世のような豪放な気性の王は、一見他国の王らよりも反発を受けているように思われがちだが、長く信頼を得ていた。豪胆だけではこれだけの多様な人々を治めることは出来ない。彼は有能な政治家だった。
ヒュンケルが向かっているのは、その王家の外戚でもある豪商ジラフ伯の屋敷だった。彼の本宅は王城に近い場所にあった。
先の別宅での初対面から十日がすぎようとしている。
ヒュンケルはあの時に引き受けた商隊の護衛を、すでに一度こなしていた。
まずは、と割り当てられたのは、ベンガーナに最も近いテランへの輸送商隊への同行だった。
知識人と名高いフォルケン王の治めるこの国は、自然主義のゆきとどいた静かな国で、貧しくはあるが自給率が高く意外に最も安定していた。
それゆえ商隊も十人と荷馬車二台の、それほど大きくもないものだった。援助の意味もあるがもともと定期便で、生活雑貨や嗜好品などが運ばれる。
行程は往路に五日帰路に四日。帰りの荷馬車は一台に水と薬草・製薬が積まれる程度で、それぞれに人夫が便乗できるので行きほどには掛からない。とはいえ、舗装された道の少ないテランは、徒歩を強いられる場所も多い。
その水こそテランの独特の産出といえるものだ。いわゆる聖水だが、寺院や神官には貴重でも、一般的に呪文とセットでの利用となるので盗賊などにはあまり狙われる心配がない。
ヒュンケルは昨日の昼頃にジラフ伯の別館に戻った。そして今朝使いのものが、ジラフ伯からの呼び出しを伝えてきたため街に下りてきたのだ。
屋敷もまた活気に溢れていた。荷馬車が四台は並んで通れそうな門は開け放たれており、商人達とそれらの交渉に当たる屋敷の使用人や、荷物を仕分け運ぶ人夫らが行き来していた。
屋敷は二つの屋敷を等大の橋で渡したようなスタイルになっている。中央のアーチ状に通りぬけになっている場所からは奥に水面が見える。別に金持ちの道楽でこしらえた水庭ではなく、海へ続く商業用水路が引かれており、小型の船が港に停泊している本船との間を荷の積み下ろしに行き来しているのだ。
水陸両方からの物資輸送の中継点となっている。通し部分の上階、接合している屋敷から見ると三階部分にあたる場所では、通貨の両替や手形の換金、契約書のやり取りなどがされていた。
そしてアーチ状の建物をはさんだ右側の建物にはジラフ伯の住まいが、左側は使用人と商人達にも利用される客室などになっている。
ヒュンケルは一度来た事のある用水路脇のアーチ下、五人の番頭の詰め所に顔を出した。番頭は食品や薬、織物、武器など物品ごとにいる責任者で、ジラフ伯はこの時間ここで仕事をしていることが多い。
 
「やあ、ヒュンケル先生!お疲れ様です」
 
早速ヒュンケルを見つけた番頭の一人が声をかけた。ヒュンケルは意識して片方の眉を上げ不満を表す。あ、といった感じで若い番頭は笑いながら頭を掻いた。
 
「やあ、スイマセンね、習慣でね。先生も慣れてくださいよ。用心棒のチーフは『先生』って呼んでるんですから」
「……ジラフ伯は何処に?呼ばれたんだが」
「やあやあ、聞いてますよ。なんか今日はねぎらいたいから、母屋にきてくれって大頭言ってましたよ」
 
愛想良く答える横から、別の番頭も声をかけた。
 
「さようでさ、テランの件えらいご活躍だったそうじゃねえですかい。きっと褒美もありますぜ!後で一杯どうですかい、あっしらにも奮闘きかせてくだせいよ」
「大した事もない、そのうちな」
「うっかー!クールですね、あっしなら自慢して回るんですがねえ。『そのうちな』ふっ。くーー、渋いねえ」
「やあ、おめえじゃ様にナンネエよ」
 
げらげら笑いながら小突き合う横を苦笑して立ち去り、ヒュンケルはジラフの元へ向かった。
 

母屋に入ると使用人がヒュンケルを案内した。てっきり応接間へ案内されるのかと思っていたが、通りすぎ、居間に通された。
 
「ヒュンケル様、どうもお呼びたてして申し訳ありません。昨夜はよく眠られましたか?」
「ああ。……その敬称はどうにかしてもらえまいか、俺は使用人なんだが。確信犯だろう?」
 
いささか辟易して告げるとジラフ伯は笑って、たったままのヒュンケルに椅子をすすめた。
 
「そう見えますか」
「たぶんな」
 
ジラフ伯が自ら茶を注いでヒュンケルに薦めた。しっとりとした美しい若芽の色をした液体が、ほんのり湯気をたてるのを眺めるとついと口にした。
 
「往路で二度、襲われた。多いな」
「仕留められましたか」
「いいや、適当にして放した」
「―――お優しい人だ」
「優しくはないがな、放たねば意味があるまい。わざわざ呼び込みまでしたのだろうが」
 
少し目を見開くと次には頷いて、ジラフ伯も手もとの茶を口につけた。
 
「すこしばかりお見それしていたようです。あなたは獣が衣を着ているような方かと思っていました」
「いい得ていると思うが」
「本能にのみ頼って、ただ猪突猛進と言うわけではないようだという意味ですよ。あなたは客観的に自分を見るだけの理性をお持ちの獣だ。先の件も、賊のこともお気づきとは思いませんでしたので」
「謀をして王族をたぶらかす獣か?」
「素直に誉めているのですよ。私がもっとも嫌悪するのは、突出しながら自覚の無いものです」
 
オリーブ色の瞳が怜悧な色を湛えてヒュンケルを見やった。愛想を取り払った視線は、物理的な器を無視して内面までも値踏みされるようなプレッシャーを感じさせたが、いまさらその程度で動揺をもたらすほどヒュンケルは初心でもなかった。
ヒュンケルの人生は、まさにもの心も持ち得ない頃から、常に他者の『値踏み』が付きまとうもので、『価値の無い』という評価は『死』と直結していた。
人間の親に置き去りにされた時、モンスターに拾われた時、魔王軍に迎えられてからはそれこそ絶え間無く。 今生きているという事実が、彼の評価そのものであった。
 
「計略に長けているとはうぬぼれてはいないが、戦略はまた別だ。魔王軍とて無作為に動いていたわけではない」
「……私の思惑は小ざかしいと」
「いや、俺でもそうする」
「私があなたなら、一組は仕留めます。あなたは甘い」
 
ヒュンケルはこの部屋に入って初めて表情を崩した。それは自嘲にも似たにがい笑みだった。
 
「そうかな、傭兵や賊が正当な評価を当てるとおもうか?自分を負かした相手に。自負で己を支える生き方をしているものが?俺は明らかに他者によって傷つけられたとわかる、隠し様の無い傷をそれぞれに残した。誰かが尋ねるたび、俺はさぞかし狂暴凶悪なモンスターに成長するだろうさ」
「……あまり大げさになっても困りますが。あなたの罪状がむしかえされて再び表沙汰になれば―――」
「貴公の名に悪評が立つ?」
「それもしかり、もう一つ、エナ様のご機嫌をそこねます」
 
今度はヒュンケルが微かながら声に出して笑った。
 
「評価第一の輩がそうそうあちこちにしゃべるか。せいぜい同業だ。そのへんのさじ加減は心得てあしらったつもりだがな……」
 
清涼な香りの茶を含むと、ほのかな苦味が口内に広がった。
 
「……あなたが商いのプロなら、俺は殺しのプロだ。その代価が金か、それとも命や名誉かの違いでな」
「エナ様が聞いたら、憤慨しそうですな」
「生きる場所が違う。それだけのことだ」
「それは……」
 
ジラフ伯は伺うようにいったん言葉を区切ると、ちらりとヒュンケルを見やって唇を湿らせた。
 
「……人間とあなたがということですか」
 
ヒュンケルは瞠目すると、今度ははっきりと哄笑をあげた。
 
「確かにそうだが、世界の転覆を狙うつもりはないさ。元より俺の場合は私怨でな。……おそらく俺は今更人間になじみきれないだろうが、その罪を異習慣と片付けるつもりはない。私怨ゆえに尚重い―――貴公は判っていて俺を使うつもりかと思ったが」
「たしかに。ですがあなたが桁違いに強力であることは、見ぬいているつもりです。商人にとって見極めこそが全てと私は思っておりましてね。物も人も。あなたは強力なだけに御しがたい」
「使えるか、貴公に」
「……どうでしょうか。いくらか可能性は無いわけではありますまい。現にあなたはここにある」
 
ヒュンケルはあらためて目の前に座る男を見つめた。
昔知った面影を宿す瞳と顔立ち。しかし、髪の色も肌も、その種族そのものが異なるのに不思議な感慨を覚えた。
こんなにも似通いながら、魔族と人はしばしばその種族の違いというなんの意思も与えられないものの為に諍う。命を奪い合い、憎みあう。……いやむしろ憎むのは人間だ。魔族やモンスターの感情はもっとシンプルで、本能に近い。
かつて良く似た形をしていたものは、己の信念のために命を終えた。もし、彼が人間だったならばこんな生き方もあったろうか、そう思ったのだ。
 
「……そうだな、貴公に雇用の意思があるなら、しばらくやっかいになるつもりだ」
「交渉成立ですね。ではさっそく、次の依頼をご説明しておきましょう」
 
互いに再確認のようなやりとりで、もとより決裂の意思はなかった。直感に近いとは言え、最初の仕事をかわした時点で無責任にほうりだすようなタイプではないとそれぞれが感じていたものの、ある程度長期に組む以上、はっきりと言葉でかわす意思表示は必要だ。
ジラフ伯にしろ、ヒュンケルにしろその名が与える影響は強い。そしてジラフの側にはそれ以上に思惑があった。
 
「実は今度の依頼は、商隊の護衛だけではないのです」
ジラフ伯の言葉にヒュンケルは片眉を上げた。なにやら面倒な気配がする。
 
「私どもの扱った商品のなかに、不良品があった可能性があると書面での問い合わせをいただいておりましてね。その解答を用意しましたが、この件あなたに当たって欲しいのですよ」
「……おかしな話だな、それはその商品に詳しいものが当たる方がいいだろう」
「そうですね、もちろんそのとおり。ですがこれは特殊でしてね、その品も相手も。そのこともあってあなたに目をつけた」
ジラフ伯はため息をつくと、ソファの背もたれに深く身をあずけて目を閉じた。
 
「正直に申し上げて、あなたの滞在を知った時、欲しい人材だとは思いましたが、係わり合いになるまいと判断しました。あなたは私にとって、リスクが大きい。おそらくあなたが想像する以上に。ですが思わぬトラブルを抱えましてね、あなたを引きこめないかと思った」
「―――その相手はパプニカなのだな」
 
ジラフ伯とヒュンケルの間に接点はほとんど無い。その唯一が『パプニカ』であるのは、すぐに察せられた。
 
「そうです、二週間ほど前に書面での問い合わせを受けました。三日後に出発予定の荷と供に、解答する予定です。これは親書ではなく今のところ私信として来ています。相手が荒立てるつもりのないうちに収めたい」
 
そう言うとジラフ伯は開封済みの書状を差し出した。今の話題に出た私信だろう。ヒュンケルは受け取る指先に、不自然な力が入りはしないかと惧れながら引き寄せた。
宛名書きを視界に掠めた瞬間に波立った動揺を上手く隠せたろうか。
久しく見ない、しかし見なれた文字。書面に連なるすこし右上がりの細く整った筆跡。
それを見ただけでどうして自分はこんなに引き戻されるのか、あの男の元に。
 
「……いったい何をしくじったんだ。この男の興味を引くなどとは厄介な」
「しくじり、まさにそうです。本来商品として提供されるはずのないものが混在したのです。そしてそれが稀有な偶然を経て、アバン殿の目にとまることになった」
「精神安定の効能をもった製薬……その中に判定できない成分が見とめられたものがある、か、こうしてこの男が問い合わせる以上、単なる不純物では無いのだな」
「単なる不純物ですよ。もしくは精製の際に突然変異で発生した成分で、不幸な偶然の産物……そう通したいのです」
 
ジラフ伯は目をあけると体を起こし、親指ほどの大きさの小瓶をテーブルに置いた。ヒュンケルはその小瓶を手にとってすかし見た。
赤みを帯びた茶色いガラスの小瓶は、その中に石を砕いたような荒い砂ほどの粒を内側に収めていた。口を閉めていたコルクを抜くと中を覗きこんだ。真っ白い砂糖のような半透明な粒。
 
「同じものです。医師の元で錠剤にさらに加工されて使われることもあります。薬さじでそのまま服用することもありますが」
 
ヒュンケルはそっと匂いを確かめると、掌にこぼした。中指を押し付けて薬を微量つけると、その指先を舌先で舐める。苦味が舌をかすかに刺激した。
 
「弛緩系の薬草の調合か、確かに落ちつくだろうが、気だるい感覚が残りそうだな」
ヒュンケルは適当と思われる薬草と鉱物の名を幾つか挙げた。
 
「よくご存知だ、大体合っていますよ。もちろん医師の処方の必要な少々特殊な薬品です。戦のせいで図らずも需要を伸ばしてしまったものの、あまり量は私どもも扱えません……ちょッ」
 
掌の薬品を眺めていたヒュンケルが、突如それを吸いゆっくりと舌の上を通すようにして飲みこむのをみて、ジラフ伯は言葉を詰まらせた。
先ほどのジラフ伯のように、ソファに体をあずけ感覚を集中しながら軽く手を上げてジラフ伯をとどめる。暫らくしてさらに2つヒュンケルは薬草の名を挙げた。
 
「意図的かそれともこれが不純物か、幻覚剤が混ざっているな」
 
軽く頭を振って身を正したヒュンケルは、ジラフ伯に視線を戻した。
 
「なんて無茶をなさいます……」
「俺は薬毒にも耐性をつけてある。もっとも何かわからんものを進んで口に入れるつもりはないが」
 
ジラフ伯とアバンの書状から、ヒュンケルは問題ない範囲と判断して手っ取りばやい方法を選んだ。もちろん最初から量は加減してある。
ジラフ伯にはわからないだろうが、ヒュンケルは薄く気を張り巡らせて体神経を意識的に鋭敏な状態にした。毒を体に取り込んだ時に、耐性だけに頼れないものを判別し自分で対応するために、身につけた気の応用法だった。毒の性質によっては、この気のコントロールによって無効化できるものもある。
他者を信用できない世界に、長く独り生きてきたために身につけた悲しい特技だ。とはいえ、これは状況によっては有効に使えるので、自分で種明かしすることはない。回復呪文や解毒剤に頼れる状況のときはそちらを利用していた。
 
「それにしたって、完全に危険がないと言い切れないでしょうに。困った方だ」
「それで」
「……今おっしゃった薬草は2つとも違います。おそらくあなたは無意識に、<入手可能なもの>から選択したのでしょう」
 
そうしておもむろにもうひとつ瓶を懐から取り出した。今度の瓶は先ほどより2周りほど大きく、透明なガラスで出来ており、中身が容易に見てとれた。
 
「どう言うことだ」
 
今度こそヒュンケルは表情を変えて、ジラフ伯に問い質した。もともと低めだが、さらに半音声のトーンが下がっている。
 
「……やはりご存知でしたか」
「……魔族と繋がりがあったのか」
「物騒な言いようはやめてください」
 
ヒュンケルはかすかに呻いた。そのガラス瓶には、ベルベットのような表皮の極々ちいさな葉のような形のものが入っていた。形容しがたい微妙な色合いの緑は美しいとさえ言える。そこに燐粉のように、朱赤の輝きが散りばめられていた。苔の一種だ。
たしかに普通ならばこれが混入されているとは考えない。何故ならこの苔は魔界にしか生息しないものだからだ。
幻覚作用は二次的なもので、本来これは高揚剤のような使われ方をする。乾燥させたこの苔を煙草に混ぜて吸引する。それぞれ個人によって作用する能力はまちまちだが、潜在している力を引き出しやすいニュートラルな状態に、気を移行させる効能がある。
もともと身体能力が高い魔族が使う分には問題がない。煙草程度の好む好まないの利用差があるくらいなものだ。しかし代謝機能の低い人間が常用すれば、残留する可能性が高いだろう。魔族のなかでも稀にだが中毒症になる者がいる。
 
「これが原因か」
「……魔法の効果があるとは聞いておりませんが」
「知らんのか」
 
ヒュンケルは簡単に残留薬効の可能性を説明した。
 
「人間もその程度に明らかな差があるものの、魔法の発動能力が備わっている。だが大半のものはそれが表れることはない。それをこの苔が引き出したのだろう。精霊との契約なしに発動したならダメージがあったろうな」
「なるほど」
「薬を抜けば問題はないだろう、常習性は低いからな……しかしどうして混入した。どれくらいの量が出まわっているんだ」
「もちろん流通させるつもりはありませんでした。私の趣味で調合したものでね。回収されたものと、その患者の服用していた分でほとんど全部でしょう」
「それこそ物騒な趣味だな」
 
ジラフは幾分表情を和らげて、冷めた茶を飲んだ。
 
「私は若いころ修行に薬売りの行商をしておりましてね。この苔もその当時買いとったものです。珍しい苔でしたので。そんな仕事をしていますと、得体のしれない相手に商いをうつこともままありました」
「それにしては、新しいが」
ヒュンケルが瓶を眺めて指摘した。
 
「わずかですが栽培しています」
「それは……あまり知られて印象のいいものではないな」
「今となっては私自身の手で化合したりした薬を、商いの品にすることはありません。趣味というのはそのためでして、今回の混入はトラブルなのですよ。急な需要で不足していまして、手持ちの分を一部あてたのです。救援物資としてパプニカに送られたものです」
 
できればこう言った過程を露見させずに、穏便に済ませたい、というのがジラフ伯のヒュンケルへの依頼だった。
 
「しかしそれならば、はじめに貴公が言った理由で押しとおせると思うが」
「相手がアバン殿でなければ、です。ですからあなたに事情をお話ししたのです。……どうでしょう、アバン殿はこの苔の存在をご存知でしょうか」
「……」
ヒュンケルは唸った。なるほど、書状には書かれていないがアバンがこの苔の成分に気付いているなら、『不幸な突然変異』という返事に納得しがたいだろう。魔族しか入手が困難なものを何故持っているのか、しかもそれを隠すのか。
 
「順当に考えれば知らないと思う。あの男から教えられた中にはなかったし、後になって見た著書にも書き残されてはいなかった。……が、『アバン』だからな」
 
断定はしかねる。ヒュンケルの正直な答えだった。ヒュンケルがこの苔のことを知ったのは、魔王軍にいた頃のことだ。
 
「私もそう思います。ですからあなたが直接、様子を見ながら答えて欲しいのです」
「荷の勝ち過ぎる仕事だな。……しかしそうまでして、隠すほどか。断りをいれれば、アバンも公表することもないだろう」
「失礼ながら、あの方に借りを作りたくはありませんし、もっと言えば係わり合いになりたくありません。恐ろしい方ですから」
「後ろ暗いことでもあるのではないか。人の悪さはどっこいだと思うがな」
「どっこいだから、よくわかるのですよ」
 
難儀だな。笑いながらヒュンケルは、ジラフを見た。その視線は笑ってはいない。
しかしヒュンケルはそこで話を打ちきり承知した。ジラフは冷徹に人物を評価する。ヒュンケルのことも過剰な期待があるわけではあるまい。むしろなにか別の思惑があるのかもしれない、という可能性をやはりすてきれない。それでも不思議とそのなりゆきを見てみたいという気になっていた。
 

 

 

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