不可視の海

4.  「自分だけの世界で生きている奴は山にでも篭れ」 (by アポロ)


 
「よろしいですか、アバン様」
 
アポロが執務室に入ると、予期していたレオナ姫とアバンの他にマリンの姿もあった。
 
「あっらー、アポロどうしたの。眉間にしわが寄ってるわよー」
 
レオナ姫が執務机の上に頬杖をついてアポロを見上げた。
なんだかアバン様に似てきた気がするのは、己が疲れているからだろうか……二の腕があわ立ちそうになって、アポロは意識的に自分の考えを無視した。
先のタイガ王にもずいぶん振りまわされた。レオナ姫が生まれてからは、流石に大人しくなってあまり徘徊に出なくなったが、たまの徘徊趣味的な「世直し1泊2日ツアー」などというものを画策してアポロの汗を搾り出した。
レオナ姫が10歳を越える頃にはそういったたまの徘徊も無くなったが、入れ替わるようにレオナ姫がアポロを振りまわした。
そして戦後は大勇者アバンまでが加わった。よくよく自分はこの手の人間に振りまわされる運命にあるらしい。内心アポロはため息をついた。実際にため息をつかなかったのは、目の前の2人にさらなる題材を提供しないための悲しい習い性だ。
もっともレオナ姫に関しては、もっぱらエイミがお供についたので気持ちをすり減らしはするものの、タイガの側で政務につく機会のほうが実際は多かった。
アポロは一瞬タイガ王の、斜め後ろからの姿をまぶたに思い浮かべて切なくなった。
 
「こんどのベンガーナからの定期便だが今回は大隊だ」
 
アポロはマリンに持っていた書類の一部を手渡した。先んじて届けられた物資のリストと、入国予定の人員報告だ。これを元にスムーズな荷受けと分配の算段や、逆にパプニカからの出荷品の準備、運んできた人員の宿泊や帰路の食料などの手配もマリンの仕事だ。
 
「ほんと。前回のほぼ倍ね助かるわ。国境周辺の盗賊や海賊が増えていて、最近送り渋ってたのに」
「海賊つかまったのかしら」
「それとも警備をふやしたのでしょうかねえ……ま、助かりますが」
 
アポロの皺に目をやりつつも、とりあえずは喜ぶべきことに3人が相槌をうった。
 
「……荷物だけではありません、今回はエナ=ハイマン様が同行でお帰りになられると」
「……」
「あらおじ様が」
「……」
 
続く言葉に反応したのはレオナ姫のみだった。それがむしろアポロには不思議に思える。複雑な心境はレオナが一番だろうと思っていたためだ。
便宜上「おじ様」とレオナは呼ぶが、「叔父」ではない。タイガ王とハイマンが はとこ どうしとなるのだから、レオナから見れば遠い。
マリンと視線がぶつかると、おおむね自分と同じ懸念を抱いているのだろう表情でいるが、あえて発言はしないだろう。
今や唯一の親族となったこのレオナの父ほどの男は、なんとも別の意味で頭の痛い存在だった。
 
あまり王族然としない風潮がパプニカの王家にはあった。レオナの母である亡き王妃が庶子の出であることもあったが、もともとの性情もある。
しかしハイマンは違った。幼少期をベンガーナですごしたこともあって、彼は貴族らしい貴族だ。
それは出自を考えれば自然なことであったが、自由な風潮を好み、慣れていたパプニカの人々にとっては鼻持ちならないことだった。
 
思い返して見れば、ハイマンは政治的な意志をまったく示すことは無かった。見事なまでに無関心だったようにアポロには見えた。しかしながら不思議と話題に上がり、たいがいそれは人々の批判であった。
同年輩であるがゆえにタイガ王とはよく比較されたが、なにか敵愾心をもって奮起するといった様子もみられない。
アポロにしてみれば度をこした遊びが目に付き、諌めるようそれとなくタイガ王に進言しても、王もまたハイマンの生活に口をはさむことはなかった。
そしてこの魔王軍との大戦で、戦火に見まわれるより以前にベンガーナへと渡ってしまって以来だ。
 
「それはまた、きっと護衛を強化されたんでしょうね。私ジラフ伯に質問書を送ってるんですが、そちらも持ってきてくれると有り難いんですけどねぇ」
 
アバンが変わらぬのんびり口調で相づちをうった。
 
「そちらも連絡が来ておりますよ。護衛長も兼ねた詳しい者を送るので、直接お聞きになりたいことをお確かめ下さるようにと……なんでも<ヒュンケル>というお名前だそうで」
「……」
「……」
「……」
 
今度は3人ともがきょとんとし、次には盛大なため息をついた。
 
「なんかむしろ、そっちの方が問題っぽーい気がするんだけど」
「エイミにはどうしましょう」
「まああんまりいない名前ですねぇ、その不吉っぽさがまた本人ぽいですねえ」
「なんですかソレ先生」
「だって人間我が子に悪魔とか魔王とかって名前をつけるケースはあんまり無いでしょ」
「あんまりってか、無いわよそんなの」
「魔剣皇ヒュンケルって、ソッチじゃけっこう有名ですからね。名づけ親とか占い師はまずつけませんよ」
「そうでなくても、多分パプニカでは今後確実に人気の無い名前筆頭ですわ」
「……うわ〜、マリンけっこう言うわねー。さらりと」
「そんなのを堂々と名乗っちゃうんだからスゴイですよね〜。流石私の教え子 v」
「「「いやそれはどうかと……」」」
 
どっちに突っ込むべきか逡巡したのもつかの間。アポロは思わずレオナ姫とマリンと声をそろえていた。小首をかしげるアバンを尻目に、レオナは面白そうな表情でアポロを見た。
 
「アポロはおじさまが嫌いでしょ」
 
この姫は本当に容赦なく人を見抜く。そしてそれを指摘するのは若さかもしれないし、性情かもしれない。父親のタイガはよく似てはいたが、そんな指摘をすることは少なかった。ならばやはりそれは経験の差なのだろう。才能の溢れるがゆえに、その発露が先んじてしまうのだ。それらの影響力を本人は自分で思うほど、自覚できていない。
それが美点でもあり、弱点でもあった。
だがアポロはその豊かな王としての資質を愛していた。
 
「好き嫌いではありませんよ、少なくとも私の嗜好という意味では」
「あら、どういう意味」
「ハイマン様がその名誉につりあう働き者でしたら、私は明日から敬愛の念で接します」
「厳しー」
「人生は厳しいものです」
「でもねアポロ。生まれた立場に拘束された生き方を出来ないひとを責めるのはかわいそうだわ」
 
アポロは驚いて瞠目した。そんな言葉がこの姫から出るとは思わなかった。それを拘束というのなら、姫こそもっとも拘束された人生を歩んでいることになる。
 
「姫さまもそうなのですか」
「ばかね、アポロ」
 
ふふ、と笑う少女はその瞬間はまるで、だだっこをあしらう母親のような表情で、アポロはたじろいだ。
女性というのは本当に捕らえにくい。姫のおつき役が自分ではなくエイミであることに、あらためて内心感謝した。
 
「あたしは楽しいのよ。この国が好きなの。おとうさまも、おかあさまも、ここに暮す人達も、空も、街も……あなたもね、アポロ。
「だけどそうじゃないんなら、きっととっても苦痛だとおもうわ。とっとと逃げ出すわよ私なら」
「それは……とても感謝しますが、私としては"働かざるもの食うべからず"です、ハイマン様といい、ヒュンケル殿といい、自分の世界だけで生きたいなら山奥にでもこもっていただきたいものです」
 
アポロがいい終るかどうかというタイミングで、放り出されていたアバンが爆笑する。レオナとのやり取りで、うっかりアバンのことを忘れていたアポロは冷や汗をかいた。
別に発言の内容にではなく、アバンの教え子であるヒュンケルのことは、やはり意見するには失礼だったろうという点だったが。
 
「……アポロはヒュンケルも嫌いなのね」
「いやいや、……はーおなか痛い……それがまっとうな意見でしょう。むしろ私は、そういった感情を持ちながら、理性で人と接するアポロ殿こそが評価されると思いますよ」
「アバン様……」
「実は私もあの引け目なところはちょっとねー」
「……レオナ様、それをレオナ様が言っては可哀相ですわ、さすがに」
恐縮しきりなアポロの傍らで、うんうん頷いて相づちを打つレオナをマリンがたしなめる。
なにしろヒュンケルはパプニカを滅ぼしかけた張本人でもあり、かつては兄弟弟子を殺そうとしていた人間だ。それが心を入れ替えて仲間に加わったのだから、おおエバリで押しが強くてもどうだろう。
 
「ただ個人的にはヒュンケルが山に篭るでもなく、役目をもって訪問してくれることは嬉しいんです。だって私ゆかり以外の人間社会と、関わりをもっているってことですからね」
 
アバンの言葉に思わずある種の感動をアポロが覚えていると、ふっふっふ、と気味の悪い含み笑いが当の本人から漏れてアポロは思わず後ずさった。
 
「それになんだか嵐の予感?ってカンジ?――― あの子はかわいそうに、平穏無事に、って本人が思うほどトラブル引力が増すんですよ〜」
「……」
 
不覚にもアポロはヒュンケルに一瞬同情を感じて、慌てて頭をふって考えを追い払った。
それってアバン殿も関係しているんじゃ……という疑問と、そうなったら自分もただでは済まないんだろうという、めまいのしそうな考えを。
 

*      *      *

 

明日には出立、という前夜になってヒュンケルは思わぬ面倒を抱えていた。
エナ・ハイマンである。
テランへ初めて積荷の護衛役で出発するあたりで、すでに少々ごきげん斜めだったのだが、帰ってからはもはや手のつけられない状況だった。
嫌味をいっている程度ならまだいいが、その段階を通りこしてシカト状態になっている。もともとそういった子供地味た挙動のある男だったが、少々様子が違うのは、周りに発散するでなく、ウツのような状態だった。
子供地味たといってももう50代も近い男だ。機嫌にムラはあるが、精神的に不安定ということはあまりない。食事もとらないこともあり、楽にも触れず芸も見るでなく部屋にこもったりしているようだ。体調が悪いのかというと、それは無いらしい。
もっとも普通よりも周りには損失がない分、いいのかもしれない。
 
――― そんなにパプニカに帰りたくないのか
 
ヒュンケルは内心首をかしげた。別にジラフ伯はすぐに戻ってきてもかまわない、というが、やはりそういった訳にもいかんのか。
だが杞憂をよそに、前触れもなく開いた扉から出てきたハイマンは上機嫌に近かった。
ヒュンケルにしてみれば、なんだこの支離滅裂な精神構造の中年男は、といったところだ。
そんないぶかしげなヒュンケルを気にするでもなく、立ったヒュンケルの脇を抜けて広間にあつらえたソファーに腰かけた。ハイマンは上機嫌のときの癖で、掌を擦り合わせながら笑いかけた。
 
「なーにをもたもたしているんだ、ヒュンケル。明日は出発だろう、準備は済んだのかね」
「済んでいる」
「けっこう、けっこう」
「気が進まないのではないのか」
「ばっちり進んでいるよ、気持ちの整理はついたしな!じつに爽快な気分だよ。愛すべきものへの探求、これほど興味のそそられることはないね。憂鬱な面倒ごとさえがまんする気になるしね」
「……探求」
 
ヒュンケル立ったまま向きだけを変え、無表情なりにも気になるフレーズを繰り返すと、目の前のソファーにふんぞり返る淡い金髪の寝癖を見た。細面の顔には目立たないものの同じ色の不精ひげが見える。ということは、機嫌が復帰したのはつい今しがたなのだろう。
 
「そう、美しいもの、愛するものへの探求さ。ここしばらく私の心は千々に乱れたよ、いつにないほどの高揚感は酩酊した翌朝のように、むしろ虚しいほどに私を痛めつけた。だが抗えないほどの誘惑が、未知の感情を私に促すのだ」
 
やや斜め上空をにらんで、ほう……とため息をつくハイマンの姿は、たぶん一般の人間にはかなり怖い状況だったが、幸か不幸かヒュンケルは奇異さには鈍感だった。
突発的に頭脳にお花畑を散らすような人間にはなれている。恐ろしいことに。
 
「発言の意図が不明瞭なのだが」
「退廃の美だよ、禁忌への誘惑、甘美な毒……私はその杯を飲み干す覚悟を決めたのだ」
オペラ歌手が歌い上げるように手をかかげたハイマンは、そういい終えるとヒュンケルを見た。その瞳は言葉を裏切って静かに、冷徹な輝きを放ってヒュンケルを射た。
 
「私は常に傍観者であったのだよ、なぜか解るかヒュンケル」
「……いいや」
「世は喜劇、私は観客、それが私の定めだ。賛美しながらも卑下し、憎みつつ愛でる、けして舞台に上がれぬ批評家さ」
「何故だ」
「それは難しい質問だ、それをお前に告げるかどうかはもう少し知ってからにするよ。お前を」
「俺を知る?」
 
眉をひそめて冷たい灰褐色の瞳を見返すと、ハイマンは嘲笑するように小さく笑った。
 
「"愛しいものへの探求"」
「だからその意味を聞いている」
「繊細な感性のわりにニブい男だな、知っているが。解らないのか愛の告白だ」
「……」
「愛しているよ、ヒュンケルどうやらね」
 
ヒュンケルの表情がわずかにゆれて、しかしすぐにもとの無表情に戻る。
 
「何故だ」
「語彙(ごい)の乏しい男だな、そればかりか。……まあいい、だからそれを探しに行くのさパプニカに」
「パプニカに意味があるのか」
「あるんだろう、少なくともお前には。私にはたいした感慨もないがな、むしろ。私の見逃した喜劇を知る舞台だ」
「……」
 
ヒュンケルは数歩進むと、ハイマンの座る向かいがわに自分も掛けた。深いため息をつくように肩を落すと、片手で顔を覆った。
 
「喜劇……」
「知らんのか若者よ、人間絶望してさえなぜか泣きながらも笑うのさ」
「知った口を」
 
遠慮もなく――― もっともその点は今に始まったことではないが ――― 悪態をつくヒュンケルを、しかし穏やかな顔でハイマンは眺めた。
ヒュンケルは見た目ほどに穏やかではない心中を、はじから整理し始めた。
そうでなくても今回のパプニカ行きは面倒ごとを負っている。
淡い青い光沢の銀髪を思い浮かべた。
太い黒ぶちの奥の明るい蜜色の瞳のやわらかな光彩。
それに油断しているとばっさりとやられる識眼。
それと対峙しなくてはならないというだけで、ヒュンケルには荷が重い。
しかもパプニカにはアバンの小型版のようなレオナ姫がいる。エイミがいる。これ以上ややこしいことになって欲しくはない。
 
「あらかじめ言っておくが、ハイマンお前が本気で言っているのだとしても応える気はない」
「べつにまだ何も要求した覚えはないが」
 
居間にくる前に言いつけていたのだろう、使用人がカートを押してお茶の用意を始めた。
ふたりの間にあるテーブルに、暖かい湯気のたつ紅褐色の液体が華奢なカップに入れて据えられる。ドルチェとパテ、パンといったサンドウィッチのバケットも並べられた。
その間にもまるで気にするでもなく、ハイマンの話は続けられた。
 
「どうせお前は何か弱みでも握られて、ジラフのおつかいだろう。私を気にするな。私を護衛しパプニカに送り届ければ、お前の役目はひとつ終了。その先はお互い勝手だ」
 
細い眉の片方を上げて、面白そうにヒュンケルを見やる。ほそい指はティーカップをつまんでいた。ヒュンケルの反応を見て喜んでいるのだろう。それは以前からだ。
出会った当初は、ハイマンの立場を知っても態度の変わるでもない、表情に乏しいヒュンケルを見ては楽しんでいた。そのうち乏しいのは表見だけで、内面はそうでもないのだと知ると、そのわずかな表に現れる違いを見るためにヒュンケルを構い始めた。
それほど長い付き合いという訳ではない、2ヶ月程度だ。それでもこの子供大人のような男は、ヒュンケルを的確に捉えているのだと思う。
そういった"人を見る目"は、アバンやレオナにも通じる。ただその能力を全開で遊興に費やしているのがハイマンだった。
 
何故ハイマンの元に滞在する気になったのか、正直なところヒュンケル自身もよくはわからない。
終結からしばらく経つと、パプニカで自分の出きることはほとんどなくなっていた。
単なる人員としてはいくらでも仕事はあった。レオナなどからは警備警察の役目を負うつもりはないかという申し出もあった。
逆にそれがヒュンケルの出立を促したことだった。
まだ戦いの爪跡は拭えないが、たしかにパプニカは新たな鼓動を得ていた。レオナはあまりに寛大でもあった、彼女のような振舞いは並みの人々に強要する方が無茶というものだ。
ヒュンケルが警備警察の仕事に携わる訳にはいかない。それはレオナよりもむしろヒュンケルの方がよく理解していた。
理性ではわりきれない感情というものだ。
ヒュンケルはアバンと相談して出立を決めた。いまパプニカの人々には再建のために、残された家族のために生きることが一番の課題だ。レオナのヒュンケルに対する評決は周知のもので、それに表だって反駁(はんばく)するものはいない。だが不満がないわけではないのだ。ヒュンケルが役職に収まることで、不要な批判をレオナに与える訳にはいかない。
そしていつかはパプニカを再び訪れるつもりではいた。
それはもっと先だ。
人々が生きることだけに専念しなくてもよくなった時に。あの戦いについて考えるゆとりが得られた後に。
彼らにはヒュンケルを裁く権利がある ――― ヒュンケルはそう考えている。
出立に際してエイミがヒュンケルと共に国を出ようとしたことには、正直驚いた。
彼女の告白にすでに"否"の応えを返したこともあったが、しばらくパプニカで暮す間に、彼女がどれほど国の人々に愛されているかを感じたからだ。
彼女が全てを投げ捨ててともに来たいとヒュンケルに告げたとき、ある種の共感はあった。うれしいとか、困ったというような具体的なものではない。
今エイミには世界のなかで意味をなすものがヒュンケルだけなのだ、ということが理解できた。その激しく、狭義な、しかし自分ではどうしようもない感情をヒュンケルは知っている。
かつて告白された時には感じなかったエイミへの"情"のようなものを、ヒュンケルは自分の中に感じた。
それだけに連れていくことは出来なかった。
彼女が捨てようとしているものの大きさを、ヒュンケルは見過ごせなかった。
自分でも手ひどい別れ方だったと思う。だがヒュンケルは"別れ"をスマートにこなせるような器用さは持ち合わせていなかった。
そこからはヒュンケルにとっても全てが初めてのことである。
これまでの生き方はすべて「アバンを殺す」ということに繋がっていた。それは今振り返れば自分の迷いから出た短絡的な目標だったが、ヒュンケルに疾走する力を与えていた。なんの混じりけも許さず、ある種の純粋ささえ維持させたのだ。
それを失った今、何処へ行くのも、どう死ぬのも束縛はない。ただ、いつかパプニカへ再訪を果たすために「死ぬのはまずい」という程度だ。
そんな時にハイマンに出会ったのだ。
 
ヒュンケルはため息をついて、自分も暖かいカップに口をつけた。もう食事はすましていて、テーブルに並べられたものに手をつける気にはならない。
多分ハイマンは今日の食事をこれで済ますのだろう。偏食の気味があった。
 
「よくわからん」
「なにがだ?私がお前を愛しているということか、今告白したことか」
「全部だ」
 
ハイマンは愉快げに片方の眉を上げた。
 
「解らんでいいさ、お前はないのか"愛しい"と思うことが」
「……」
 
ヒュンケルはマアムの姿を思い浮かべた。それからエイミを、そして年の離れた兄弟弟子、かつて敵であった物、心に近しい者……。
 
「……無いわけではない」
「違うな、私が言っているのはそんなのではないな」
 
何を見取ったのかあっさりとハイマンは否定する。
ヒュンケルは何も言葉にしていない。
 
「表情も変えず思い浮かべるような者の話しではない、そんな優しげな顔で話すような相手でも無い。ほんとうに不調法な男だな、20年以上生きたのか?ん?……まあ私が言えることでは無いがね」
「……俺のことはいい。要求も無いなら大人しくしていてくれ。それ以上は望まん」
 
ヒュンケルは考えることを放棄してハイマンに言い渡した。当のハイマンはスライスされたライ麦のパンに、厚くパテを塗ったものを頬張っている。
いくら考えたところでもはやこの手の男は考えを曲げないだろうし、挙動ほどに軽薄ではないハイマンが本気だということもヒュンケルは感じていた。
ヒュンケルは殺意を感じ取るのと同じように、自分に向けられる好意を感じ取ることにけして鈍感では無い。ただそこに付随する感情が薄い。殺意と同じように、ただそうであると感じるだけだ。
 
「要求が無いわけではない、ただ今ではないというだけだ」
「それらが無くなる可能性もあるのか」
「あるいは」
「ではせめてそうなることを願おう」
 
もうこの不毛な会話は終了、とばかりに言葉を切ると、ヒュンケルは簡単な日程を告げた。日程を変える訳にはいかない。
今回は総勢80名ほどの大隊だ。 ハイマンの乗る馬車や関係のものでふたつの馬車を使うが、それを除いても30台の荷馬車がつく。ヒュンケルを筆頭にする護衛は騎馬が5騎、荷馬車への同乗が10人、ハイマンの護衛に4人別に付く。
前回のテランへの小隊と違って、徒歩での移動員が無いので進行は早い。船でベンガーナを出発し、そこから首都までが馬車で、積荷の積み下ろしの行程も含めて片道2日の予定だ。護衛の使用する馬以外は、パプニカの方で用意され港で馬車に乗りかえることになる。
ヒュンケルも今回は馬に乗る。正直なところありがたかった。
並みの人間に悟られるような動きはしていないが、大戦で極限まで酷使した身体は以前のようには利かない。
集中した戦闘ならともかく、広範囲での防衛となると苦しいものがあるのも事実だ。
 
「そういえば面白い話しを聞いたぞ、手綱を使わないとか。ほんとうか?」
「……」
 
どこから聞いて来るものか、ハイマンはよく噂にも通じていた。ヒュンケルは軽く肩をすくめただけで返事はしなかったのでそのとおりなのだろう。
試乗の時には鞍(くら)さえつけなかったが、ヒュンケルとて手ぶらでゆく訳にはいかない。多少の荷もあるので鞍と鐙(あぶみ)は一番軽い、革のものを選んであった。
ドラゴンのような扱いにくいモンスターならともかく、馬のような臆病なほどに敏感な獣など、手綱を使わずともヒュンケルは直接あやつることができる。
言葉でも気でも自分の意図を伝えられる上に、バランス感覚も手綱に頼らなくても姿勢を維持できるのだから両手はフリーであるほうがいいに決まっている。
本来はあまり能力を突出させるのは賢明では無いが、形式上ある程度の人数をまとめねばならないし、先のテランでの盗賊たちへのけん制行為の帳尻もあわせなければならない。
今の段階ではまだヒュンケルに挑んで名を上げようとする輩が出る可能性もあるし、特徴を知らずに襲うものに目印を与えなくてはならないからだ。しかも不自然に目立たないもので。
それは外ばかりでなく、今回部下となる同行者へのけん制でもある。
返事の無いヒュンケルを気にするでもなく、ハイマンは食事に集中した。今日初めての食事らしい食事だ。(甘味がほとんどで、ヒュンケルには賛同しかねるメニューだったが)
 
ヒュンケルはその姿を眺めながら、ソファにふかく座りなおした。
ヒュンケルは長く魔王軍の中にあって、指揮官としての役についていた期間も長い。だがたかが荷物の輸送であるはずのこの役目以上に気を使ったことはない。
あの中ではその戦闘能力が全てを決したと言ってもよかった。ヒュンケルが例え気分ひとつで誰かを斬り捨てようと、何人殺めようと、それを咎めることが出きるのは大魔王バーンだけだったと言ってもいい。
そしてバーンがヒュンケルを咎めることはまず無かった。もっともヒュンケルが討たれるようなことがあっても、眉ひとつ動かさなかったろうが。
魔王軍が始動する以前、まだヒュンケルがミストバーンの元で力を鍛えていたころはまだ駆け引きと言うものが有効だった。
ヒュンケルとて初めから軍団長並みの力量を備えていたわけでは無い。
魔界や時には人間たちのなかで、まぎれて実戦を経験することはどうしても必要だった。
痛い目にもあったことはいくらでもあり、その中の幾つかは命の危機を感じさせた。いまでも細かい傷跡は身体のあちこち残っている。しかし大方の者がもつ根拠の無い自信だったが、1度もヒュンケルは自分が死に至るとは思ったことが無かった。
「アバン」に辿り着くまでには、天でさえ自分を抹殺できないと思っていたのだ。
とはいえ身体的にも能力とも不自由だった期間はあり、それを埋めるのは戦略スタイルであり戦闘スタイルだった。
ミストバーンはアバンとはまた違った意味で人心を見極め、動かすことに長けていた。ヒュンケルの戦略スタイルはアバンではなく、ミストバーンが元になっている。それはミストバーンを自らの手で葬った今でも変わることはない。
だが魔王軍のなかでそれらを駆使することはほとんど無かった。その頃には、それほどにヒュンケルの戦闘能力はずば抜けていたのだ。
すべての基準が"力"にあった魔界では、感情に配慮するようなことは必要が無い。文字通り弱肉強食の世界は、しかし種族での差別がなかった。揺らぎも無く、あらゆるものが"個"として存在し、弱いものへの憐憫の情などなく、盛衰がその長い寿命とは裏腹に絶え間なく循環していた。
強いものが限りなく強いことはなく、弱いものが牙を備えることもある。
常に厳しく、ある意味ひどく純粋な世界だった。
ヒュンケルは人間のなかにとどまるなかで、自分がどれほど人間臭かったかを自覚した。
人間は力よりも感情が基準になっているのだ。
だからこそ裏切りという観念があり、慈愛という緩衝材がある。それはヒュンケルが固執しつづけたアバンへの感情となんら変わりない。
同時にヒュンケルはずいぶんと人間と離れてしまった自分も自覚していた。
人間の世界は複雑すぎる。そして、残酷だ。
魔王軍に従事した"己の弱さ"を断罪しながらも、"魔界"を否定することのできないでいる自分をヒュンケルは理解していた。
 
だがヒュンケルは人間のなかで生きている。少なくとも今は。
それが必要なのだ。
ヒュンケルは目の前に与えられた事実と任務に意識を傾けた。
 

 

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