不可視の海
5. 「手に入れられないことに意味なんてあるのか」 (by ハイマン)
朝方は晴れていた雲行きが怪しくなったのは、この1時間ほどだ。
アバンは城をかこむ城壁の上で、到着した商隊を眺めていた。ほとんど倒壊した城だが、残された城壁は今も活用されている。欠けたところは木材や金属、石材と、ほとんどありあわせのオブジェ並の様相だが、補修されており役割に足りていた。
頬に当たる水滴を感じながら、空を仰いだ。雨をもたらしている雲は、内側に光りを含んだような柔らかい黄灰色で、雲の合間からは光りさえ漏れている。しかし天気雨というほどには晴れてもおらず、むしろ朝焼けのようなほのかな明るさがパプニカを包んでいた。
空を見ているとこれ以上に美しいものは、この世界にはないとさえ思える。
命の持つ、暖かで、驚愕に満ちたうつくしさをアバンは知っていたが、万物のあらゆる色相をなんの脅威もなく示す空の圧倒に、それら全てが思考の外に追いやられる瞬間がある。
レオナ姫をはじめ、アバン以外の若い中枢はそろって商隊を出迎えていた。
エナ=ハイマンの出迎えでもあるし、商品の振り分けは大変な作業だ。
これから数日はマリンもアポロも、大変な忙しさになる。
ハイマンについてはアポロが居住の手配をしたが、ほとんど放し飼い状態になるだろう。
アバンは正直なところ、ハイマンが帰国することはないと考えていた。
訪れるならベンガーナの何らかの役職を負って、パプニカの中枢に食いこむ道具として送られてくるのだろうと。
アバンも何度かハイマンを見たことがある。
けして評判のような能力のない人間ではないというのが、アバンの評価だ。
ただ頭が切れすぎるのかもしれない気はした。ハイマンのような微妙な立場の人間には、酷な才能かもしれない。
だが道化に走るほどのものではないはずだ。なぜハイマンが自分の存在を、それほどにパプニカの執政と切り離しておきたいのかは、アバンをもっても理解しがたいものだ。
今ならばともかく、レオナの父タイガ王が存命の頃は、その右腕ともなれる立場にあったはずだ。年の頃も近い。
最初アバンは、ハイマンを担ぎ上げて覇権を求める動きを避けるためなのかと思った。
しかしそういった政治的な分離は、当時感じられなかった。タイガ王は直系の出生で、名義的にも第一位にあったし、何より本人が王としての求心力に富んでいた。カリスマ性といってもいい。ハイマンは有能だと思うが、そういったものは備えていなかったように思う。
先々王もけして無能ではなかったが、人間的にも魅力でもタイガ王はぬきんでていた。
今思うと、時代が彼らを呼んだのかも知れないと、アバンは思う。
この時代どの国も不思議と実力のある王が、王座にある。
魔王軍打倒の急先鋒となったフローラも、けしてまだ王位が譲られるには若い年だったが、実際に彼女は夫を得るより早く王位を得ていた。
ベンガーナのクルテマッカZ世もしかり。戦後の急速な復興に、彼の経済的な手腕が自国のみならず、多くの国で振るわれている。
博識と揺るがぬ精神性で戦中にも後見したフォルケン王、人徳と公明な精神を持つシナナ王のロモスは、あの大戦の後にあってモンスターの存在を許容している唯一の国だ。住み分けられてはいるものの、取り残されたモンスターらの収束地となっている。
もちろん犠牲もあり、戦闘能力に秀で、戦いの前線にたったリンガイアの王は失われているし、おそらくタイガ王も今は亡い。
皮肉なものだが、ハイマンの"無能ぶり"は今になって有効になっていた。
タイガ王が存命のころから、献身的な働きをしていれば、レオナの若さに不安を持つものが、ハイマンを次王にたてる可能性は十分にあった。
だが今のハイマンにそれを望むものはない。
それらを<運命>という言葉におきかえるのは、あまりにもた易いが、アバンはあまりそういったものを好まない。ただ、流れのようなものが存在する、と感じることはアバン自身あった。
アバンは城内から外へと視線を移動した。
入城する馬車の流れを護衛の騎馬が道のわきで見送っていた。大隊の割に、護衛が少ないが、ヒュンケルがいることを考えれば十分過ぎるだろう。
アバンと違い小雨とは言え、ずっと雨に降られていた彼らのマントは、水気をすって暗く重そうに身体にはりついている。
ヒュンケルのことは探すまでもなく視線がとらえた。
その動きにつれてわずかな光りが、跡を残すようにその体を包んでいた。淡い、しかし紫檀の深い色にも似た、形容しがたい紫の"気"。
もちろん普通の人間には見えるものではない、護衛に当たっている同じ傭兵のなかでも、それを見とめられるほどの人間がいるかはあやしいだろう。
雨にぬれることで起きる体温の低下は、動きの鈍化につながる。
気を見ることはできなくても、鋭敏な者は気配として差異を感じ取る場合もある。周囲に威圧を気取られない程度の、弱い"気"を常に体内に張り巡らせていることで、ヒュンケルは体温の低下を防いでいるのだろう。
それは言うほどたやすいことでは無い。瞬発的な"気"のコントロールよりも、遥かに集中力とバランス感覚が求められる。もちろん"気"の根本的な容量の大きさも必要だ。状態を保つのはいいが、いざ戦闘時に肉体が疲労していては問題にならない。
美しいとさえ思う。装飾の美しさとは異なるが、打ち鍛えられた抜き身の刀剣のような、能力の極化されたうつくしさだ。
並々ならぬ数の種族と数にこれまでアバンは出会ってきたが、彼以上の戦士は見たことが無い。もはや師であるアバンの戦闘力を凌駕している。
ヒュンケルは"人間"のかなうる限りの、突端にいることは間違いない。
だが彼も人間であることに変わりない。戦闘で刻まれた消えない傷は、見えないところで彼を蝕んでいるだろう。
アバンが肉親にも等しい愛情を持って育てた幼子は何処にもいない。
頼り無げな細い腕も、少年らしい澄んだ声も、激しく注がれたアバンへの憎悪と複雑に絡み合った憧憬の念も、ヒュンケルからはもはやみとめられない。
だが再会の瞬間も目の前の青年がヒュンケルであることを、アバンは疑うことは無かった。
かなりの距離はしかしアバンには問題にならず、馬上にあるヒュンケルの顔を見つめた。
雨にぬれて硬質な光り ――― 文字通りの目に見える銀髪の光沢 ――― を発している髪が、精悍な輪郭をなぞるように張りついてる。
彼が、ヒュンケルがハイマンを連れてきたのだ。
誰もがアバンを先導者と評する。新たなるステージの提示者であると。
ならばヒュンケルは起爆剤だ。アバンはけして人に語らぬ、ヒュンケルへの認識を反芻した。
旧態の破壊者、そして止揚される次世代。
「……かなしいな」
アバンはゆっくりと城壁をあとにした。塔部へと入り、薄暗い石段を下る。
ヒュンケルが流れの中に現われるときには、移譲される存在が近くにある。
だがそれは痛みを伴う。そして破壊者であるヒュンケルが、次代の実りを手にすることはない。
彼はまた傷つくのだろう。
その痛みはアバンの痛みでもある。人の評価が正しいなら、その行く先を示したのはアバンなのだから。
いつも自分は知りながら手を差し伸べることは許されない。癒し手は別にある。
――― 私たちは出会わずにいるべきだった
涙がこぼれた。
* * *
馬車から降り立ったハイマンの前には、レオナ姫をはじめ主だった若い中核メンバーが出迎えに現われていた。
ベンガーナへ渡って2年近い期間が過ぎている。
「おかえりなさい、おじさま」
「『お帰り』ねぇ……、どうもそんな気分でもないがね」
「あら、じゃ何がお目当てなの?」
「まあ、とりあえずは礼節というところで、新たな女王の可憐な麗しさの絶賛を」
ハイマンは優雅な仕種で、腰をかがめると、レオナのほっそりとした手をとって、うやうやしく口付けた。
レオナも空いたほうの手で、ちょっ、とスカートをつまんで首を傾ける。
普段はこんな挨拶はしない。ハイマンの挙動にあわせた貴族風のあいさつだ。
「タイガ王の御霊に敬意を」
レオナ姫がハイマンを凝視した。アポロなどは今にも抗議の声をあげようと、表情をこわばらせて一歩前に出るのを、そっとレオナが押しとどめた。
「まだ判らないんです」
「あの男はこんな状況で黙っているような男ではない。ならば出てこれないんだろう」
静かな言葉は揶揄するものではない。その場にいた誰もが、少しばかり意外な印象を持った。いつもまともに取り合おうとはしないハイマンの言葉にしては、誠実さがあるように思われたからだ。
「……なんだか良く似た台詞を聞いたことがあります」
「ほう?」
「でも、そう言われていた人は生きていたんです」
「……それは私の同類だな」
「同類?」
レオナはあの戦いのなかで、フローラの言葉を思い出して告げた。だれもが失われたと思っていた大勇者は、最終ステージで戦線に復帰した。
アバンの姿を思い浮かべながら、いつもあの人は希望をくれる、とレオナは思う。ほんのささいなことが、後になってちいさな勇気をくれる。
「臆病者だよ」
むっと上目で自分を見るレオナに笑いながら、ハイマンはアポロに案内を促した。
走り出す気配を感じて一同が視線を向けると、アポロやマリンと共に側に控えていたエイミが、商隊に向かっている。
「あいつ……」
「まぁ、いいじゃないの」
飽きれたような声でつぶやく、しかめっつらのアポロをレオナが笑った。
エイミが駆けていく先には、予想通りヒュンケルの姿がある。
「なんだ?ヒュンケルの女になったのか?……おお、おお、哀れっぽい顔だな。悲恋の目だ」
振り返ったハイマンが、面白そうに眺める。
エイミは雨にぬれたヒュンケルに何かを話しかけている。内容までは伝わってこないが、大方ぬれた身体を乾かすなり、着替えるなりの提案をしたのだろう。
しかしヒュンケルはやがて小さく首を振ると、軽く会釈をして商隊の人員の中に入っていった。慣れた者か、ひやかすような、笑いと掛け声のようなものが一時上がった。
「振られたな」
「なんか嬉しそうね、おじ様」
「当然」
何が当然なんだ、とアポロは声に出さずに野次た。
「ヒュンケルが中途半端に期待を持たせるようなことを言っているのか?」
「ハイマン様、妹のことはどうぞお気にとめないで」
「気になどしていない。で、実際のところどうなっているのだ?」
「うーん、毎回玉砕してるみたいね」
「姫さまっ」
マリンがとりなそうとするが、ほとんど効果は得られていない。レオナが応答してしまうのでなおさらだ。
ハイマンの指摘は的を得ているが、家族同然のエイミを他人に笑われると、ついついいつもは自分が言っている小言の内容と大差がなくても腹が立つ。
そう、いわく―――
「手に入らないと判っているものを追い掛け回して、意味などあるのか?」
アポロは静かに、こめかみに青筋をたてた。
ひとこと言ってやろうとアポロが口を開きかけたところで、レオナの声がかぶさった。
「だってそれが青春の恋愛の醍醐味じゃないのv」
「そういうもんか?」
「そうゆうもんでしょ?」
アポロとマリンは揃って肩を落した。王家の血というのは、人の話を聞かない遺伝子でも組みこまれているのだろうか。
「おじ様は百戦錬磨かと思ったのに」
「そういうめんどくさいのは、好みではないんでね。レオナ、君もあんななのか」
「あたしのダーリンなんか、地の果てまでとんでっちゃったんだもの。もっと酷いわ」
親子ほどの年の差がある、王族の男女が、2年ぶりに再会して真っ先に話題にすることだろうか?もっと有意義な会話がこの世には存在するんじゃあないのか。
アポロは自問したが、もちろん応えなど返ってこない。
「マリン、荷受けの手配を始めてくれ……」
「そうね」
アポロはハイマンの従者達に、荷物の運び込みを指示する。ハイマンはヒュンケルを呼び寄せ簡単に段取りを聞くと、アポロに促され、レオナと連れ立って割り振られている部屋に向かった。
「ヒュンケルは姫のパーティだったそうだな、話しを聞きたい」
「まさかヒュンケルがおじ様のところにいたなんて、驚いたわ」
「それは気持ちいいな。だがあれを雇っているのは私ではなく、ジラフさ」
「その経過知りたいわ、なんかヒュンケルとジラフ伯ってイメージあわないのに」
直接会うことはないが、レオナもジラフ伯のことは聞き知っている。むしろ国を動かすなかで、全く知らないのではモグリだ。
別段悪意の人という噂はないが、ジラフ伯のようなタイプの人間をヒュンケルが好むとはあまり思えなかった。端的に言えば「ウマがあわなそう」という感じだ。
「パーティね……私のってゆうより、アバンの使徒のって感じだけど。彼、アバン先生の一番弟子なのよ」
「ほう、あの優男の勇者のね。正義の使徒というやつか」
「そう、それで、邪悪な破壊者。おじ様、戦いの話しが聞きたいの、それともヒュンケルの話し?」
レオナが興味をそそられたように、ハイマンの顔を見上げる。いたずら盛りの子供のような目で。それを眼の端に捉えて、ハイマンは片方の眉を上げて口の端で笑った。
好奇心たっぷりの少女の瞳。そんな表情は少女自身の父親に良く似ている。
タイガ王の生前は、ハイマンとレオナが言葉を交わすこともさほどなかったというのに、この屈託のなさはどうだ。
「何か隠し弾を持っているな、邪悪な破壊者とはなんだ」
「ヒュンケルは魔王軍の軍団長だったわ、この国を滅ぼそうとした不死騎団は彼の軍よ」
ハイマンは思わず歩を止めてレオナを見た。アポロも緊張した面持ちで立ち止まっている。再び歩き始めたハイマンは、視線を前に向けたままで答えた。
「あの男の話しを聞かせてくれ、私はそのために来たのだからな」
* * *
ヒュンケルは商隊の引継ぎをパプニカの者たちに済ませると、護衛の傭兵達を解放した。
ここからは商人達の仕事だ。援助物資がほとんどだが、それらの手配りをし、次回の段取りも打ち合わせ、実際の積荷を検品する。そして帰路はベンガーナに織物を持ちかえる。
パプニカのほとんどはまだ、外へ出すほどの物資には恵まれていない。しかしながら、パプニカの織物技術は群を抜いており、戦後すぐに再開された。唯一といってもいい、現在の輸出品だ。
出立は3日後の早朝の予定だ。それまで傭兵達は、自由行動になる。
都市での警備はエイミやバダックの率いる、騎士達の仕事だ。
ハイマンは残るが、ヒュンケルはもともと護衛が役目だ。商隊と共にベンガーナに戻る手はずになっている。
ベンガーナの出立前にハイマンが好意を示したこともあり、ヒュンケルはすんなり帰路につけるかの懸念はあるのだが、これは流石に手だてがあろうはずがない。
ヒュンケルは厩舎につないだ馬の手入れをしてやり、自分も濡れた服を替えると、アバンがいるはずの執務室へ向かった。
ヒュンケルにとってはこれからが難問だ。
歩きながらヒュンケルは到着した時の光景を思い返した。
城下町に入り、通常ならばとても人間を見分けるような距離ではなかったが、遠くからでもヒュンケルは迷わずそれがアバンであることが判った。
雨の向こう側、城壁の上にその影はあった。
昼にしては暗い、しかし雲の合間から漏れる光が射していた。
白く輝く姿は、何かの神像のようにも見える。純白のマントをまとって立つ姿は、まるで揺らぐこともなく存在していた。
荷馬車の入城が始まり、沿道に待機していると視線を感じたが、ヒュンケルが目を上げることはなかった。
自分はいったい何を恐れているのだろう、と思う。これから予定されている、ジラフに預かった返答書の一件ではない。なぜなら、胸の奥に巣食う小さな怖れはパプニカを出る少し前から、ヒュンケルに鈍い痛みを感じさせていた。
15年ものあいだヒュンケルはアバンを仇として生きてきた。しかしながら実際に再会した時には、アバンを憎む理由をヒュンケルは失っていた。
もうヒュンケルを束縛するものはないはずだった。しかしヒュンケルはいまでもたやすくあの目に捕らわれる。
あの視線が自分に向けられていることに、かすかな安堵を感じる。そして、それが全ての人間に傾けられることに、小さな失意を覚える。
そうしてそんな自分に気付くと、ヒュンケルは酷い自責にかられた。
愚かなことだ。もう自分はかつてアバンの元に養われていた、10歳にもみたない子供ではない。
たしかに父バルトスを喪ったヒュンケルに、アバンは父親のような役割も演じてくれた。当時はそれがむしろバルトスの存在をヒュンケルに再認識させ、鼻についた位だ。
だが今となってみれば、それは酷く不自然なことでもあった。
いくら勇者と呼ばれ、誰にも頼られる賢人とはいえ、彼は当時10代の半ば。ヒュンケルとは10年の差でしかない。
婚姻すら経験しない少年に、幼児の父親たれというほうがどうにかしている。
15年の別離を経て、再会したアバンは変わっていなかった。
変わっていないはずもないが、幼い自分の目から見上げた超えがたい大きな背中は、今や自分よりも心持低い。それらが相殺しているのか、これは確かに変わらぬやわらかい光彩の瞳とほほ笑みがそう思わせるのか、ヒュンケルには判じかねた。
むしろ変わったのは自分だろう。
肉体も、声も ――― 精神のありかさえ。
何も知らず、ただ失われた愛情とはじめて芽生えた憎しみだけに生きる時間は、それでもまだ無邪気だった。
あの本当の意味で闇を知らずにいた頃のヒュンケルは、厳密にはもう同じモノではありえない。
アバンが「知らせぬ」ことでそれを守ろうとしたことは、今となっては理解できる。
その破綻が遅かれ早かれ、まぬがれえなかったものであったろうことも。
可能か不可能かは別にしても、いつかは「教え」なければ行き詰まることは、アバン自身察していたはずだ。だがヒュンケルにはアバンが、その機会を見誤ったことが意外だった。
ヒュンケルの殺意をアバンは軽んじていたのか。
それはないだろう。ヒュンケルを返り討ちにした剣筋は、"きれ"ていた。けして覚悟のない人間の打つものではない、人を斬るという覚悟を。
あの瞬間感情的にはどうだか知らないが、アバンの勇者としての資質はたしかに、ヒュンケルを己の養い児ではなく1人の戦士として認識した。
だというのにだ。
自分は15年もの歳月が流れたいまだに、アバンに父親のように愛情を求めているのか。
子供地味た独占欲を発揮できなかった昔の腹いせでもして、今更胸を痛めようとでもいうのか。
いくらなんでもそこまで救いようのない間抜けだとは、自分でも思いたくはなかった。
しかしながら、実際にあの目にあえばそれは静電気かなにかのように、避け難くヒュンケルにまつわりついた。
パプニカを出ることになって、あの目と向き合わなくて済むことになったのは、たしかにヒュンケルにとって救いだった。
それがどうだ、わずか半年あまりでまた対峙するハメになろうとは。
ヒュンケルはわが身の始末の悪さにうんざりした。
「なにをそーんなにため息ついてるんです?知らないんですか、ため息つくと幸せが逃げるんですよ」
「……しらんな」
「あれ、驚かないんですね。つまんないの」
ヒュンケルはアバンの親切心を無視して、もうひとつ盛大にため息をついた。
先ほど回廊の渡り部分を過ぎたあたりから、アバンが気配を消して後ろからついてきていることには気付いていた。
びっくりさせて、気恥ずかしそうにさせる……なにが楽しいのかヒュンケルには理解しがたかったが、アバンはよくそんなことをする。
根っからの「いじり」好きだ。これに関しては作りでも道化でもない。
「気付かないでか……」
「えーっ」
やだなぁ、私も鈍ったのかなあ、気配を消しもらすなんて。年かなー、ねぇヒュンケル。
そんなアバンの心にもない落胆の愚痴めいた台詞を聞き流しながら、ヒュンケルはさらに気分を滅入らせた。
違う。アバンは文句なく気配を消していた。完全に。
風の動きがあるはずもない屋内に、しかし忍びこんだ雨の湿気が、ほんの微かにアバンの使う整髪料のにおいをヒュンケルに嗅ぎ取らせた。
それがヒュンケルを滅入らせた。アバンの使う整髪料の、ほとんどないはずの香りをかぎ分ける自分に。
「ま、いいか。おかえりなさい、ヒュンケル」
「それは……いろんな意味で使い方が違うように思いますが、先生」
「あってますよ。どの国だろうと、何処だろうと、家族のもとに戻った時が『おかえりなさい』でしょ」
辿り着いた執務室の扉をあけて、アバンはヒュンケルを招きながら室内に入る。ヒュンケルは瞬間遅れて部屋に足を踏み入れた。
「……度しがたいお人よしだな」
「あなたがいつまでも変わらぬ純情なんですよ」
ヒュンケルは、どうしてこうも度々見透かされるような展開になるのか、自分の心には拡声器でもついているのかと呻いた。もちろん偶然なのだが、それにしても嫌な才能だ。
「どちらも肯定しがたいな」
「強情っぱりなんだから」
「そういう問題ではない」
「そーゆうモンダイです」
「……」
「とりあえず座ったら」
苦虫を噛み潰したような(ヒュンケルの場合本当に虫くらい食べたことがありそうだ)ヒュンケルをソファーに促して、アバン自身はいつもの机についた。
「それじゃ夕食の前に、懸案を済ませてしまいましょうか」
アバンは机の引出しから、小さなビンを取り出した。
例の製薬だ。
「ジラフ伯の名代として来た。まずそれと同時期、同様の薬はジラフが回収の手配をしたことを言っておく。これは念のための処置と思ってもらいたい。必ずしも人体に悪影響があるのかどうかは不明だ」
ジラフ伯の話しを信用するなら、あの魔界の苔の混入は事故だ。当然該当の製薬全てに、どれほどの量が入っているかは判らない。
ヒュンケルは実際ごく微量なのではないかと考えている。
発端となった事故の発生が、処方の開始からかなりの期間が経っている。そして継続性はない。それなりの量があれば、発生はもっと早く、複数であるはずだ。
あとは服用した人間の身体能力の差だ。それを考えると、常用性の低いあの苔の性質は必ずしも悪影響があるとは判じかねる。
アバンはただ黙って頷いた。マリンがサンプルを持ちこみ、不純物らしきものがんみとめられた時点で、アバンも医師の元に使用保留の指示を出していた。
その後ジラフ伯の元に質問書を送ったが、返答と同時に、回収の手配が回ってきたことをアバンも聞いていた。
流石だな、と感じたことを覚えている。
アバンも念の為の処置として行ったが、正直ジラフ伯がそんなに早く手を回すとは思わなかった。
普通ならばそうした回収は不信を買う行為だ。己の非を認めるようなもので、何も判明していない現状では、ふつうの商人は手を出したがらない。
よほど良心的か、すでに何らかの不良を知っていたか。
「今回の荷でその製薬は同様のものと交換して、処分するか持ちかえるつもりだがいいだろうか」
「なにかよほどまずいものがあるんですか。これ。証拠隠滅?」
ヒュンケルは少し意外そうに目を開くと、微かに首をかしげた。
アバンの言葉じりに、微かに険が含まれているように思えたからだ。アバンが感情を吐露するのは、その人当たりのよさにごまかされるが実際には少ない。
アバン自身もヒュンケルの反応で、それを察したのだろう。瞬きを一定のリズムで2度した。
自分で気付いているかは判らないが、それはアバンが気持ちを落ちつけようとするときの癖だ。ヒュンケルは表に出さず、内心こんどこそ驚いた。
「……不良品を同等の品か、金銭で交換し、引き取るのは通例と聞いているが」
「……」
たしかにそうだ。アバンは何も返さなかった。ほんのわずかな揺れをヒュンケルは認めた。
ヒュンケルほどの戦士となれば、観察と予測もまた卓越しているというのは当然のことだ。昔のように他愛無い軽口でごまかされることもないだろう。
だがアバンは自分でどんな余波が跡を残しているのか気付かなかった。
失態だった。
ヒュンケルは何がアバンを揺らしたのかは判らなかったが、別の直感はあった。
おそらくアバンはあの魔界の苔を識らない。
それはヒュンケルにとって、カウンターを食らったような心持だった。
アバンの知らないことがある。あの手の及ばぬ場所が。
当たり前のことで、当然ヒュンケルはアバンを神のように見ていたわけでも、限界のない化け物と思っていたわけでもさらさらない。それでもかつて側にあった時には、その限界をアバンは見せなかったし、ヒュンケルも見極める技量を持ち合わせなかった。
それが今は感じた。ヒュンケルは初めてアバンと同じ位置に立ったのだ、と思えた。技量だけならば、もうずっと前に超えている。それでもいままで、アバンと同じ位置で向かい合ったことがないとヒュンケルは考えていた。そしてそれは事実だった。
「あまりそういった例はないようだが、そのサンプルを持っておきたいと思うなら、それは置いていく」
ジラフ伯からは当然、残ったもの全てを持ちかえるように言われていた。
だがヒュンケルは自身の裁量で、それをアバンに提案した。けして、ただアバンだけを思いやってのことではない。むしろ駆け引きの要素が大きかった。
アバンがあの苔を識らないなら、無理に回収すれば不信を助長するだけだ。人間界でいまや、あの苔の存在を新たに知る機会などそうはあり得ない。
「……単なる偶然?単純な不良品と思っていいのですね」
「ジラフは先生の検査結果を信用している。ならば、可能性としては精製段階でなんらかの異物が混入したと考えるのが打倒だ」
「何が混入したかの見当は」
アバンはヒュンケルと見合っていた視線をはずしてつぶやいた。珍しく精彩に乏しい。
「『こんな事故は二度とないように努める』……預かってきた言葉だ。この件ははからずも俺も関わってしまうことになった。
……俺にあずけて貰えないだろうか」
いくらジラフ伯に雇われた立場でのやり取りとは言え、嘘はつきたくなかった。
ヒュンケルは極力言葉を押さえた。苔のことを隠したまま多くを語れば、事実だけを言葉にするわけには行かなくなる。
望んだことではないが、関わった以上は最後まで見届けるつもりでいた。
アバンは再び視線を上げて、ヒュンケルを見つめた。
「任せましょう、ただし約束してください。助けが要るときには、独りで背負わないで」
「……解った」
神妙な顔でヒュンケルが頷くと、やっとアバンは笑った。
そこでヒュンケルは初めて、いつのまにかアバンからいつもの笑みが消えていたことに気付いた。ヒュンケルの方も緊張していたのだろう。
「あなたのそういう『解った』は、あんまり信用ならないんですけど。しょーがないですねぇ」
「……」
ヒュンケルは憮然とした面持ちで、軽くアバンをにらみつけた。
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