不可視の海
6. 「俺はこんな風に触れる手を知らない」 (by ヒュンケル)
アバンは仕事に手をつけるでもなく、ぼんやり外を眺めた。
ヒュンケルはすでに退出していない。レオナは夕食までハイマンの相手をしているだろうし、マリンは荷物につきっきりでいるはずだ。アポロも同様で、少なくとも夕食の時間まではこの執務室を訪れる予定のものはいない。
アバンはささやかな幸運に感謝した。
今自分は酷い顔をしているはずだ。
目の奥がじんじんとうずくような軽い頭痛と、それに付随して目の回りの筋肉がくぼんだような疲労を感じて、アバンはダテ眼鏡を外して背後に位置を変えた机に放るように置いた。
木のフレームが書類を叩いた。慣れ親しんだものが今日は重く、視界に差し障るようでとてもかけていられなかった。
目もとの窪(くぼ)を指先でおし、深く椅子に背を預けた。
酷く疲れた。最終ステージから戦いに復帰し、それから休むまもなくパプニカにかかわりつづけてきた。しかしそのことに疲労を覚えたことはない。
これが精神的なものから訪れる疲労であることは十分承知していた。
ヒュンケルに主導権をとられたままやり取りは終っていた。しかもわずかな動揺を察せられてしまい、いくらかの配慮までさせてしまった。
もちろんヒュンケルは何にアバンが揺れたのかを知ることはないだろう。それでも他人の感情の機微に聡い子だ。その理由はヒュンケルにとっては問題ではない。
アバンははじめ、ヒュンケルとハイマンを入り口近くで迎えるつもりでいた。実際、レオナ達が迎えに出た中庭に面した扉のところまで向かった。
扉の手前の位置から、遠くに一団が見えた。
レオナやハイマンらがこちらに背を向けて、さらにむこうがわに視線をやっていた。その先にはエイミとヒュンケルの姿があり、すぐにヒュンケルはエイミから離れて商隊へと混じった。
そこでハイマンがヒュンケルを呼ぶ声が、アバンのところまで聞こえた。ヒュンケルは再び現われると、ハイマンのところにやってきた。
レオナ達と挨拶を交わしているのだろう、その横でハイマンが何かヒュンケルに話しかけている。なにか誘っているのか、ヒュンケルの横に立つように向きが変わり、ハイマンの顔が見えた。
やや病的に色の白い顔に、金髪がいくらか生気を添えている。神経質そうな左が少し上がった細い眉は、かつて見た記憶のままだった。たしか40代も半ばのはずだが、若いというか、年齢不詳な印象だ。
いくらかのやり取りの後、ヒュンケルは商隊に戻っていった。
アバンはそこまで見て、踵をかえした。
やはり部屋でヒュンケルを迎えよう。ハイマンには夕食の時に挨拶をすればいい。
落ちつきなくマントのあわせをかき込んだ。
執務室に戻り、手前にあるソファにマントを投げると、アバンは自分に割り当てられている机に向かった。
仕事は途切れることなく湧いてくる。
それらの書類を広げながら、視線はそのうわっつらを滑り、ちっとも文字は頭に入ってこなかった。
その役立たずな頭によぎるのは、先ほど見かけた光景だ。
どれくらいそんな無駄に書類をかきまわすだけの時間を費やしたのか、よく覚えていない。不意に投げ出したマントに気付いて、壁際にかけなおした。
そうして部屋を出て、渡り廊下のあたりまで降りたところで、ヒュンケルを見かけた。先の濡れた服ではなく、着替えを済ませた姿だったが髪だけが湿っていた。
気配を殺し距離を置いて、後ろをついていった。ヒュンケルは執務室に向かっていた。するとアバンもすとんと腹の据わったような感覚が戻ってきていた。
ヒュンケルに声をかけた自分は、いつもの変わらぬ自分だった。
自分の存在に気付いていたヒュンケルに、驚きもしたが、なにか安堵もしていた。そのあとジラフ伯の名前が出るまでは。
いや、正確に言えば「ジラフ」と呼びすてにするヒュンケルにだ。
名代としての役割で来たのだ。あえて尊称は、初めの挨拶以外ではぬいたのだ、と思っても、頭をよぎるのはやはり先と同じ光景だった。
何かを誘ってごねているようなハイマンをなだめるようなヒュンケルは、けして義務的には見えなかった。
ヒュンケルの表情には許容があらわれているように思えた。
情の浅い子ではない。むしろ自分のテリトリーにある存在には、自分の身を削ることもいとわない。しかしそれゆえにか、普通は常に他者と一定の距離を置いていたはずだ。
だがヒュンケルは積極的な好意は感じられないものの、ハイマンの存在を認めているように見えた。
そしてハイマンの方はヒュンケルに対して好意をもっているように思えた。
アバンがタイガ王とかかわる中で見かけたハイマンは、もっと醒めたような、虚ろに近い目をしていた。灰褐色の眼は冷たく皮肉を含んだように感じられた。
それがヒュンケルを見る目は、穏やかだった。
そしてそれ以上だとアバンは直感した。
ヒュンケルが自分にこの件を任せて欲しいと申し出た時、正直なところアバンはほっとしていた。
多分自分は冷静にこの件を判断できない。
ヒュンケルにはヒュンケルの、ジラフ伯に委託されたことでの思惑が何かしらあったろう。
だがそれに乗っても構わないと思うほど、アバンは動揺していた。流石にヒュンケルもそこまでは気付いていないだろう。
もちろんヒュンケルが無責任に処理するような人物でないからこそ、任せたのは本当だ。
アバンは己が身を恥じた。
アポロに向かって、「ヒュンケルが自分以外のゆかりの人間と付き合えるようになったのは嬉しい」と言っておきながら、実際にそれを見ると動揺するとは。
いや動揺したのは、その光景にかすかに苛立ちを感じた自分にだ。
自分の手元から飛び立とうとする若者に。
しばらくの再会でダイやポップ、マアムらを見たときに、自分の教授したはるか高みに駆け上る姿を誇らしいと感じた。十の教授より一の経験が勝る。まさにそんな成長に、巣立つ一抹の寂しさこそあれ苛立ちなど感じなかった。
それとも……とっくに雄雄しい翼を得て飛翔するあの存在を、自分の小さな檻に篭めることのできない苛立ちなのか。
なんて酷い親がわりだ。
「違うだろう……」
アバンは目を押さえていた両手で、顔を覆った。城壁のところにいたとき以上に情けないような、泣きたい気分だったが涙はいっこうに出てこなかった。
――― ハイマンの目に宿る好意が、それ以上のものだと思ったからじゃないのか?
アバンもまたヒュンケル同様に感情の機微に聡い。違うのはさらにそこに付随する理由までを読み取ろうとすることだ。
――― だがそれだけではあるまい
そうだ。目の色くらいでそうそう簡単に、感情の由来を思いつけるはずがない。そう言った読み取りは、さまざまな経験があってこそ可能なものだ。
まして男が男にむかって投げる好意を、愛情以上だとどうして思うだろう。
そういうものもあり得ると、知っているからだ。
――― それがどうしてそんなにショックを受ける?
――― 自分の目に似ていたからか?
そうだ、ずっと昔自分はよく似た色を目に秘めていたことがある。
ヒュンケルと出会うよりも前、アバンが勇者と呼ばれる前だ。
けして暴かれることのない沈黙のなかにある、過去の思い出だ。けして否定するつもりはない。むしろ純粋で美しかったとさえ思える過ぎ去った日々。自分独りだけが知る宝。
だがまだ若く、今思えば幼いともいえる感情であったあの頃、こんな苛立ちはしらない。
――― 同じだ、認めてしまえ。
けして。けしてこの感情を認めることはない、あれとは別物だ。一生目をそらしつづけるだろう。真実どうであるかなど、考えること自体を放棄する。
ましてあの子に、こんな風にうろたえた師の、師でも何でもないただの男としての自分を。
覚られてはならない。
あの光景、あの一瞬、目に映ったヒュンケルは弟子でも養い児でもなく、ただの見知らぬ人間の男だった。
経験したことのないあの苛立ちは、多分、"嫉妬"というものによく似ていたということを。
* * *
久しぶりに広間に並べられた、それなりの食事をかこんでレオナをはじめ、アポロ、マリン、エイミ、バダック、アバンと顔ぶれが揃っていた。
全員が揃ったのは、しばらく前に薬の一件が話題に上った時以来だ。まして、今日はヒュンケルもそこに加わっている。
しかしながら本来メインであるはずのハイマンは姿を見せなかった。
「うーん、まずったですかねぇ……私まだご挨拶も済ませていないんですよ」
「アバン殿のせいではござらん、皆忙しいなか、ハイマン殿のために集まったようなものだというのに。この年寄り、ひとことご意見もうしあげる」
「まあまあ、バダックどの。ハイマン殿も旅づかれもあるでしょう、あとで私がご挨拶に行きますよ」
「いや!あの御方は……」
「ハーイ、ハイ、ストーップ。せっかくの料理を頂いちゃいましょうよ。あんまりカリカリしないの」
とっとと、パンを取りながらレオナがバダックを止めると、隣り合ったバダックの皿にもでんと盛りつけた。
アポロは黙々と食事を進めているし、マリンは周囲の食事の様子を見ながら、レオナの手をつけようとしない豆のスープを、さりげなくサーブしている。レオナは一瞬上目遣いにマリンを見たが、大人しくスプーンをつけた。
聞き役の上手いアバンは、バダックの注意を逸らすのに成功したようで、ふたりで違う話題に盛り上がり始めているようだ。
エイミといえばすこしばかりそわそわと、ヒュンケルに目を配り、飲み物が欠けないように勧めたりしていた。
以前パプニカを出る前と変わらぬ、暖かく賑やかな食卓に、ヒュンケルはわずかに目を細めた。
ジラフの別宅に滞在しているあいだ、華やかな宴や質の高い食事も常に与えられたが、やはり家庭的なぬくもりには乏しい。ここに集まっているのは家族とは違ったが、それでも暖かな気配りが感じられる。そんな食卓だった。
ジラフはこんな食事をとることがあったのだろうか。
ヒュンケルはふいに考えた。戦乱の以前はパプニカにいた時期も多かったはずだが、ハイマンはパプニカの話題をほとんど出したことがない。
考えてみれば、ハイマンが語るのは常に他人の話だった。主には芸術や音楽、それに携わる芸人。
あの男が年よりも若く……というより、年齢が定まらないように感じるのは、家庭的な臭いがないからかもしれない。こんな食卓を得る機会を持ちながら、それを感受したことがないのか。
ヒュンケルは目を伏せた。
あの男の目にはいつも他を排斥する、孤独への欲求があった。そうと判るのは、多分自分も最近までは同じようなものを持っていたからだ。
ヒュンケルにはそれが察せられるだけに、そこに踏み込む意思を持ちがたかった。
かつて、ヒュンケルのそれを打ち壊したのは、孤独からは程遠い存在だった。
惜しみない愛を受けて育ち、傲慢なほどにそれを与えることに頓着のない少女。それは、アバンによって失われた過去の幼いヒュンケル自身とも似通っていた。
愛されることに慣れ、疑うことを知らずに、手にあるすべては永遠だと信じられたころの残虐さ。
その限りなくやさしく、やわらかな手で、マアムはヒュンケルを打ち壊した。
盲目的に破壊衝動に身をまかせることで、おのれの無力さに目を向けようとしなかったヒュンケルを揺さぶった。
マアムにそんな意図はなかったろう。
ただ彼女はヒュンケルを理解しようと努め、手負いの獣のようなヒュンケルに同情と慈悲をたれた。赦しをあたえようとした。
だがその行為のひとつひとつが、ヒュンケルにとって自分の罪を暴き立てるものに他ならなかった。
何度倒れようと、立ち上がりむかってくるダイの姿が恐ろしかった。
幼い日の自分が持ちえなかったものを、あの子供は体現していた。
たとえ直接に手を下さなかったとしても、あの世界を護ることが命題であった父バルトスを、滅びへと追いやったのはやはりアバンなのだ。事実に誤解があったとしても、真実に誤りはない。
それが嫌ならばダイのように、それを生かすための世界を守ろうとするべきではなかったろうか。
たとえ敵わずそこで共に滅びることになっても、少なくとも独り生き残ったことに後悔を持ちながら、復讐とより大きな代償を人間に払わせることのみに生きることにはならなかったろう。
あのときの自分は小賢しくも、理性的ではあった。
ただ父に守られ、失ったことに嘆きながら、ひとめでアバンに敵わないことを知った。より残酷な復讐を求めて、アバンの弟子になることを望んだ。
それはアバンの死を願う一点において、有効であったといまでも思う。
けれど喪ってしまったものの代償にはなりえない。
どんな魔族の、モンスターの屈強な力もヒュンケルに触れえなかった。どんな暴力も、権力も、ヒュンケルはそれらに揺るがされることはなかった。
やわらかく、あたたかい残酷な手。
そのマアムの手がヒュンケルをこの世界に引き戻した。
そして目醒めたヒュンケルには、もはやアバンを殺すことは出来なくなっていた。そのことがいっそうヒュンケルを苛んだ。
悪辣になりきれない、生半可なおのれの良心を呪った。
マアムに擁(いだ)かれ許される喜びを感じるおのれの心に涙がでた。
あんまりひどすぎる。マアムから"しるし"を受け取った同じ手で、自分はどれほどの命を刈りとってきただろう。
しかしながら悔恨と懺悔になげうったはずの命は、澱んだ河が流れに合流して洗われたように、途絶えることなくこうして生きている。
そして憎しみこそないものの、かつての自分と似た目を持つ男を見ている自分がいる。
なんて滑稽だろう。
「ヒュンケル」
呼ばれる声に意識を戻すと、レオナがヒュンケルを見ていた。
「もしかしたらおじ様がここへ来ないのは、私のせいかもしれないわ」
特別強い声ではなかったが、内容にテーブルにいた全員が注目した。
ヒュンケルはわずかに首を傾けると、大きくすんだ琥珀色の瞳を見返した。
「何故?」
「あなたのことを話したの。おじ様すごく知りたがってた。私が知っていることは隠さなかったわ」
「構わない」
ヒュンケルは1度も口止めをしたことはない。どんな内容も、それが事実である限り、どう評されようと口を挟むこともなかった。
以前にレオナに意志を確認された時にも、構わないことを伝えてあった。それ自体は問題ではない。
「あなたは構わなくても、おじ様は構ったのかも。全然話してなかったんでしょ」
「尋ねられたことはなかったが」
「相変わらず野暮天ねぇ……」
「申し訳ありませんねぇ、どーも親の教育が行き届かずに……このアバンの不徳のいたすところ!」
「親にいただいた覚えはないな」
視線もくれずにあっさりと言葉をわきにはじくヒュンケルに、アバンはがっくりとうなだれて涙を拭う仕種をする。その様子にアポロの眉がぴくりと引きつった。
(なんだその有難さのかけらもない返事は!)と、ヒュンケルの愛想のなさを責める視線も、まったく届かないのだから、そろそろアポロは諦めをしるべきだろう。
しかし、それをそうと割りきれないアポロの誠実さも、周囲の人間に信頼されているひとつだ。
もっとも本人は仕事の処理能力が信頼のいちばんの核だと思っている。存外自分で思う評価基準と、他者のそれとはかさならないらしい。
「大抵は興味をもった相手のことは、その人柄をつくってきた経歴も知りたいものなのよ」
「何故?」
「理屈じゃないの。……でもせっかく、めずらしいことにおじ様が親しくする気になったのを、だいなしにしちゃったかな」
ヒュンケルは何もこたえなかった。軽くため息をつきながら、レオナは温野菜をフォークで突き刺すと口に運んだ。
きっとヒュンケルは誰かに好かれたい、などという、ありきたりの感情に無縁なのだろう。レオナにとって、それはひどくうらやましいような、淋しいような気がした。
誰かを求めなくても立っていられる強さはうらやましいが、それを得るためにこんなに暖かな居場所を失うなら、甘ったれのままでいい。
いまもヒュンケルを怖れる人間はたくさんいるだろう。過去のヒュンケルを知り、ハイマンがそのひとりになったとしても、彼は責めたりしない。そして同じくわかりあおうと、理解されたいと、努力することもないのだろう。
いや、ヒュンケルは理解するだろう。しかしそれが相互でなければあまり意味がないことに、彼は今だ気づいていないのだ。
自分にそんな値はないとかんがえるなら、それこそが奢りなのだと。
「ヒュンケルはおじ様のことは嫌い?」
元より返事は期待していない。レオナはつぎのフォークのえじきを探しながらつづけた。
「……後ですこし取り分けてもらえるか」
「何を」
「ハイマンの部屋にもってゆく」
レオナは手をとめて、ぽかんとヒュンケルを見た。
嫌われたかもしれない相手に、自分からあゆみよろうとしている姿勢が意外だった。今までのヒュンケルなら、相手の結論がでるまでそっとしておくだろう。それとも。
「それって、任務のうちにはいってるの」
「いいや。……どうかしたか」
「どうかしたのはヒュンケルだと思うけど」
レオナは表情をゆるめた。
「悪くないどうかだけど」
「……よくわからないな」
「いいの、いいの。おじ様はね、いままでだーれとも馴染まなかった人だから、友達ができるってすごい歓迎だわ。ヒュンケル、あなただって友達少ないでしょ。いい機会よ」
「……ジラフ伯とは親しいようだったが」
「あのね、友達ってひとりだけしかつくっちゃいけないわけじゃないのよ」
ヒュンケルはかすかに眉をよせた。何故夕食の話しが、"友達"のはなしへとなったのかついてゆけていないのだ。
だいたいにおいて、"友達"という概念がいままでヒュンケルの人生で登場したことがほとんどない。がんばって"仲間"というところだ。
当然ながら友達と仲間のちがいくらいはわきまえているつもりだ。だが、同じこころざしや目的のために出会い、信頼しあう……そんなこと抜きに考えをめぐらせていくと、やはりバルトスのもとで生活した日々までさかのぼることになりそうだった。
「たぶん分かってないだろうから言っとくけど、仲間が友達でもいいのよ」
みすかしたように、レオナの声がヒュンケルの思考を追った。
しかしながらそれはますますヒュンケルを混乱させるだけだ。もっともレオナはそれもわかっていて、わざといい足したのだが。
「ほーんとヒュンケルっていじりがいがあるわー」
極々上機嫌につぶやいて食事をつづけるレオナ姫と、おそらく見た目はかわりないが内心クエスチョンマークを乱れ飛ばしているのだろう、食事の手をとめているヒュンケルを見比べながら、同席していただれもがレオナ姫の最強を疑ってはいなかった。
* * *
ヒュンケルは片手で盆を持ちかえると、かるくノックをした。
ハイマンに用意されていたのは、以前タイガ王づきの騎士が数名ずつ交代でつめていた部屋だった。タイガ王の寝室だった部屋と隣接してはいるが、母屋とは別しつらえで、ハイマンを迎えるには好都合だった。広さも申し分ない。
銀の盆の上にはふたつみっつ高低のある食器が、かけられたナプキンを形作っている。どれも銀食器と料理とでなかなかな重さになるはずだったが、ヒュンケルは盆のはじを片手でかるくつまむように持っていた。
ノックのあとに返事はなく、しばらく間をあけてヒュンケルは声をかけた。
「ハイマン」
一拍おいて急いたような、荒い足音がつづき、廊下の空気もろとも吸いこむようにドアが勢いよくあけられた。
何も反応をかえさないヒュンケルに、ハイマンもまた声をあげることもなく近距離からじっと見つめた。しばらく互いに見合っていたが、根負けしたようにハイマンはため息をつき、斜めに体の向きをかえるとヒュンケルを招き入れた。
いちべつしてまっすぐにテーブルへ向かうヒュンケルの背を見送って、もういちどハイマンはため息をつくと扉をしめた。
「何故晩餐に出なかった。腹がすいたろう」
「……ほんとうに色気のない奴だな」
ヒュンケルはナプキンを外して給仕を始めた。おおいのしたからは、よく片手で持っていたと感心するような量があらわれる。ローストされた肉のかたまりを、手際よくナイフで切り分けて小皿に盛る。塩づけて醗酵させたキャベツと腸詰も添えられた。
断固として食事の用意をするヒュンケルにあきらめたのか、ハイマンは大人しくテーブルについた。
白くやわらかい弾力のチーズとハーブ、トマト。まだらに穀物の褐色の粒が見えるパン。
「それはいらん、ワインでいい」
さらに盛ろうとしたヒュンケルの手が一瞬止まり、また動いてハイマンの前に置かれた。
「何がおかしい」
わずかな表情の変化をみとってハイマンは不満そうな声をあげつつ、さりげなく皿を遠ざける。
「だめだ、ちゃんとレオナ姫は我慢して食べていたぞ。豆は栄養がいいんだ」
ヒュンケルは再び皿を元の位置に戻しながら指摘した。こんな処が同じとは、面白いな。ヒュンケルは考えてもみなかった相似にゆるく微笑んだ。
上目でハイマンは様子を伺うが、ヒュンケルの表情を見ると低く唸ってスプーンを取った。
「そういうのは反則だ」
「何が」
「顔だ、顔。表情。いっただろうが、惚れた弱みだ」
「馬鹿なことを」
「そうだ!私はばかだ!!大馬鹿だ!!朴念仁め"ああ私は感じている。どんなにもとの自分を一葉一葉失ってゆくか、ただお前の微笑だけが!"……愛しているよ」
勢いよく食事をしながらわめき散らすハイマンに、ヒュンケルが眉をひそめた。
「……考えなおさないか」
「お前の生い立ちか?お前の罪か、ざんげしたいのか、わたしに。だがそれこそ無意味だ」
「わかる言葉で言ってくれ」
「"暗黒で不死身で残酷なものを、美しい結合を"」
「ハイマン」
「運命を感じたよ。私はおまえなら愛せる。ヒュンケル、お前は運命を信じるか」
ヒュンケルは静かにハイマンの目をみやった。その灰褐色の瞳から、なにか読み取れないかと強い意志で。
けれどおよそ普段のハイマンには似つかわしくない、ただひたむきな目があるだけだった。
ヒュンケルは考え考え答えた。
「信じるというのかはわからない。たぶんそういうくくりではない……のだと思う。ただ……
「運命というのは人そのものなのだろうと思うことはある。誰かそのもの。触れてはじめて動く」
「……おまえは時々面白いことを言うな」
ハイマンはフォークで腸詰を、はじから細かく輪切りにきざみはじめた。
「私は常に傍観者であった、と以前言ったろう。父親の記憶はほとんどない。母親もおまえの年頃には失ったが……ずっと戒められたことがある。ひそかに。
『けして治世に言葉をはさまぬように。声をあげぬように』
ずっと不思議だったな」
次ぎにきざんだ腸詰の破片を、1つずつ口に運び、しばらく声はとぎれた。
「死の床についたとき、母ははじめて理由をあかした。
『お前のなかに流れる半分は暗い場所から生まれた眷属の血』
父親は魔族らしい」
ヒュンケルは給仕した位置に立ったまま、ハイマンを見下ろした。彼はただ前の方に視線を向けたまま、ゆっくりと豆のスープを口に運んだ。
「……なに?」
「……詳しいことはわたしも知らん。どうしてそうなったのか、暴力なのか、誰なのか。だからそのことは聞くな。この話をしたのはお前がはじめてだ。ニ度は言わん」
ハイマンは見上げると、ささやくような声でヒュンケルに告げた。
「ジラフにさえ言わなかった。だがその内容までは知らないとしても、ジラフと……タイガは何かしら察していた気はするな。
「墓場にまでもってゆくものだ。誰にも告げずに。何も望まず、何も許されず」
ゆっくりと手を持ち上げると、ハイマンはヒュンケルの手をつかんだ。座ったままの姿勢をずらし、這う人のようにもう片方の手でヒュンケルの胸元をつかんだ。
「ヒュンケル……ヒュンケル、……ヒュンケル……私の気持ちがわからないか、私の怖れが。目覚めた朝の鏡を見ることすら怖れた日々が。おのれの血の目覚めが、何より ―――
「私の挙動が、生き方や発言が、なんの努力も経過も評価されることなく、その理由を"血"に語られる怖れが!」
だんだんと荒げるハイマンの声はしかし、ヒュンケルの腹部に顔をうめたためにくぐもって、ただヒュンケルのみに届いた。
何なんだこれは。
ヒュンケルはすがるように自分を抱く男を見下ろした。金色の頭髪とその下に続く、やせた背中をながめると、ゆっくりと首を左右にふった。
そっと手を動かしてハイマンを引きはがそうとする。抵抗するするようにヒュンケルをつかんだ手に力がこもる。さらに少しづつヒュンケルは力を込めていった。
その骨や腱を損なわないように、注意しながらヒュンケルは力を加減していたが、もう十分にハイマンは痛みを感じているはずだった。
しかしその骨ばった大した筋肉もない体からは、呻き声の一つもなく、手もとかれなかった。
まるで捨てられようとしている子が、母親にすがるように。
ふいにヒュンケルは熱を感じて、自分の手を見下ろした。腕をつかむハイマンの指が、引きはがそうとするヒュンケルにあらがって、その爪を食いこませている。ヒュンケルの感じた熱は、彼自身の血がその爪をつたって滲み落ちたものだった。
ふいにヒュンケルは力を抜いた。
押し返す力を失って、どん、とヒュンケルへと崩れるように倒れこむハイマンを受け止める。2人のせめぎあいに揺さぶられた椅子が、音をたてて倒れた。
「痛い」
「……」
「痛い」
責めるような声が、腹のあたりから伝わってくるものの、ハイマンは顔を上げようとはしなかった。
「放せばいい」
「いやだ、もう駄目だ!」
ハイマンはあえぐように言い放った。
子供の頃から大した望みはいだかなかった。ただ許される範囲でより楽しもうとだけして生きてきた。
それでも何も知らないで生きることはハイマンに苦痛をもたらした。
無知によって得られる幸福をうらやむほどに、世界の知りうる知識を学んでいった。
書物を読み、人の話を聞いた。芸術を愛でる一方で、ジラフのような豪商や芸能にたずさわる者たちとの交流で、その情報は並の王族をしのぐほどになっていった。
至宝の音色を奏でることが出来なくても、それを聞き分ける能力を持っていたように、政治にかかわらずともその流れを明確に見分けた。
おのれを隠したまま、愛情を乞うことに疲れ、結局は遊興に終始しようとも。
それは希望を持たないからこそ受け入れられたのだ。
「おまえならば……私は……」
奇跡のような可能性を知ってしまったら、もう駄目だ。
ハイマンは自分の爪が皮膚を破ってながれた、ヒュンケルの手首にくちづけた。
「ハイマン……だめだ」
拒否を示すヒュンケルの言葉に、ばっ、と顔を上げたハイマンはにらむように見つめた。
ハイマンのあまり血色の良くない唇は、部分的にヒュンケルの血で赤くぬれていた。
「お前からそんな言葉は聞きたくない」
言葉とほとんど同時に、傷口に再び爪を立てられ強く引かれた。一方で肩で体当たりをするように押し倒される。
ヒュンケルはあらがわずに、受身を取って床に転がった。その上にまたがるようにハイマンが乗り上げ、ヒュンケルの両肩に膝をついて体重をかけられる。
かたややせぎすとはいえ、長身の成人2人がもつれあったために、鈍い衝撃音とともに敷かれたラグが波打ち、それにつられて倒れた椅子がいやな音を立てて数センチ床を移動した。
引き倒されたヒュンケルの目を閉て落ちついた様子とは逆に、なれない行為と感情の昂ぶりに、ハイマンは震えるように深く息を吐いた。
「何故だ」
うめくようなハイマンの問いかけに、ゆっくりヒュンケルがまぶたを開く。やっと2人の視線があわさり、その瞳を見てハイマンは冷静を取り戻した。
その目に映る感情は言動の冷静さとは裏腹に、戸惑いに揺れていた。
そして言葉のような拒絶は見られなかった。
「ヒュンケル」
ハイマンはゆっくりと体を折って身をかがめると、ヒュンケルの乱れた髪のひとふさを手にとってくちづけようとした。
察したヒュンケルが首をふって逃れる。
「だめだ」
「何故」
「お前が望むような感情を、俺は返せない」
「急ぎはしない、ゆっくりでいい。触れあってうまれる情もある」
「それでもだ」
何度もハイマンは優しい仕種で、髪を撫でた。そのたびにヒュンケルはよける。だが苛立つ様子もなく、根気よくハイマンの節の張った細く長い指はヒュンケルを追った。
「お前が闇の世界で、どんなに孤独でいたか、私なら解る。どんな侮辱に耐えて這い上がったか」
ヒュンケルは戸惑った。
ハイマンを力ずくで退けるのは可能だが、体勢がよくない。ハイマンを傷つけずにヒュンケルの上からどかせるのが難しい。ヒュンケルは敵との格闘には慣れているが、こういった微妙な取っ組み合いには向いていなかった。
まさか闘気で思いきり弾き飛ばす訳にもいかない。
そしてこんな状況になった今もハイマンを痛めつけたくないと思っている自分に、少しばかり驚いてもいた。
「だが……だがそれではきっと駄目だ」
「なにがいけない。今更男だとか、私が年よりだとか……さっき告白した事だとか、そんなありきたりの理由を言ってみろ。鼻をかじってやる」
「お前のためにも、俺のためにもならないだろう」
ハイマンはぴくりと指を止めると、まじまじとヒュンケルを見つめてため息をついた。
「……もうちょっとマシな言い訳はないのか。ある意味ありきたりの理由より酷いぞ、ヒュンケル。三文芝居だ」
「お前は……言う通り、俺を誰より理解するかもしれない。それが……恐ろしい」
「……解らんな」
「とりあえず降りろ」
少し間をあけて、ハイマンはヒュンケルを横目で見ると体を浮かした。ヒュンケルも肘を立てて置きあがろうとしたが、こんどは腹の上に文字通り馬乗りになられて、中途半端に上体を浮かしてまた力を抜いて床に体を預ける羽目になった。
「ハイマン」
「まだ話しが終っていない」
ヒュンケルはため息をついて体を起こすのをあきらめた。
どちらにしてもこの姿勢ならば腕が自由なぶん、いつでも加減してハイマンを退けられる。
「なぐさめは、与えられるかもしれない。多分、お前にも俺にも。だがそれだけだ。俺とお前ではなにも生み出さないだろう」
「なんだ、人並みに子沢山な家庭が好みか」
「ハイマンそういうことではない」
「わかっている」
わかっているがなぁ……ハイマンは何度目かになるため息をついた。
ハイマンはヒュンケルの胸に両手をつくと、その腕をおって犬がふせるように胸をあわせて顔を覗きこんだ。
ごく近い位置にハイマンの吐息が感じられた。
「多分お前の恐れていることは、わかっているつもりだが……」
おそらくヒュンケルは似通った、しかも暗部に近い世界を持つ2人がお互いに依存することで、意識が閉塞的になることを怖れているのだろう。
「私にしてみれば、それのどこがいけないのだ、というところなのだが」
眉をよせるヒュンケルを視線で制してハイマンはつづけた。
「いいか、私がほしいのはオフィシャルなパートナーではなく、心のよりどころとなるパートナーでそう何人もいらん。普通の男女間でも一夫一婦だろうが。
「プライベートは露出趣味でもなければ、たいがい閉塞的だ。翌朝家族や友人の同席する食卓があったとして、『昨夜は激しくセックスをしてね』という話題を選ぶ人間はまずおらん」
腕をとくとハイマンはゆっくりヒュンケルのわき腹をなでた。
「おまえは好きなように飛べばいい。どこへなりと行き、おのれの求める野蛮な戦いをしろ。成長したいならそこですればいいことだ。
「ただし私と会話し、触れ合い、ベッドで快楽を共有するあいだは忘れるんだ」
最後はほとんどくちびるをかすめるような位置でささやかれた。
その間も細くやや節ばった長い指が、愛撫の意志を持ってヒュンケルの筋肉をたどった。
ヒュンケルは喉の奥でうめいた。
いつのまにかなだめるように、やわらかく鼻先や頬骨の上をたどるハイマンのくちびるを逃れて、よけた首筋にもそれは降った。
不思議とそれはヒュンケルの本能を煽るというよりは、固い結び目をほぐすようなやさしいものに感じられた。
ゆるやかに体温が高められる感覚がある。女性のようなやわらかさなどないはずの手が、しかしこの上なく繊細に動いた。
なにかを与えようとする手。
相手の意識にささげられる行為。
こんな風に触れる手をヒュンケルはしらない。
かつて地底で与えられた無償の愛情とも、ヒュンケルを暴き、許し、癒そうとしたやわらかな慈悲とも違うもの。
手は従順に導くが、それはともに共有しようと誘うもの。
それがかつてヒュンケルにも覚えのある快楽を引き出そうとしていた。
「だいたいそんな節制がもとめられているとでも思うのか?どうあろうと人間たちは私たちを同類項として扱うだろうさ。マイノリティとはそういうものだ」
「それでも……」
ハイマンの手をつかんでとめる。
「もう今はおまえを受け入れることができない」
「この朴念仁っ、若年寄!ムッツリスケベ!インポ野郎!……泣くぞ!」
「分かれ、それくらいには大事なんだ。ハイマン」
「そんななんの足しにもならん好意などいらんわ!」
ヒュンケルは頃合をみはからって、つかんでいたハイマンの腕を引っ張ると、ひょいと体勢をいれかえ床に押さえつけた。
「放せ」
「この話は終りだ、いいな。これ以上騒ぐなら強制的に眠らせる」
「……野蛮人め」
「そうだ、だからもう構うな。食事が途中だろう、ちゃんと食え」
ヒュンケルの目に限界を読み取ったのだろう。しぶしぶハイマンは頷いた。
そうしてこの状況はなんだろうか。
ヒュンケルはそっとため息をついた。
食事は片付けられ、時間も経ち、こうしてハイマンの眠っているベッドに腰掛けている自分は。
部屋の灯りも落されて、寝室の窓からほのかに月のひかりが侵入してきているだけだ。
煌煌とまではいかないが、それでも暗闇のむこうに建物の輪郭が見て取れる程度には明るい。
ヒュンケルは視線を落してベッドをうかがった。
ハイマンが寝入っている。それが狸寝入りなどではなく、本物の眠りであることは気配でわかる。これだけ近寄っていれば。
ヒュンケルでも現状を第三者の目から見れば、かなり珍妙な光景だろうという自覚がある。
かたや四十半ばも過ぎた男が、息子のような年の男の膝になついて眠っているとは。
あのとっくみあいから、延々ハイマンの世話をしてつきっきりだった訳ではもちろんない。ヒュンケルとしてはとっとと辞退したかったところだったが、その点はハイマンの方が上手だった。
「就寝のときには来てくれ。ここで寝るつもりで」
「ハイマン」
「違う、そっちはとりあえず今日はあきらめた。力ずくなど文化人たる私の美意識に反する。おまえと話したいだけだ、おまえの話を聞きたい。それくらいは譲歩しろ」
もともとスタイルで寡黙を気取っているわけではなく、自分をネタにした話題など出きるような能力がないための無口である。当然ヒュンケルは数ミリ眉を寄せることでハイマンに抗議した。
「言っておくがもしこなかったら、従順でかわいらしいお前で処理するからな」
「……かわいらしい」
「そうだ私の空想上なら当然可能だからな。お前自身が来て、有意義な体験談を交わすほうがすばらしいと思わないか」
朴念仁だ、野暮天だといった評価が定着しつつあるヒュンケルとはいえ、さすがに男に分類される以上、何をハイマンがほのめかしているのか察せられたらしい。
彼の眉はさらに数ミリ寄せられ、はっきり不機嫌なシワが見て取れるまでになった。
「なに、私が寝入るまでだ」
そして結局またこの部屋に戻る羽目になったのである。
――― たぶん俺があまやかしているんだろう
旅の疲れがあったのだろう、それほど長引くこともなく寝入ったハイマンをヒュンケルはながめた。
いつから自分はそんな余裕を持つようになったのだろうか。
ふいにそんな感慨が訪れたが答えはでなかった。
ヒュンケルは自覚を持っていなかったが、マアムと出会い、そのやり取りのはてに彼女から"赦し"が与えられた時に、彼の中で一つの時間が終っていた。
子供という時間。
マアムによってそのものが与えられたのではなく、彼女の赦しがヒュンケル自身の変化の発点になった。短い時間に自分と自分を取り囲むものたちとを再認識し、彼は大人になった。
それは"自分"という視点、"自分と自分の相手"という視点に、"第3の目"が加わったひとつの変化だった。
"第3の目"はけして周囲からの視線や評価ではない。
結局ハイマンの眠りを妨げるのをおそれて、ヒュンケルは膝から振り落とさずにいる。
座ったまま眠ることも、必要ならば立ったままでも問題はなかったが、他人の気配が近くにあるとたいした睡眠はえられない。そしてヒュンケルは数日眠らなくても、全開で戦闘状態を維持することすら可能だった。一夜くらいたいした問題でもない。
それともそういった訓練された身体能力とは別に、ごくありふれた欲求がハイマンの元を去らない今夜の理由の本音かもしれない。
そっとヒュンケルは手の甲をハイマンの鼻先にかざして、その呼吸を感じ取った。
しばらくぶりに沸いた欲求。
自分以外の体温を感じたい。生きる気配にひたされたい。肌の匂い、体内の熱、瞬間の死にも似た快感。
感情の伴わない本能的な衝動。
ハイマンの告白や、自身の動揺、接触、そういったなかで放射しあう強い感情が呼び起こしたらしい。
戦闘や生死に付随する緊迫感が以前の世界と違ってほとんどない中で、発散されなかったものが護衛の任務で刺激されたこともあるのだろう。
もしもあの状態で、触れようとすがる手がハイマンでなければ、あるいは出会ったばかりの頃か、ハイマンが心にかけないような存在ならば拒めなかったかもしれない。
――― どうにも俺のこころは弱いな
侮られようとあらがいがたく、愛情を求める自分がかくれている。ヒュンケルは自嘲した。
そうと錯覚させてくれる代償行為でもかまわないとすら思う瞬間がある。
ヒュンケルは意識を窓の外へとむけた。
元王警護の詰め所であったこの建物からは、王や姫、近しい臣下たちの部屋がある建物が近くにうかがえる。
王不在のなか、倒壊したかつての政務に関する部屋のいくつかも移され、王の寝室は執務室になっていた。
他の部屋のあかりはもう消えている中、執務室の一角から光りがもれている。
アバンはまだ起きているのだろうか。ヒュンケルは光りのもれる窓を注視したが、中の気配まではうかがえなかった。
20年以上を戦争とそれに関わる使命に費やしてきたアバンは、こんな感情に怯える夜には無縁なのだろうか。
それともすでに満たされる存在を獲得してるから無縁なのか。
ふいにかすめた疑問を追い出すように、ヒュンケルはまぶたを閉じて、視界から灯る光を追い出した。
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