不可視の海
7. 「今生きているものを断罪する権利がどこに」 (by ジラフ)
「ハイマンのことを聞きたいのだが、なにか知っているだろうか」
エイミは思わず歩みを止めてヒュンケルに目をむけた。
2歩ほど遅れてヒュンケルも立ち止まった。エイミのようすを見つめる色のない印象の
瞳ははたして自分の様子をどううつしているだろうか。
エイミは脈絡もなく考えた。
多分どうとも思っていないのだろう。
はじめてエイミは腹立たしい気持ちになった。
ふたりは連れ立ってにぎわい始めた城下町を歩いていた。
デートなどという気の利いたものであるはずもなく、それは多分に仕事なのだがエイミは十分楽しんでいた。
ヒュンケルがジラフ伯の使者としての役目で、件の患者の様子を見に行くというのをエイミが案内している。
楽しげに会話するでもなく、たまにエイミが街のようすを話しながら、もくもくと歩いている最中のことだ。
腹立たしい。
エイミはヒュンケルに惹かれている自分に気付いてから、いままでそんな風に思ったことはなかった。ヒュンケルが憎らしい。
恋なのだと自覚してから、ずいぶんと自分はヒュンケルを見てきた。
すぐにマアムとの不思議な感情には気がついた。
「不思議な」というのは、恋愛というくくりにいれてしまうには何かズレたものを感じたからだ。
マアムのヒュンケルにむける愛情は(それが愛情であることには疑いはなかったが)、ひどく慈悲的であったし、ヒュンケルのマアムに対する感情はどこか崇拝にも似た敬虔さがあった。
美しい関係であったが、エイミとっては硝子でできた置物のようにただ美しく、純粋なだけに自分の求めるものとは別個に思えた。
自分はそんなきれいなものが欲しいのではない。
ヒュンケルの誰にも見せないような弱さを知りたい。罪を知り、悲しみをしり、共に苦しんで支えあって歩きたいのだ。
汗の匂いを感じるぐらいに密接に抱き合いたい。流れる涙をぬぐってあげられる近さが欲しい。
そうして気がついた。
ふたりはまだ自分たちの感情に気付いていないのだ。
それが男女としての愛情に足るものだと。なんてつたなくて、幼い愛情だろう。
だったらまだ自分にはヒュンケルの隣りへゆくことができるかもしれない。
マアムを飛び越えて、国も、使命もすべてなげうって、ただひとつのものを手に入れる。それがどうして許されないなどというのだろう。
だからマアムに対しても、急がなくてはという焦りのようなものはあったけれど、それは嫉妬のようなものではなかった。
少なくともまだマアムとエイミは別の土俵にいる。
けれど初めて今、ヒュンケルに……そしてハイマンに嫉妬にも近い感情を持った。
エイミがヒュンケルを知り、理解しようとするほどに、ヒュンケルはエイミを知ろうとはしてはくれなかった。
それは誰に対しても等しく踏み込むことがなかったから、エイミはいままで意識することなくいられたのだ。
ヒュンケルはエイミの求めるものを知っている。
それでいて、エイミにハイマンのことを聞くのだ。
なんて酷い男だ。
「どうした」
「私のことは聞いてくれないの」
エイミははっきりとヒュンケルに告げた。
もとより、思っていながら聞くこともできない、という意気地のない気性でもない。
「……」
けして鈍い男ではない。これで気付いたろう、何をエイミがもとめているか。
けれど。
「聞いてはくれないのね」
だからといってエイミの機嫌をとってくれるような、かわいげのある人でも無い。
「どうして、どうして私ではだめなの」
「……わからない。だが、応えられない、エイミ。それにたぶん俺では君をしあわせにはできない」
「そんなこと求めてないわ、言ったでしょう。私はあなたと一緒なら地獄に落ちてもいい。あなたの一言で、私はすべてをあなたにあげられるわ」
エイミは歩き出し、視線を幾分うつむけたまま、前をみてヒュンケルへと向けなかった。
「幸せって何?あなたに奉仕して欲しくてあなたを選んだんじゃないわ。判らないの?あなたが側にいないことが、私を不幸にしているの」
「だから忘れて欲しいと言った。あなたには幸せになって欲しい」
「忘れるって。そうできるなら、最初から言ったりしない。そんなのあなたの都合のいいだけだわ」
「……そうだな」
エイミはもう後悔しはじめていた。
ヒュンケルの気持ちは動かなかった。気持ちはいくらか近づいたように思うが、それはたぶん以前にはなかった同情的なものだろうと察せられた。
側において欲しい。そのやりとりはいつも堂堂巡りになってしまう。
けっきょくヒュンケルが揺れることはなく、しかしエイミの気持ちに応えられずに傷つけることに痛そうな目をする。
そんな目をさせたいわけではない。
そしてこんなうちひしがれた自分を見せたいわけでもないのだ。
そうしてエイミはちいさな絶望を、またひとつこころに積む。
「……ハイマン様はタイガ王のまた従兄弟にあたるのだと思うわ。タイガ様のおばあさまと、ハイマン様のおばあさまが姉妹でらっしゃるの。ハイマン様のおばあさまはベンガーナの王室に嫁がれて、そこでハイマン様のお母様にあたる方を生まれて。
ハイマン様のお母様は、パプニカから外交のためにベンガーナで勤めていた騎士とのあいだにハイマン様をもうけられたと聞いているわ」
「ハイマンの両親ともいないのか」
「……魔族に襲われたのよ。お父様はそのときに命を落とされて、お母様はそのあとしばらくしてハイマン様を生まれて、たしか成人される頃になくなられたはずよ」
「そうか。ジラフ伯との関わりは」
「ジラフ伯の先代の頃からベンガーナの公認で商売をされていたそうよ。そのころ出入りしていた王宮でハイマン様のご両親とも知り合われて交流が。
魔族に襲われたときにもご一緒で、そのあとジラフ伯が後見人としてお預かりになったと。先代がなくなられてジラフ伯の代になられても、変わらずお世話を」
「……その先代の名は知っているか」
「先代?……なんだったかしら。もう30年近くまえに亡くなられているはずよ」
「判った、ありがとう」
「なにか気になることが?」
なかば答えを予想しつつもエイミは問いかける。
「いや、大した事じゃない」
たいしたことじゃなくてもイイのに。
いつになったらあなたは私に、本当の意味で話しかけてくれるんだろう。
はじめての苛立ちは、はじめての疲労感をエイミにもたらした。
狭い路地をいくつかまがり、白い漆喰の塀が続く家並みを抜けたところに目的の家があった。
件の精神安定剤を服用してた男の家だ。
様態は日に日に安定し、自宅での療養に変わっている。
エイミも何度と様子を見に来ているのだろう、慣れた様子で一声かけると扉をくぐった。
「あら、また来てたのラップ」
親しげに声をかけた先には10歳ほどの少年がいた。
エイミは振りかえるとヒュンケルに少年を紹介した。男が街中で騒ぎを起こした時に、拘束された子供だ。
突然の暴行に怯えた顔をしていた子供だったが、落ちついてくるとなかなか闊達そうな少年だった。
意識のあやしい男の様子を、エイミと共にじっと眺めていた。医者が呼ばれ、診察されたが、もうその頃には憔悴した表情とうつろさが灰のように頬にへばりついているのが見えるだけで、凶暴性のかけらも見えなかった。
やがて眠った男の診断結果を聞き、エイミと男の父親、医師らがこの後の対応を相談する間も、まるでなにかで測ったように3mほどの距離で男を見ていた。
じゃ、かえろうか。送るよ。エイミが少年の手を引くと、逆らうことなくとぼとぼと歩きながらつぶやいた。
「大人のひともこわいんだね」
なぜだかその言葉は酷くエイミの胸をついた。涙が出そうになって、目に力をこめた。
「許してあげられる?」
「……よくわかんないよ、ぼくもこわいもの。でもあのおじさんもかわいそうなんだね」
それからぽつんとつぶやいた。
「あのおじさんも、ぼくのことかわいそうっていってた」
そう。なんと言っていいのかエイミには判じかねて、ただ曖昧に相づちを打った。
たしかに思い返すとそんなことを男も言っていた。
つなぎあった手が、じんわり汗をかくまで沈黙があった。
内心エイミは困っていた。正直子供の相手は苦手だ。なにかを言おうとするが、自分の気遣う言葉がうそ臭く感じられていつも困る。
姉のエイミは人とのコミニュケーションが上手い。
子供でも、年寄りでもワザとらしい所がなく、しかもへりくだったところもなく会話する。
いつも羨ましいと思うのだが、エイミには真似ができない。
子供を励ます言葉のひとつも浮かんではこない自分に、内心罵倒していると、ふいに手を解かれた。
慌てて向き直ると、にらっとわらった顔があった。
「えっ」
つぎの瞬間にはあまりふだん触れられることのない部分に、なんとも言いがたい感触をえて体がこわばった。
「おねえちゃん、おっぱいデカ!」
ふよふよと小さなてのひらで揉まれて、あわててかがめていた体をおこした。
「な、なに」
「じゃぁね〜、ばいばーい」
目をしろくろさせるエイミの前をくるりと踵をかえして、路地にかけていく少年の姿を見送ると、やっと怒りがわいてきた。
「こんの、くそがきーっ」
男を運んできた騎士たちが、きょとんとエイミをながめ、つぎには笑いをこらえて顔をうつむける。
その様子を眼の端にとめながら、恥ずかしさと、安堵のスペシャルミックスされた心地にため息をついた。
それはそれで済んだのだが、そのうち少年がたびたび男の元を訪ねているのを、あとでエイミは知って舌をまいた。
――― 子供ってスゴイ
最近では大分回復してきた男に、彫金のまねごとを習っているらしい。
ラップと呼ばれた少年は、丸い黒めがちな目をむけると、大人びた笑いをむけた。
「ねえちゃん、今日は彼氏つきだ」
「ナマ言ってんじゃないの」
ヒュンケルの視線を感じながら、エイミはラップの耳をつまんだ。
普段ヒュンケルの前では……城でもあまり使わないちょっと乱暴な言葉遣いだ。きっとヒュンケルはそれが目新しいのだろう。
とりあえずラップの背を押しやって、外に行かせると、改めて男にヒュンケルを紹介した。
「ジラフ伯の使者です」
一瞬まよって、ヒュンケルの名前は告げなかった。男がヒュンケルを知っているかは判らないが、もし知っていたら精神的に負担になるだろう。
ヒュンケルの姿はけっこう特徴があるので、あるいはそれも無駄かもしれないが。
ヒュンケルがかるく会釈すると、男もベッドで体を起こした状態で頷いた。
「ロックです。ご苦労様です」
あの狂乱が作り事のように、大人しい、いくらか気の弱そうな男だ。
ヒュンケルは勧められるまま、先ほどまで子供の腰掛けていた丸い木の椅子にこしを下ろした。
「不調法ですまないが、用件を済まさせてもらう。体調はもう大分良くなっていると聞いているが、なにか後遺症のようなものは」
「さあ、たぶんないのかな」
「……貴公が飲まれていた製薬が、錯乱の原因の可能性がある。幸か不幸か他にこう言った症状がいまのところ他に聞かれないので、原因は断定できていない。
だがそういった商品を提供したことに、ジラフは責任を認識している。要望があれば伝える」
「……別に無いです」
ゆるく笑いながら返す言葉は、気抜けするほどだ。
訳の判らない状況に自分が陥ったにしては、あまりに恐怖心の薄い反応にヒュンケルがわずかに首を傾げた。
「なにも?」
「……そりゃ、援助とかあれば助かりますけど。まあ別に」
照れたように頭を掻く。
「薬が原因かもって、聞いてはいますけど、どうなのか自信ないんですよね。薬を飲む前も恐い夢ばかり見て、寝不足だったりしてるし……あんまり、その、暴れた時のことも覚えて無いし」
「そうか」
「あなた商人じゃないですよね」
男はヒュンケルを見た。
「荷の護衛をやっている」
「そうですか、ご苦労様です。俺は行商で彫金とか、アクセサリの修理とかもやってるんですけど」
「……」
「ジラフ伯にはずいぶん世話になっているんです」
ヒュンケルはわずかに眉を寄せた。伺うように視線を送ると、察したのだろう、男は「いやそう言うんじゃなくて」と笑った。
「別に世話って言っても、商売ってことじゃなくて、それに気兼ねして言わないってわけでもないんですよー」
「世話というのは」
「行商やるなんて、そんなに儲かってるわけじゃないんです。別に食べるのに困るってほどでもないですけど」
ロックと名乗った男はベッドサイドのテーブルに、手にしていた竹串を置いた。見ると、金属の箔や、アクセサリのパーツがごちゃごちゃと置かれている。
「ジラフ伯の商圏はしっかりしてて、旅をしてても便利なんです。俺も商売してるからわかるんですけど、儲け心っていうか、どうしてもがめつくなって来たりするのが普通なんですけど」
戦争の後先は、とかく物価が高騰する。旅先で状況が不安になると死活問題になる。魔法で瞬間移動するでも無い限り、旅の行程を省略することなどできない。食べるのに困るというのもあるが、治安が悪くなるのも困った反動だ。
「あんまり便乗したりしないし、逆に買い叩くようなことも聞かないし。公認をたてに街道を独占封鎖したりもしないし」
うーん、なんていうのかなぁ。また頭を掻いて、薄く笑う。
「俺も一生懸命作るけど、どうしてもヘマやるときあるんですよ。もちろん、ちゃんとフォローさせてもらうけど。だからなんとなく、自分でも判るんです。
そこに悪意があるのか、ほんとに仕方ないことなのか」
「……」
「だからいいんです」
「根拠が薄いように思うが」
「俺あんまり頭良く無いから。うん、なんでかあんまり恨む気分にならないっていうか。だいたい原因ははっきりしないって、あなたも言ってたでしょ」
ヒュンケルは頷いた。会話の間中男の気を探ったが、特に歪んだ様子も見られない。
恐らくあの錯乱の原因となった幻覚は、あの薬が引き起こしたことだと、ヒュンケルは男の様子もみてほぼ確信していた。
その後気の乱れを感じられない以上、また、繰り返されることはないだろう。
多分あの薬の中に含まれていた、あの苔は微量だったのだろう。この男が本来抱えていた不安が引き金をひいたのだ。
状況を確認するという使者としての役目を終えたヒュンケルは、席を立った。
ヒュンケルの役目はジラフと、この男との仲介で、何かの判定ではない。
家を出ると、先ほどの少年が様子を伺っていた。
エイミがすこしまぶしそうに、家の中に入っていく少年を見送る。
「わたしもちょっと前は、あんな時があったのに。だれよりも強い時」
エイミが何を言いたいのかは察せられた。
いつのまにか忘れかけている、打算のないしたたかさ。子供がまだ得られない"経験"の代わりに持つもの。
大人の杞憂を笑って駆けていってしまえる強さ。
ほんとうに、いつのまに、自分たちはそんなものを羨ましいと感じるようになってしまったのだろう。
* * *
一夜を過ぎて、ヒュンケルは再び馬上の人になっていた。
やはり昨夜もハイマンの話し相手(会話になっているのかいささか疑問もあるが)になり、しかしおそれていたような、出立をごねる様子もなくヒュンケルは帰路についた。
視線をめぐらせるでもなく、商隊全体の位置を把握し気をくばりつつ、ヒュンケルはこの数日を反芻していた。
出立前のジラフとのやり取り、アバンとの会話、ハイマンの告白、エイミに教えられたハイマンの事情、被害者の様子。
多分なにもかもが、上手く行っているのだ。
ジラフ伯がここまで上手くヒュンケルがことを終えてくるか、はたして期待しているだろうか。
しかしヒュンケルが整理しようとしているのは、そんな報告のためではなかった。
――― 何かが
何かが。ヒュンケルは指の先で眉間を撫でた。
ハイマンの告白が本当なら、ハイマンの父親は、その母親の婚約者ではなく、襲った魔族の誰かなのだろう。
だから隠したのだ。母親はハイマンの誕生までどれほどの怖れを持ったろう。
魔族の特徴が出ればそれは隠しようがない。かつてそうして虐げられた子供を、ヒュンケルは知っている。今は友となった男だ。
だが生まれたハイマンは人間の特徴が強く出た。
現にヒュンケルはハイマンの告白があるまで、それを察し得なかった。
並の人間よりはるかに魔族やモンスターに通じているヒュンケルに判らないものが、他の人間に察せられることはないだろう。
そうして40年以上ハイマンは出自を隠しおおせて生きていたのだ。
――― ジラフだ
ジラフの存在が、ヒュンケルに違和感をもたらしている。
だが何故かはヒュンケル自身わからなかった。
パプニカに来たときとはうって変わった青空に送られながら、ヒュンケルは行く先に待っているはずの男の面影を思った。
* * *
夜半をまわり、屋敷にも作業場にもあかりが灯る部屋が減った。
灯りは貴重だ。ろうそくもランプ油もただでは無い。
商人たちの中継点とも言うべきジラフの屋敷では、自然無駄を贅沢とは感じない人間がほとんどだ。
不要な事柄に時間を割かず明日の為に眠り、それでも灯りのほしい時は独り部屋で灯りをともすことなく、夜の歓楽街へとくりだす。眠りよりも人を欲するなら正しい行動だ。
無駄のない生活は、あるいはとても正直な生活であるのかもしれない。
この時間になると屋敷のなかでもジラフの居住空間はこと人気がない。
使用人が下がると、家族をもたないジラフはほとんど独りだけの時間を過ごす。
この孤独な時間はジラフにとって、生きてゆくのに欠かせない時間だ。
家庭のぬくもりや、隣人の愛情を求めるように、ジラフはこの空白の時間を必要とした。
何故人間は独りではくらしてゆくことすら苦痛なのに、その群れの中で自分だけの空間を必要とするのだろう。
ジラフは部屋を抜け、奥まったところにある階段を下った。
別段隠してある部屋では無い。
だが普通、人が他人の寝室に無断で入ることをマナーとして避けるように、普段ここに入るものはいない。いってみればジラフのごくプライベートな空間だ。当然鍵は普段閉められている。
当然外と直接通じているわけでは無い。地下室であるこの部屋には窓もなかった。
ジラフはひんやりとした空気にふれて、ため息をついた。疲労のため息では無い。今日1日を終えた充足のちいさな儀式のようなものだ。
ランプを3つ順順にともすと、部屋のなかが見渡せた。
片方の壁には、造り付けの書棚があり、天井にとどくまでの書物が整然と収められている。反対側のには小さな水路があった。
地下水がくみ上げられて、流れる水路は、その先を壁のむこうへ続けている。恐らく荷の受け渡しにも利用されている水路へとつながるのだろう。
その水路を根に、小さな地下庭園のような空間が作られている。
細いくだをとおして、まるで植物の階層住宅のように、さまざまな植物がたしかに生きていた。
さまざまな薬瓶が無数にある棚と机。そのひとりりがけの気に入りの椅子に座って、栽培している植物をながめたり、書物をさらうのがジラフの静かな楽しみだった。
地下室でありながら、その植物の一部分には月明かりが指している。ぱっと見には判らないが、中庭に面した明り取りの窓があるのかもしれない。
「俺はこんな空間を知っているよ。ひどくなつかしくさえある」
月明かりから染み出すような声に、ジラフは体をこわばらせた。
毎夜馴染んだ空間は、しかし、その静謐さ以外のものを今夜は内包していた。
「窓も、月も……太陽も見えることはないのに、ただ明かりだけが射しこむんだ。まるでドラゴンの尻尾みたいに。光射す場所は時間とともに移動する。俺はおさない頃ずっとそれが不思議だった」
ジラフがゆっくりと振りかえると、先ほど降りてきた階段からの入り口にちかい壁に、もたれるようにひっそりと立つ白い姿をみとめた。
「……それが"光"というものだと教えられても、イメージが浮かばない。俺は"光"
そのものに意志があって、天井にぶら下がって気ままに動いているのだと思っていた」
ヒュンケルはなんの感慨もうつさない、色味のない瞳をジラフにむけた。
「まさか天井のその上に、"世界"があるなど知らなかった。地上というのはどこか遠い、夢の世界のようにあやふやな存在だったから」
「……いつからそこに」
囁くような問いかけは、意識してのものではなかった。しかしヒュンケルはジラフの言葉を汲み取ったようだった。
「……いつから」
今度はいくらかはっきりした声となって響いた。
ヒュンケルは視線を己の手元に向けた。その手には古い革表紙の冊子があり、表紙には手書きの字体で文字が綴られているのが見て取れた。
一瞬よぎったジラフの後をつけてきたのか、という期待は否定された。
部屋に入った時に、まるでジラフは気付けなかったが、そのときにすでにヒュンケルはこの部屋にいたのだ。
この膨大な書物のなかから、その1冊をすくいあげるだけの時間を。
「Qui est et qui erat et qui venturus est,omnupotens 」
うつくしい響きといっても良かった。自分にはとうとう訛りの抜けなかった発音を、苦もなく話すヒュンケルが厭わしくジラフには感じられた。
古い表紙とは違い、魔族の文字で綴られる比較的新しいインクの文字。
「俺はこんな癖のある文字を書く男を知ってる」
――― 今いまし、かつていまし、やがて来るべき者
『俺であり、お前であり、そしていつか、俺を断罪する者かもしれないな』
『その日のために、これを残そう』
『俺の署名のかわりに』
『お前の産声のかわりに』
どうして自分はこの冊子を処分できなかったのだろう。だが、こんな瞬間の予感があってもジラフにはやはり失いたくないものだった。
「ザムザ、お前なのか」
「……コソ泥が……、失せろ、礼儀をしらぬ獣め」
「非礼は承知だ、ザムザ」
「その名をお前が口にするな、裏切り者が!私は!」
「お前はザムザではない。同じはずがない。だが俺は偶然というものもあまり信用しない」
ヒュンケルは一歩を踏み出した。
「お前は似すぎているんだ」
にらみあうまま、一瞬とも、何十分とも思える時間が過ぎた。
――― これがあなたの言った"断罪"なのか
ジラフは視線をそむけると、椅子に脱力するように腰掛けた。
ヒュンケルと対面した時から、いつかは暴かれるかもしれないという覚悟はしていた。
秘密というものは完全な孤独とともにあって、秘密なのだ。たった1人であろうと、それを自分以外の誰かが知り得たならば、それがどんなささいな欠片であろうと、やがて秘密は暴かれる。
まぶたを閉じると自分と良く似た姿が鮮明に思い起こされた。
だが自分とは違うもの。
いつかの断罪を予感しながら、報われない最期を予見しながら、それすら救いの一部なのだと疾走をやめなかったあの人と自分は違う。
――― 私は産声をあげることなく生まれた
ヒュンケルの存在を知ったとき、怖れつつも、それを打ち負かす自負も持っていた。
魔軍司令が、大魔王が、使いきれなかったものを。
鋭利なナイフをあつかうのは腕力では無いはずだ。
私は魔力を持たない。
私は戦闘経験もない。
それでも私は、私の創造主のように断罪をまって、愛情と罪とに翻弄されて生きることなどしないのだ。
ザムザ、あなたのようには。
「だからどうだと?何を聞きたいのです」
ジラフは机に肘をついて脚を組むと、醒めたようなまなざしでヒュンケルを見つめた。
「何をもとめてあなたはこんなところまで来たのです?私はあなたに、こんなふうに立ち入ることを認めた覚えはない」
「これは魔族の文字だ」
「そうですか、初めて知りました」
「ジラフ!」
視線をそらすことなく指摘するヒュンケルから視線をはずして、ジラフは小さな地下庭園を眺めた。机の上を中指の爪でこつこつとかるく打つ。
「回りくどい商談は時間の無駄ですよ。あなたは魔族の文字が読める。書付をご覧になった。それですべてでしょう」
「……」
ヒュンケルはかるく首をかたむけて視線をゆるめた。ゆっくりと歩み寄ると、ジラフの右手がかけられた机の上に、手にしていた書物を置いた。添えられるように表紙の上に指先が触れている。
「読んでいない」
「……は?」
「ここにあるものすべてのなかで、触れたのはこれだけだ。そしてこの中は読んではいない」
初めてジラフは表情を作ることを忘れて、間近にいるヒュンケルを見上げた。
「見ていない?その時間があったのに?読めないわけではないのに?」
「そうだ。そこまで無神経なつもりはないが」
「この部屋に私の許しなくはいることが、すでに十分な無神経さですよ」
そこまで言うとジラフはうつむいた。肩がふるえ、すぐにそれは笑い声にかわり、哄笑といっても差し支えないほどになる。
次ぎの瞬間ジラフの手は書物をわしづかみにしたが、ヒュンケルの中指の先が触れているだけにしか見えないにもかかわらず、両手ですがるようにとりもどそうとする意思に反し本は1ミリも動かなかった。
「あなたはやはり甘い。真実をしりたいと思うなら、暴く罪を怖れるべきではありません。あざけりを怖れて1歩を踏み出さない者は、けして何も得られない。あなたはそれだ」
「……」
「『私はこれが魔族の言葉とは知らなかった、この書物は偶然に手に入れた。めずらしそうだったのでとっておいただけだ』そう、私は言う。あなたは何らそれを否定できるものを持たない」
「俺はジラフ、貴公の口から事実を聞きたい。俺にはその責任がある」
「責任?なんのことです、言ったでしょう、代償なく真実を知ろうなどと甘いのですよ
。口ではどうとでも言えるのです。私が行ったことをうのみにすれば、それであなたは満足なのですか」
「あの薬には、俺も無関係ではなくなった」
ジラフは虚をつかれて、言葉をとぎれさせた。
薬のことなどジラフの思念からは、なかば忘れられていた。あれこそささいな、末端の現象にすぎない。そんなところは本筋ではないのだ。
ジラフの表情に、それを読み取ったのだろう。ヒュンケルはゆっくりと続けた。
「俺は"真実"をしりたいなどと言ってはいない」
「……」
「そんなものは別段しりたくもない。だがあの薬の件は、正式にアバンからもゆだねられた。被害者にも会い、使者として応答もした。俺には責任がある、"事実"をしるべき責任が」
ある魔族によくにた風貌の男、魔界でしか生息しないはずの苔、けして一般的でない魔族の文字に独特の癖のある書体。
そのどれもがそう不自然でない理由がつけられていたが、それでは埋められない何かが、ヒュンケルの意識をちりちりと焼いていた。
「俺はたくさんの"真実"を見せられてきた。俺自身も信じていたいものがあった。けれどいまはそれが"ひとつ"でありえないことも知っている」
ただそれだけを知るのに15年もかかった。ぽつりとつぶやく声は、苦笑の混じったもので、およそ普段の自信に裏付けられたヒュンケルの言動ではなかった。
しかしつぎにその視線はジラフに向けられ、柔らかいものになった。
「この表紙にかかれた詞(ことば)は魔族の詞ではない」
ジラフは意外な面持ちでその言葉を聞いていた。この詞を表紙に書きつけたときの様子でザムザがこの詞を好んでいるのが感じられた。古い詞だと言っていた覚えがある。
ジラフは魔族のなかで言われる詞なのだろうと、自然に認識していた。
「……昔、この字に良く似た字体を書く男と、一度だけ話したことがある」
「……」
そのことは知っている。言葉に出すことなく、ジラフは内心つぶやいた。聞いたことがある。
「その時に俺が話した詞だ。俺は幼い頃に師事していた男に聞いた。その男は古い人間の信仰のなかのひとつの詩篇なのだと言っていた。あまり今となっては人間も知るものが少ない、古いものだと」
「この詞には主語がある。"彼はアルファでありオメガである"……"彼"とは人間の信仰する救いの主、"全能の神"だ。魔族に"救いの神"はいない。それを魔族は求めない。"神"は力であり、淘汰される連鎖の一部でしかないのが魔界だ」
だからこれは人間の詞なのだ。
ジラフは静かに息をつくと、書物にかけていた手を戻した。
「だから俺は、貴公の存在を偶然とはもう思えない」
『本能にのみ頼って、ただ猪突猛進と言うわけではないようだ』
『あなたは客観的に自分を見るだけの理性をお持ちの獣だ』
そうヒュンケルを評したのは自分ではなかったか、ジラフは笑った。
しらをきれば、繕えないわけではない。だがこの男には、そのうわべのなにかは意味をなさないのだと思った。ただ根幹だけを見つめる。
「……私はザムザであってザムザでない」
ジラフのオリーブ色のまなざしが、ヒュンケルをとらえた。強い意思の宿った目だ。
「昔……いまから50年近く前に、ある魔族の男が、一つの個体を作った。自分の遺伝子を元にしながら、魔族の因子を操作・排除したコピーを」
普通は能力を特化させることを目的に、生体操作が施される。現にその魔族も通常研究していたのは、戦闘能力を特化させる超生命体だった。
まさか能力を排除した"人間"をつくるなどとは想像しないだろう。
だが1体だけそれは作られた。
「必要だったのですよ、彼が自由に人間社会に接点をつくるために。始めはその男自身が人間に変身して用をたしていました。しかし、人間の時間の流れは速い。老いることの酷くゆるやかな魔族にはどうしても不自然さが出る」
魔法で姿を老いさせることはできる。だがそれまでだ。ほどよい頃合には"死"ななければならない。
そもそも魔法で姿を変えつづけることにも、リスクが伴う。どんなことで、正体がばれるかもしれないのだ。
人間社会だけで生活するわけにもいかない、その男の本来の居場所は別にあった。
「何のために」
「……想像はついているはずですよ。あなたはその男が何をしたか知っている」
「……実験体か……」
「生体サンプルとあの男は呼んでいましたが」
それが答えだった。
「"人間"も運んでいたのだな、貴様もか、ジラフ」
「私が<父>と世間で認識されていた人物から、商いを受け継いだのはもう30年以上前です。それからは私が『こちらがわ』での采配をもちました。あらゆるものを、それが何だと?」
「人は商品ではあるまい、だれも自ら同意しているはずもない。それを―――」
「罪だと?ヒュンケル、あなたが私を裁く?……私にとってそんなものはどうでもいいことです。魔族もだ。
魔族も人間も、訳のわからないまま殺しあいたいなら勝手にすればいい。いままでと同様に」
ヒュンケルは胸に焼けるような痛みを感じた。なんの外傷もなかったが、その痛みは現実だ。
短いながらも知ったジラフの周囲の人間との関わりを、ヒュンケルは思った。多分ジラフは誰とも共謀はしないだろう。ならばあの人間達は何も知らず、確かにジラフを信頼している。
残酷な現実だ。
「ただ利用しているだけか、すべては詭弁か? ただことを上手く運ぶための、余禄にすぎんのか」
ヒュンケルはうめくようにジラフを問い詰めた。
わずかにジラフのひるむ気配があることに、ヒュンケルはおどろいた。
「私は……あなたには理解できないでしょう……」
「何故去らなかった、ザムザが倒されたことはとうに知っているだろう」
「どこへ行けと、なぜ私が去らねばならないのです。私は……
1度も人間も魔族も憎んだことはない。自分を正当化するつもりもない」
欺くために便宜をはかったことなどない。あるべきものを、あるべき場所へ。それだけのことだ。それだけのことをジラフは楽しんでいた。それに余念をはさんだことはない。
願うことがあったとすれば、それは。
「私はここで生きている。私という歯車は、より多くの連鎖をしている、それは十分に利用されているはずです。人がいきるために。私を暴きたてようとするなら
私はあなたですら排除しますよ、ヒュンケル」
「なんのために」
「……つまらないことですよ。私にかかわる人間のために」
「代わる者が現れる。引き継ぐものが」
「いいえ、私は私ひとりです。そしてエナも無傷ではすまないでしょう」
「ハイマンが?ハイマンは知らないだろう……」
ハイマンはジラフの正体をしるまい。それはこれまでのいきさつで感じられることだ。
ヒュンケルはふいを打たれて、言葉を失った。
「まて……まて……」
ハイマンは。あれは。
「――― ハイマンの父親は誰だ」
一般的にはパプニカの外交使節であった騎士と、パプニカ・ベンガーナ双方の王族の血を引く女性とのあいだに生まれたとされている。
その騎士は魔族の襲撃で命を落としている。
ジラフの先代、ザムザの扮する商人の時代から、2人の援助者であったという。
ならば何故。
ザムザの庇護を得ている2人が何故襲われるのだ、魔族に。
ハイマンの母であった女性は、ハイマンに彼の父親が魔族だと告げた。それは……。
「誰だ」
するりとヒュンケルの手元から、書物が引きぬかれる。本を指先一つで固定していた気が、動揺のために乱れそれを可能にした。
ジラフはそっと指先で、表紙の文字をなぞった。
やがて来るべきもの。
ザムザにとってのものは、彼にしかわからない。今となっては知り得ることもない。
しかし、ジラフの望みはずっと明らかだった。
「言ったでしょう、つまらないことですよ。そのつまらないただ一つが私の望みなのです」
別になんの強制も、命令があったわけでもない。
それに自分自身がかかわることが必要ともおもわれない。ただ。
生きてくれと。
そうと知らずに、多くの悲願と、血の代償と、希望とを身に生まれてきた命に。
あるいはただ1人の家族といってもよいかもしれない存在に。
産声をあげた瞬間に、たしかに祝福を受けた子供に。
「お読みなさい。私はもう休みます、明日も早い」
「ジラフ!」
「……すべてがそこにあります。私はなにもかもを拒否しますが、この」
ジラフは手にしていた冊子を机の上に置くと、そっとヒュンケルの立つ方へ押しやった。
「この書きつけについてのみ、あらゆる許しをあたえます。好きにするがいい」
「……」
ジラフはそれ以上ヒュンケルの反応を見ることもなく、階段をあがっていった。
ヒュンケルもそれ以上引きとめようとも、問いただそうともしなかった。ただじっと視線はジラフを追い、閉ざされた扉すら射抜くようにしばらくはその無機物の上にあった。
ヒュンケルは鈍い痛みすら感じるような頭で、自分はしっかり立っていられたろうか、と漠然と思う。自分を揺さぶる暴力のような嵐に。
ふるえることなく、まっすぐに、立っていられたかと。
そして彼はひとりとりのこされた。
『私はアルファであり、オメガである。今いまし、昔いまし、
やがてくるべき者。』
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