不可視の海

8.  「おきれいなままでいて何が悪い」 (by アバン)


 
レオナは石造りの通路を駆けた。
中庭へと続く回廊、1週間ほど前にエナ・ハイマンを迎えた場所だ。
いくらおてんばだの、じゃじゃ馬だのと評されても、こんな風に城内を疾走するような事はそうそうはない。
緊急事態だけだ。
 
「フローラさま!」
 
視界が開けると同時に呼ばわった。
微かに苦笑しながらも、慈しむほほ笑みでレオナを見る表情が離れていてもわかる。
飛びつくようにそばへ駆けより、1歩の間隔を理性で止めた。
本当に1歩分の距離でフローラを見上げる。
 
「ようこそ」
 
息を押さえて笑顔を向けた。
優しい微笑のまま、フローラがレオナの両手をつつむように握った。
 
「しばらくね、ずいぶん綺麗になったわ。すこし背も伸びたかしら」
「ダイ君がもっと伸びていてくれるといいんですけど」
 
2人で笑いあう。
そうだこんな挨拶が私は好き。手の甲の口付けよりも、握ってくれる暖かな手が。
レオナはそこまで考えて、ダイがハイマンのようにうやうやしく手の甲に口付ける様子を想像した。
ありえない。ラーハルトかヒュンケルなら、あるいはやってくれるかもしれないけれど。
それでいい。
 
「でも、いったいどうして急に。共の方もこればかりで」
 
レオナは軽く首をかしげた。中庭に立つのはフローラと、騎士が2人、そして恐らくルーラで全員を移動したのだろう、賢者と魔法使いが1人づつ控えているだけだ。
仮にも1国の女王のともにしては、4人とは少ない。
フローラは少し眉を上げると、振りかえった。
 
「アーバーン」
 
その先にはアバンが酷くご満悦な表情で控えていた。
 
「いやぁ、やっぱり、久しぶりの再会は感動的ですよねぇ」
「私を呼んだことをワザといわなかったのね、アバン」
「アバン先生がフローラさまを」
「はい」
 
アバンはその場にいる面々を促し、城内へと向かった。
いつのまにかフローラの後に来ていたマリンが、従者たちを広間へ案内している。
3人は執務室へと向かった。
 
「少し考えていたより早いですが、これからのことでフローラ女王には来ていただいたのですよ」
 

*      *      *

 

ハイマンがなにを考えてか、書きつけとヒュンケルを残したまま立ち去ってしばらく、ヒュンケルは考えるようだったが、やがて月明かりの射す一角へと移動した。
水路を囲むレンガのふちに腰掛ける。
ヒュンケルは手にした本を開いた。
ぱらりと紙が空気をはらみ、自然に頁をめくる。そしてやや後半のページを開いて止まった。
ヒュンケルが意図したわけではない。
書いた者の意志がそこにはある。あるいはその文字を追った者の意志が。
何度も開かれてついた開き癖。
そこだけは魔族の文字ではなかった。人間の使う共通語だ。
もっとも卑怯な方法であなたのもとを去ることを許して欲しいとはいいません。
 
私の望む未来のために命を奪われた人達の、償いになると思っている訳ではありません。
それでもあるいはいくらかの慰めくらいにはなるのかもしれないとは思います。
あなたの胸が、わずかばかりでも痛んだなら、その痛みは「愛しい」というものです。覚えていてね。
 
私にできる、私達の奇跡を守るための、最後の選択。
ヒュンケルはそっとにじんだ文字を指でなでた。
この文字をにじませたものが、あの男の涙ならばいいのに、と酷く感傷的な気分になった。
酷く感傷的ではあるが、そう願う者が1人くらいいてもいいだろうとも思う。
ヒュンケルはそのページから逆にめくり、さかのぼるようにして読み始めた。
初めのあの書体が違う書き付け以外は、すべて魔族の文字だ。所々さらに古い、魔族でもあまり使われなくなった古代文字が混じる。
内容のほとんどは、実験や魔術の覚書や、アイディアを書きとめたもののようだが、所々にそれとは無関係に筆者自身のことを書いた部分がある。
小さく、測ったような文字。規則正しく、整列した文字はザムザの字によく似ていた。おそらく間違いはないだろう。
ヒュンケルは彼の、彼らの中に踏み出した。
 

*      *      *

 

アバンはフローラとレオナに椅子をすすめると、自分もその傍らに腰掛けた。
すでにテーブルには果物が用意されており、さわやかな香りのハーブティーも用意されていた。
頃合を見計らってアバン自身で用意したものだろう。
よくそんな余裕があると、レオナはいささか呆れるような気持ちで眺めた。
アバンの忙しさは実際のところ、レオナよりもひどいはずだ。
内政・外交・治安・再建……大まかに分けても優先時列はどれもおろそかに出来ない。
それぞれにレオナと三賢者が担当にあたっているものの、それらの采配やはまだアバンに頼る部分が大きい。
彼の才能ゆえでもあり、単純だが無視できない、アバンが大人という種類の人間であるということでもあった。苦労をかけていると思う。
例えばアバンが1人で処理してしまった方が、よっぽどスムーズにいくことがある。
大半はそうだと言っていい。
そうだとしてもアバンは戦争が終ってパプニカを訪れてから、どんなささいな採決も、彼自身が行うことはなかった。
ひどくもどかしく、労力を要し、くりかえさなくてはならない。
それでもアバンには明確なビジョンがある。それはけしてアバンの国をつくることではない。そこに生きるレオナ達が選ぶべきものだ。
だが突然に解き放たれた若者達のために、土壌はある程度耕してやらねばならい。
アバンはそういったバランスが上手くとれているという点では、たしかによい教育者であり指導者だった。
とても余裕などないはずなのに、いつもアバンはそんな危機感をいだかせはしなかった。
――― 上等のペテン師でもあるわ。
レオナはさわやかな甘酸っぱい香りのお茶に口をつけながら、アバンとフローラ改めて眺めた。
アバンが自らの手で作り上げるべき国はあると、レオナは思う。
アバンとフローラが。
だのにレオナは同時に、アバンが玉座に座る姿を想像できないでもいた。
たぶん幼い頃から憧れた『勇者』は、始めて出会った時の印象が拭いきれないのだろうと思う。
まるで飛ぶ人のようだ、と思ったのだ。
風のようにひらりと、なんの境界もどんな重荷も彼を捉えない、そんな自由で放埓で……ひとりぼっちの人。
神話に聞くような『勇者』の人物像とは違ったが、レオナはアバンに深い憧憬を持った。
けれど『勇者』も肉で出来た人だ。
たくさんのおとぎばなしのように、かの人にも行きつく先があるはずだった。
 
「少し予定を早めます。3年後、あるいはことによったら2年後にはレオナあなたを女王として公開します。その後援にはやはりフローラ様の力を借りることになりますから」
 
レオナは瞠目した。
 
「え?」
「あなたが正式に即位すれば、私はカールに帰るつもりでいます」
 
レオナが真っ先に思ったのは、なにかカールでアバンを必要とする事態が起こったのではないだろうかということだった。
しかしそれにしては2、3年という期間はけして短いというものではない。
当初のアバンがレオナ達に話した、復興と新体制にかける期間は5年。
それを長いと思うか、短いと思うか、正直なところレオナには初め判断が出来なかった。
だが実際に1年半ほどを過ぎて、それが妥当な期間であると思った。最善をつくしての時間だ。
拾えばひろうほど膨大で、多岐に渡る執務の数々。
それが1年か、あるいは2年近く短くなるかもしれないという。
 
「なにかあったのですか?カールで?」
「いいえ、私が呼び戻しているわけではないわ」
「まぁ、あったのはパプニカですね、あえて言えば」
「パプニカで?」
 
それこそレオナには訳がわからない。
 
「ハイマン殿を執政に迎えます」
 
レオナは口をあけたまま固まった。
隣りに腰掛けていたフローラが、苦笑とともに言葉を継いだ。
 
「思い付きじゃないのよ、当初から探していたの、アバンが抜けた後の人材は。エナ・ハイマン様のことは、その時すでにアバンに候補として聞いていました。正直私にはそれほど実現するとは思えなかったけれど」
「おじ様がそれを?」
 
そうだと私も楽でいいんですけどね〜、アバンは向かい側でお茶をすすりながらため息をついた。
 
「アポなしです」
 
アポなしって、そういう問題なのかしら。レオナはうろんげなまなざしをアバンに向けたが、当人にいっこう気にする様子はなかった。
 
「まあ、これから説得にはいるつもりではいるんですけどね。実際にお会いして、ますますその線は有力になりましたね」
「アポロが就くのだとおもってました」
「彼には内政をメインに、ハイマン殿には外交をね。2人で助け合ってもらいましょう」
 
内政と外交がくっきり切り離されることはない。当然2人は密にかかわることになる。これまでそれはアポロとマリンの役目だったが、レオナにはアポロとハイマンが仲良く語らう光景を想像できなかった。
 
「……それってなんかの罰ゲームですか、先生」
 
ハイマンがどういうかも計り知れなかったが、アポロの苦渋に満ちた顔が容易に思い浮かんだレオナは思わずアバンに聞き返した。
じつは先日アポロが某弟子をくさしたことを、根に持ったりしてるんだろうか。あり得ないと思いつつも、そう思いたくもなる。
 
「ハイマン殿が執政の役目を担えば、正式な即位をした上で新体制作りを進めることも可能です。彼はジラフ伯やクルテマッカ王との繋がりもつよく、広い情報網も持っています。パプニカの役に立つでしょう」
「おじさまにその気があればそうかも。でも無理強いはできないわ」
「もちろんです」
「私も聞きたかったの、なぜこれまで政治の場に出てこなかったハイマン様を。ここまで徹底しているのなら、彼自身が政務を望んでいないのでしょう?」
「何故ここまで望まれなかったのかは私にもわかりません。ただ、実際にお会いしてやはりあの方はこの国に必要な方なのだという……カンでしょうかね、そう思ったのですよ」
 
国の一大事にカンもないものだ、とはレオナもフローラも思わなかった。
それを言ったのがアバンだからだ。天才肌満面のようなアバンだが、その多くが理論的な判断と厳しい努力に基づくものだということを2人は知っていた。
アバンと本当に付き合うのならば、その言葉ヅラを真に受けていては話しにならない。
 
「タイガ王がいらした頃、ハイマン殿ともお会いしたことがあります。その時はそうは思いませんでした。フローラ様に候補としてお話しした時も、あくまで条件の適合性から挙げました。
しかしあの方は変わった。変わりつつあるというべきなのかもしれませんが」
 
それはレオナにも思いあたるところがあった。
レオナがハイマンと話しをしたのは、戦前には数えるほどしかなかった。
だがその頃の印象は酷くシニカルなばかりで、何につけ執着するようなものが無さそうな人だったように思う。
だが帰国したハイマンには"意欲"が感じられた。自分の周りへ目を向けようとする意志が感じられた。
それがどう言うわけかヒュンケルに興味をもったゆえだというのは、すぐに知れたが、それを差し引いても以前の彼とは違うように思えた。
この間もふとマリンと話しているのを見かけた。
けっこう話し込んでいるようなので、あとでマリンに聞いたら、豆料理のレシピの話しだというので目が点になった。
レオナはあまり好き嫌いがあるほうではないが、豆の料理が苦手だ。
――― ハイマン様も聞きながら時々眉間にシワがよってらしたんですけど。
あれは苦手なんじゃないかしら。マリンは思い出すように言った。
結局どういう興味で聞いていたのかはわからないが、以前のハイマンでは彼の方から三賢者のだれかに話しかけることなどありえなかったから、それはやはり変化なのだろう。
 
「たしかに、ヒュンケルと帰ってきたおじ様は少し雰囲気がかわったわ」
「ヒュンケル?」
「先生言ってなかったんですか?おじ様のところにヒュンケルはいたらしくて、パプニカを出てしばらく。今はジラフ伯のところで働いていて、おじ様の護衛で来てたんです」
 
もう数日前にベンガーナに戻ったんです。レオナはかるく首をかしげた。もう少し時期が早ければ、会えたんですけど。
 
「……そう彼が」
「フローラ様?」
「それでアバンはなんで私にヒミツにしてたの?」
「えっ、別に秘密なんてありませんよ。彼のことは直接関係ありませんから」
「そう?」
 
なんだか含みを持たせたような言葉尻に、フローラの揶揄するような目がアバンを見つめた。
アバンはといえば、軽く肩をすくめただけだ。
 
「姫いかがです、この話進めてみて構いませんか」
 
アバンはレオナに話を戻して、そっと問いかけた。
何故かいつになく心もとなげな影が、その表情にあるような気がしたからだ。
 
「レオナ、ためらう相手ではないのよ。気になることは言ってしまったほうがいいわ。ハイマン様が気になる?」
「……いえ」
 
言葉にするのをためらうような仕種はあったが、ハイマンのことがひっかかっているというわけでもなさそうだった。
フローラはアバンと目を見合わせたが、すぐにレオナへと視線をもどした。そっと手を握る。せかすでもなく、レオナが話そうとするのを待った。
 
「それは、お父様の死を肯定することだから……」
 
強い心をもっていたとしても、それは傷つかないということではない。どんなに明るい表情の人間でも、悲しいことをしらないでいることはできないのだ。
ただ、そう表されないと、つい見たとおりのままだと思いがちだ。
 
「そうね、それは政治ではしかたのないことだわ」
 
フローラはあまり感情をこめずに言った。冷たいようだが、それは必要なことだ。
肉親の情は時間に関係なく、その行方不明の人の死を本当の意味で実感することはないのだろう。時間は止まったままだ。
けれどそれは為政者の中では、少なくとも表面上は区切り突けるしかないことだった。世界は回りつづけ、時は流れ続ける。多くの人間の時間の一端を、彼女らは握る立場にいた。
いつまでもそこにとどまっていることは、その立場を捨てない限りできないことだ。
だが、それはまだ1人立ちしたばかりのレオナには、やはりつらいことだろう。
 
「先生、ヒュンケルならわかるのかしら……いつか、いつか言ってたでしょう?『ダイくんの魂が境界を越えた感覚はなかった』って言ってたって」
 
レオナは話しながら、今日はずいぶんヒュンケルのことが話題になるな、と頭のすみで思った。
アバンとフローラと自分と、ヒュンケルのことを話す場面があるとは。
 
「ヒュンケルはお父様を殺してないっていったわ、それは信じてる。でも死んでないとは言わなかった。……死んだともいってはいないけど」
 
たしかにそんなことをアバンはレオナに言った。またヒュンケルのその手の詰問にあう場面も承知している、一時ひんぱんにあったことだ。
別に失言したわけではない、レオナには特段隠し立てすることでもないからだ。
とはいえ、やはりヒュンケルのプライベートなことには違いない。
そしてあまり彼を特別視する要因にはしたくもない。
 
「それは……」
「それはね、レオナ。彼の痛みでもあるのよ」
 
口をひらきかけたアバンから言葉をフローラが継いだ。めずらしく驚いたような顔でアバンはレオナに語りかけるフローラを見た。
 
「ヒュンケルは見ることが出来るのだそうよ、あなたが察した通り、死に逝く魂を。でもそれだけなのよ。
言葉を伝えることも、なにかを聞き取ることも……もちろん引き止めることも出来ない。ただ」
 
――― 地上から天へと降り注ぐ雨をみるように
予想にたがわず続いたフローラの言葉に、アバンは胸を突かれた。ヒュンケルがもらしたそのつぶやくような、悔恨のような言葉を聞いたときとは少し異なるものだったが、それはアバンの奥を痛ませた。
 
「ただ見ることが出来る、ということは、実はとてもつらいものだから」
 
フローラにとっても共感できる感覚だったのだろう。その声色は切実なものだった。
子供達に託すばかりの歯噛みするような悔しさも、誰がそれを咎めないでいようと、女王である彼女には表にだすことの出来ないものだったろう。
アバンはなんでこんな風に胸が痛むのだろうと、フローラを見やった。
――― 魔王軍の総攻撃が始まって、しばらくすると雨が降り始めた。
あれは何の時だったろう、アバンとヒュンケルが珍しくふたりきりでいたときだった。
アバンに話しかけているのかあやしいと思うような、気の無いつぶやきで、ヒュンケルの視線は放たれた窓から、晴れた空を眺めていた。
――― こんな風によく晴れていた。地平線から空に向かって、音もなく無数の光りがまるで、
――― 地上から空に雨が降るように
彼らは地上を去っていった。人も魔族もモンスターも、飛び去る光りは同じ色をしていた。きっと天国も地獄もあるのなら同じ場所にあるのだろうな。そうつぶやくヒュンケルは、普段あまり無いことだったが、たしかに弱った気持ちをアバンの前に曝していた。
ヒュンケルがそういったものを感知する能力があることは、幼い彼をひきとってしばらくして知った。
その頃のヒュンケルは今のように感情を隠すことに慣れていなかった。
その見える資質が天性のものなのか、彼の育った環境にあるのかは判然としないが、今でも見えているということにアバンは痛むような、愛しいような気持ちを感じていた。
生まれてからすぐにモンスターに拾われ、地底で育ったためか、ヒュンケルの瞳は色素が薄く、もともとの銀眼とあいまって瞳孔のみがにじむように血色とも紫煙ともつかない色があるばかりの、色のない目をしていた。
そしてその見た目の印象にたがわず、ヒュンケルの視力はあまりよくなかった。光りへの耐性が弱いうえ、地底城という限られた環境の彼はかなり近視ぎみで、すこし離れたものを認識しようとするとかなり目つきが悪くなる。
だがそれをすぐには気づかせない、ヒュンケルの行動の正確さは"気"を見ることができるせいなのだと知って、アバンは酷く驚いた。
なんのアイテムも介さない、通常の"気"を視覚的に感じることができる者は少ない。
感覚的に感じるものを恐らく脳内で、視覚として認識するように判断されているのだろうが、"気"をあやつる者のなかでもそこまでのものはあまりいない。
戦士として別に必要のない能力でもある。
むしろそういった能力を貴重として受け止められるのは、僧侶や神官、占い師といった職業の場合だ。
もちろんそういった職業の者のなかでも、そこまでの資質はあまり多くなく、必須というわけでもない。
そうして2人で時間を共有していくうちに、アバンは彼の資質がけして戦士むきではないことに気づかされた。
だがそれをアバンの口から告げることはできなかった。これ以上彼のおさない矜持を踏み荒らしたくはなかったし、アバンの言葉を聞き入れるような状態でもなかった。
できれば自分から気付くことがよいことだったが、アバンの思惑や根回しなどを気づくこともなく、その意思の強固さで戦士という職業を維持した。
それが腕でいうならアバンの上をいってしまうのだから、もうアバンには何とも言い難かった。
 
「アバン?」
 
いつのまにかフローラとレオナの会話は終っていて、アバンはフローラの呼び声に我に返った。
どうしてフローラは。それは判りきったことだった。ヒュンケルが自ら話す以外に知る方法など他にはない。
 
「……そうですね、レオナあなたが知りたいと思うのなら、あるいはヒュンケルはその答えを知っているかもしれません」
 
お前が殺したのではないのか、そうヒュンケルに問う者は今までもいた。
それがただ彼をなじりたいだけの言葉のなら、ヒュンケルはいつものだんまりを変えなかったし、本当にその答えを知りたいと思われる問いには「否」と返していたが、それ以上を自ら語ることはなかった。
ならば彼が殺したのではないのは、本当なのだろう。
だがレオナは父は死んだのか、と問うたことはない。ヒュンケルの見る資質を知らずとも、それに答えが出ることをずっと怖れていたのだろう。
 
「……どうしてこんな風に」
 
レオナはつぶやくと胸元を握り締めた。
 
「悲しくて、苦しいことばかりなのに」
 
いったい誰が戦いの中で喜びを得たというのだろう。奪われるものも、奪うものも傷つき、悶えてただ苦しいばかりなのに。
胸に通り過ぎる哀惜ばかりが、レオナを埋め尽くして彼女はそれ以上を言葉にすることは出来なかった。
いつも心にあるのは、どうして、というせつない思いばかりなのだ。
誰も答えることなど出来ない問いが、ただ消え去ることなく胸に巣食う。この問いこそが、いつかヒュンケルに、略奪者であった彼に問いたいことだった。
そしてヒュンケルもその言葉に苦しんでも、明確な答えなどだせないだろう。
そっと抱きとめられるままに、フローラの腕に身体を預けた。
 
「もうすこしだけ、このままで。……お父さまと一緒にこの国をつくりたい」
 
きっとちゃんと胸を張って、さよならを言える日は遠くはないから。
もうすこしだけ、側にいて。
 

*      *      *

 

ヒュンケルはゆっくりと、街の喧騒からすこしはなれた丘陵にあるジラフ伯の別宅へと向かった。
ハイマンがパプニカに帰国しても、ヒュンケルはかわらずにそこで寝起きしていた。
もっとも護衛の仕事の合間の数日をすごすばかりとなっている。
たそがれの柿色の雲がたなびいて、周囲のすべてをほんのりそめているのを眺めた。
ヒュンケルは酷くさざめく感情を、そっとなだめるのに苦労していた。
嫌悪ともまた遠い、なにか虚ろなものが彼の気持ちを支配しようとするのを、それが悲しみを呼び起こさないように。
覚えのありすぎる、暗い闇を彼の中から引っ張り出すことのないように。
なにかが終ろうとしている。
漠然とヒュンケルが感じるのは、その得体のしれない終焉がたぶん自分自身の何かなのだろうということだ。
けれどそれが何かは判じかねた。
屋敷へと足をふみこむと、執事がヒュンケルを出迎えた。
ハイマンの帰国に合わせて、使用人も何名かはパプニカへ渡ったが、この初老の執事はふだんあまり頻繁に利用するでもない本来の主……ジラフ伯にかわって、この屋敷をとりしきっていた。
執事の促すままにマントを預ける。
ヒュンケルは特段1人での生活に苦を感じるタイプではないし、生活能力が乏しいわけでもなかったが、人にかしずかれることに慣れていない人間でもなかった。
 
「お客様がお待ちです」
「客?俺にか」
「はい」
 
ジラフ伯からの使者が今のヒュンケルを訪れる人物のほとんどだった。だが先の今で、ジラフ伯が何かをよこすはずもないし、それならば執事は客とは呼ばない。
いぶかしみながらもヒュンケルは居間へ向かった。
アバンから例のことで何かの伝令でも来たのか。
 
だがすぐにヒュンケルは思わぬ来訪に驚かされることになった。
 

*      *      *

 

「ああ、いつか来るだろうとは思っていた」
 
ハイマンは興味もなさげな声でアバンに答えた。
帰国して以来使用している部屋に、今は2人きり、そのソファーにこしかけて向き合っていた。
だらりと肘をついて、のけぞるほどに深く1人がけのソファーに身を沈めていたハイマンのありようは、とても人と会話をするような姿勢ではなかったが、アバンは特に気にとめる様子もなかった。
しかし、そのハイマンの発言にはいささか思うところがあったらしく、気持ち眼を見開いたが、すぐにもとの表情をとりもどした。
 
「そうですか、それは話しが早い」
「で、お前は身を引くということか」
「すぐに、という訳ではありませんが、近い将来には。あなたがその気ならば」
「おおいにその気だ」
 
ますますアバンにとっては願ってもない状況だ。まさかハイマンがこれほどあっさりとやる気を示すようなことがあろうとは。ぜったいにごねると思っていた。もう、それは予測というよりも、確信に近い状況で。
 
「……僭越だとは思いますが、何故いままで頑なにパプニカに関わらずにおられたのですか」
「全く僭越だな。私が今までもこれからもパプニカに関わるまいと、お前如きの口出しすることではない」
「……これからも?」
「これからも」
 
アバンは軽い眩暈すら感じるような気がした。そんな都合よく運ぶはずはないとは思っていたのだ。
ハイマンはアバンの来訪の意味をどう言うふうにか取り違えている。
 
「意思の疎通がかみあっていないようですね……あなたは私が何故ここへ来たと」
「なにをかまととぶっているんだ。ヒュンケルだろうが」
「……」
 
深いためいきをついたのは、失礼ではあったかもしれないが責められることではないだろう。
アバンは心の内側で罵倒した。どうしてヒュンケルのことで、身を引くだのという単語が出てくるのだ。
ふいにハイマンがのけぞって笑い出した。
遠慮もなにもない、あけすけで普段の挙動には似合わず、いっそ下品なほどの笑い方だ。
こんな笑い方をするのか、とアバンは表情を変えないままハイマンを見つめた。
 
「なるほど、そうか……私に政治をやらせたいのか。あの小娘の下僕にしたいのだな。ケッサクだ」
 
今までのやり取りを反芻し、アバンの本来の意図を察したのだろうか。笑いの合間から息も絶え絶えな声が届いた。
本当に察しのいい男だ。機転もはやい。
 
「下僕ではありませんよ、パプニカではそういった風土はありません」
「白々しい男だ。ならば私を王にでもするか。ありえまい。そんな正論で、ヒュンケルをこれまで縛ってきたのか」
 
アバンはわずかに眉を寄せた。先ほどからなぜこうもヒュンケルの名が出るのか。
 
「いったい私が何を……」
「ヒュンケルは私のものだ、手を出すな、といいに来たのかと思った」
「……あの子は弟子ですが私の所有物ではありません」
「私の男だ、と」
「馬鹿な!」
 
顔がこわばるのが自分でもわかった。アバンは平坦な声でハイマンをさえぎった。
しばらく冷淡なまなざしで見つめていたハイマンは、手をあごの下で組み、やや上目加減でにやりと笑った。
 
「……アバン、おまえ、私が到着した時に中庭まで来ていたろう」
「……」
 
2人きりの部屋だというのに、ハイマンはまるでだれかに聞かれでもするかのように声を潜めてささやいた。
 
「今のように化け物でも見るような顔をして、立ち去ったろう……かわいらしいな」
「なんのことです」
「まさか、稀代の天才勇者どのが、こんな簡単なことに気付かない?それとも気付きたくない?」
「……私はただの人間ですよ」
「ならば『嫉妬』もするだろう」
 
ハイマンはゆっくり立ち上がると、アバンの掛けるソファの背後に回って両肩に手をおくと、耳元に口を近づけた。
 
「そんなことも認められないなら、お前は負けだよ、さっきの台詞どおり『身を引』け。そのまま知らないふりのいい子ちゃんでいろ」
「身を引くもなにも、あの子は……」
「あの子!あの子!……あれもいい年だろう、もう子供じゃない」
 
殺した声のまま、ハイマンから笑いが漏れて、アバンは思わず赤面した。
アバンにとってヒュンケルは複雑な心情をいだかせる『子供』だった。あまりにも強烈に印象をのこしたまま別れ、次ぎに出会った時には姿も声もまるで記憶と重なるものはなかった。ただその強いまなざしが。
ヒュンケルであることを疑ったことなどなかったが、ときどきアバンの中で彼の定義は曖昧になった。
 
「……子供でなくなっても、私の教え子であることには変わりません。たとえ彼が私を師とも思っていないとしても」
「……」
「誰からであろうと、あの子を損なうものがあれば、力の限り守ります。あの子を」
 
――― たとえそれが、私自身であったとしても。
その言葉はアバンの胸中だけで言葉になった。それは口に出す必要のないことだ。
 
「どうやら私はばい菌扱いらしいな」
 
ふふんと、鼻を鳴らして笑った空気が耳たぶに当たって、その不快さにアバンは眉を寄せた。
 
「アバンおまえ女を抱いたことがあるか」
「……お答えしかねます」
「じゃあ、男に抱かれたことは」
「論旨が解りかねます」
「なんだ、その年でまだ童貞か」
 
余計な世話だ、とアバンは心のなかだけで悪態をついた。ふと、同性とだけ関係を持った場合は童貞のままということなのかな、とどうでもいいことを考えた。いいかげんにこの不毛な会話に嫌気がさして投げやりになってきていたのだろう。
本来の話からはあまりにかけ離れて、これからの修正も望めそうにない。
そしてこれ以上ヒュンケルとの関係をあらぬ言葉で汚されたくもなかった。
不本意なかたちだが、アバンの意図はハイマンにも伝わっているのだし、しきりなおした方がいいだろう。
アバンはするりとハイマンの手を抜けて立ちあがった。
 
「そうやって煙にまくのも結構ですが、しばらく考えてください。このパプニカの未来について、あなた自身の将来について」
「本質的な話題じゃないか。しかしどこまでもおきれいで、優等生。つまらん男だな。私が抱いてやろうか、ちょっとは世界が開けるかもしれんぞ」
 
振り向いたアバンは変わらず笑みを口元に刷いていたが、わずかに細めたまなざしは確実に数度温度をさけげていた。
 
「……おきれいで何が悪い。たわむれに意味のない快楽の何が私を変えると?侮っていただいては困りますね。あなたのくだらない恋愛ごっこの相手をするには、私は向いていませんよ」
 
もうアバンは返答を聞くことなくドアへ向かった。
 
「愛しているよ、彼を」
 
思わずノブを持ったまま動きを止めた。この部屋に入ってはじめて、ハイマンの言葉にアバンは引きとめられた。
これまであれほどにヒュンケルの名を連呼していた男が、「彼」とささやく声は打って変わって真摯に響いた。
 
「お前が『意味のない快楽』と切り捨てるものを彼はさげすみはしなかった。そして少なくとも私は変えられることを怖れはしないぞ。あれ以上に欲しいものは私にはないのだ―――」
 
最後までハイマンの言葉を聞いてはいなかった。アバンは囁く声に追われるように部屋を後にしたが、最後に掠めた言葉は、聞くまいとしたアバンを打ちのめした。
――― アバン、お前はあの男の熱を知らない
記憶に残る、ハイマンを見るヒュンケルの目が脳裏に閃いた。
そこには許容があらわれているように思えた。存在を受け入れたなら、自分以外には甘いヒュンケルは、いったいどこまでハイマンが立ち入るのを許したろうか。
 
もしかしたら、私よりずっと近いところにあの男はいるのかもしれない。
 

 

 
アバンが立ち去ったあともしばらくハイマンは、ドアを見つめていた。
――― たとえ彼が私を師とも思っていないとしても
いつもの皮肉な笑みも、享楽的な雰囲気も感じさせない静かな表情が、その線の細い顔を覆っていた。
 
「忌々しい男だ」
 
無意識にか、承知のうえでそらとぼけているのかは判らない。
少なくともその言葉が他意はないのは本当だろう。
そして師弟という枠をすでに逸脱しているのは、ヒュンケルの方であることもその言葉通りだ。
ヒュンケルとアバンの関わりを聞いて初めに思ったのは、15年ものあいだ1人の人間を憎みつづけるのはどんなものなのだろうか、ということだった。
そしてハイマンの想像通りならば、きっとヒュンケルは同じだけの長さをアバンに憧れを擁いていたのではないか、ということだ。
全身全霊の憎悪と、幼い心に殺された愛情と。
死と愛と。
暗黒にたれた光明。
かつてハイマンはヒュンケルに『思い浮かべると冷静でいられなくなる相手』はいないのかと、問うたことがある。
その質問はヒュンケルに正確に理解されていたとは思えない。
だが10年ぶりくらいに見たアバンという男を見て、そして2人の位置を聞いて、もしそんな相手をヒュンケルがもつならばこの男だと思った。
青っ白いやせて勤勉そうな、とても勇者らしく見えなかった少年は、年を経て随分と老獪で美しい存在になった。
美しいといっても醜美のそれではない。しろく静かに高温で燃える炎のような、力を湛えた美しさだ。
深い絶望の淵にある闇に属する……あるいはより闇に近しい自分やヒュンケルのような存在には、それがどれほど魅力的にうつるか。それは自身で判り過ぎるほどにわかる。
ハイマンもかつて、タイガ王がそんな風に見えた。
ただその清廉な炎を見たときに抱くのは怖れだった。暴かれるという怖れ。
それは自分の出自を知る前から、本能のようにハイマンの中にあった。
だがおそらくヒュンケルは違う。
 
たとえヒュンケルの自覚し得ない望みが、アバンにあるのだとしても、それがヒュンケルの幸福なのだとしても、ハイマンは譲るつもりなどなかった。
ならば、おさえるならアバンのほうだ。
結局は自分の心に忠実なヒュンケルは、元々人間の規範からは少々逸脱した感覚の持ち主だ。アバンの心さえ知れば、ヒュンケルはすべてを捨てることもいとわないだろう。
だがアバンは判り過ぎるほどに、人の思惑を知っている。
彼が勇者と名をはせた初めの戦いのあと、姿を隠したことからもそれは伺えた。
アバンならば、たとえ彼がヒュンケルを自分で認めている以上に思っていたとしても、それをたとえ自覚したとしても、彼を留めるだろう。
ヒュンケルを守るために、気付かないふりをするだろう。
レオナに言った言葉は本当だ、あれと自分はある意味よく似ている。
見えるばかりに臆病な人間。
――― だが私は変わる。
だからこそ釘をさしたのだ。あれはもう、私のものだ、と。
才能も名誉も、多くの尊敬も、愛情のあらゆるものも、あれだけ与えられている人間がどれほどいる?
ならばたったひとつの愛情くらい、このなにもない男にくれてやってもいいだろう?
 
「たったひとつくらい奪わないでくれ」
 
立ち去った男に届くはずのない声を。
母親が死んでからはじめて、ハイマンは自分以外の何かに祈った。

 

 

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