不可視の海

9.  「どんな人間にも理屈で終らないものがあるのよ」 (by フローラ)


 
執務室の所定の机ではんこ押しをしながら、アバンはガラにもなく深いため息をついた。
――― つ、疲れた〜
別にはんこ押しに疲れたわけではない。よくよくみれば書類は誤字脱字が細身の赤いインク文字でチェックされている。
もちろん書類の判定と決裁に、そこまでは必要ない。
どうしても気になるのなら、申請者に指摘して書き直させるほうが妥当なのだ。
だがむしろアバンはこれをやらないほうが気になるのである。
呼び出すほどでもないが、そのまま通してしまうのにも抵抗がある、その教師根性は見上げたものだ。
だがそれが疲れの原因でもない。
ここしばらく怒涛のように次ぎから次ぎへとアバンに襲いかかった波のせいである。
振り返って見ればわずかに7日間ほどの間に、よくもまあというのが今のアバンの本音だ。
 
「アバン先生、お疲れですねー」
「まだまだ修行が足らないようで」
 
斜め向かいでやはり書類と挌闘していたレオナが声をかけた。
昨晩にアバンはハイマンに執政職への勧誘に行くといっていたが、その不成果は朝食のアバンをみれば一目瞭然だった。
やっぱり、というのがレオナの感想で、まだちょっと早かったかな〜というのがアバンの反省だった。
とはいえこう言うことは勢いでもある。
帰国して日を置いて、国民にまたいままでのようなイメージを思い起こさせてからと言うのも上手くないからだ。
人手ならこの際だれでも歓迎、という状況で1枚噛ませてしまうのがいい。あとは既成事実でどうにでもなる。ハイマンさえやる気になれば無能の人ではない。
それがただの抵抗ではない。アバンにはまったく不本意なことに、どう言うわけかハイマンはアバンを恋敵として見ているようだ。
ハイマンを変えつつある要因がヒュンケルならば、それに難関を設けているのもヒュンケルでアバンにして見れば、誉めていいのか呪っていいのか判断に苦しむところだ。
ヒュンケルはいったいどう思っているのだろう。ハイマンが仄めかすように深い関係を持っているのだろうか。
ハイマンも言うとおり、ヒュンケルとてもう子供ではない。
彼自身がのぞむなら、アバンは口出しするべくもない……そう思いもするが、やはりわんばくでもいい健全にそだってほしい、というのが親の願いというものではないだろうか。
ヒュンケルがそのアバンの逡巡を知ることができたら、反抗期がぶりかえしそうなことをぐるぐる考えて、よく眠れもしない日が続いたために人類に敵無しをうたうアバンも流石に疲れていた。
本当はアバン自身もわかってはいるのだ。根本的な部分を見ないままに出口をさがそうとするからこんなに疲れるというのは。
だが明かさない方がいい問題というのは確かにある、とアバンは思っている。
 
「おじ様がめずらしく朝食をみんなと取るとおもったら。アバン先生のダメージを見たかったのね」
「はははは……」
 
本当にたまにどこまで察しているのかという一言を、この少女は投げかける。
だがアバンはこの手の人物には慣れている。実はそれほど判っているわけではないのだ。なにしろ自分もそうなのだから。
ただカンはいいのも確かだ。できればこんな内容には介入しないでほしい、情けなさ過ぎる。
もう一度魂のぬけるようなため息をつくと、レオナがまた笑っている。
そんな時にノックとともにエイミが執務室に入ってきた。
 
「姫様、アバン様そろそろお休みにして夕食にしませんか」
 
街の巡回のかえりなのだろう、マントと肘あてもそのままの姿だ。
エイミの声に外を見ると、もう透き通ったオレンジの空が夜の紺色を滲ませていた。
結局今日は1日室内で終わってしまうな、とアバンは伸びをした。
午前中にはフローラと意見交換をし、今後の流れの打合せを大まかにした。そのあとは通常の庶務に追われた。
先に出ようとするエイミをアバンは引きとめた。たしか昼過ぎに分れたあと、フローラはアポロとマリンとに相談を受けていて、その後は部屋で休んでいるはずだ。
 
「城門まで出ていらっしゃるというので、従者の方からは先にいただいているようにいいつかってます。私とマリンでお待ちしていますから、アバン様たちは先にどうぞ」
「城門?」
「……よくわからないんですけど、お客様らしいんです」
 
レオナの問いかけに、エイミもおずおずと答えた。
別にかまうことではないが、なんだか変だな。レオナとアバンは顔を見合わせた。
親しい間柄とはいえ、フローラがパプニカの客人だ。今回はお忍びで、滞在も明日にはカールへ戻る予定だ。
こんなタイトな状況で、フローラのもとを訪ねる客人がパプニカに来るとは。
フローラが呼んだということなのだろうが、そんな急な用件などあったろうか。
 
「まあ、そんなに急がなくても、せっかくだし、そのお客様も一緒に夕食にしましょうよ」
 
レオナが小首をかしげて提案した。エイミに従者が返答するのだから、秘密のお客というわけでもないのだろう。
 
「散歩がてらお迎えにまいりましょうか」
 
やだ散歩がてらなんて、先生おじさんくさい〜、と笑うレオナに「おじさんだもーん」と返しながら連れ立って外へ出た。
陽が短くなってきたなぁ、と涼しくなってきた風にほっと息をつく。
パプニカはそれほど寒暖の差がない国だが、それでも季節の変わり目を感じるものはある。木々の葉が落ちたり、花の色合いが変わったり、夜の時間が長くなったりということだ。2度目のパプニカでの冬が来ようとしている。
城門が視界に入ってくるが、そこには人影はない。開門中は警備の兵がつくのだが、今日は特になにも予定が入っていなかったのだろう、すでに内門も外も閉められて、衛兵は控えの小屋にいるだけのようだ。
ふと見上げてその城壁に見なれた姿を見つけた。
1週間ほどまえに、アバン自身が雨の中での来訪を眺めていたあたりにフローラが立っている。
暮れかけた空はいくぶん視界を悪くしていたが、見えないほどではない。もう少し近づけばレオナもエイミもはっきり見えるだろう。
だがアバンはその場に立ち止まりそうになって、歩調を乱した。レオナが投げる視線に軽く笑い返して歩いたが、その笑みがこわばっていなかったろうかと頭の片隅で思った。
 
「あれ?」
 
レオナが立ち止まり、エイミも驚いた顔をしている。これくらいの距離ならば、まだ城壁のフローラたちは気付いていないかもしれないが、こちらからは2人の姿が判別できた。
フローラに寄り添うように立つ影、そして語らう雰囲気がどこか立ち入りにくさを感じさせる。
そして。
 
「うそ、どうして」
 
それがレオナかエイミのどちらの声かは、意識に残らなかった。
寄り添っていたふたつの影が、さらに距離を縮めて重なった。数拍遅れて、身を返して駆け戻るエイミの気配を横に感じながら、アバンはただ固まったようにその光景を眺めた。
抱擁とキス。精悍な騎士とたおやかな姫君。
まるで物語りの美しいエンディングのような光景だ。
動けないままにヒュンケルとフローラの姿を眺めながら、止まった思考のすみで暢気に考えている自分にアバンは反吐がでそうだ、と自嘲した。

 

 
「どうして」
 
やわらかな唇でいましめられていた最初の言葉は、結局疑問だった。
 
「わからない?なんでこんなことをするか?」
「そうじゃない、目的はわかっていると思う。……だがあなたの意図がわからない」
「そうかしら、なんの目的だと思うの」
 
ヒュンケルは珍しく言葉を迷うように視線を外すと、それでもぼそりと、あてつけ、とだけ答えた。
フローラがそんな様子に吹き出すように笑った。
 
「何故俺なんだ」
「……あなたが憎たらしいから、っていったら納得する?」
 
身体を寄せたまま、呼吸が触れ合うような距離で笑うフローラにヒュンケルは困ったようにみじろいだ。
 
「それは疑わないが、それでも……」
「私らしく無いっていいたいのね、こんな手段は」
 
"らしい" かどうかなど、ヒュンケルに分らない。
ヒュンケルにとってフローラはやはり、アバンというカテゴリーに属する存在としての認識に今もある。
この混乱期さえすぎればもう阻むものはない。二人は一緒になるのだろうという、周囲の予想は妥当だとも思っていた。
ヒュンケルはこの女性が嫌いではない。たぶん好きなほうだ、と15年前にはじめてあった時から思っていた。
だがすぐにこの女性は俺を憎むだろう。
それも確信だった。自分はアバンを殺す、この女性はアバンを愛している。
ヒュンケルにとっての美しさは、その魂の輝きのうつくしさが大きな比重を占める。
正直なところ、人間の一般的な美醜基準はあまりあてはまらない。
どんな姿でも、その命の炎のいろだけは変えられないからだ。
フローラの姿は美しかった。
澄んだ湖畔のように、うつくしい波紋を描く湖面がきらきらと光る。その反射する光の根源は彼女自身の白い炎だった。
年月を重ねた今も、フローラは変わらず美しかった。
ただ燃えあがってきらきらしていた炎は、まろい灯火のようになっていた。
それにふれると、「いとしい」ような気持ちが湧いてくるのを、ヒュンケルは不思議に思いながら、フローラを抱きとめていた。
 
「……たぶんこういう場合、清々したような気分になるんじゃないのか」
「そう、見えない?」
「……痛そうに見える」
 
フローラはアバンの肩にもたれると、深いため息をついた。
 
「ほんとうに、ざまあみろ、って気持ちもあるのよ。けれど……未練ね」
 
未練というなら、フローラはアバンの何を手放そうというのだろう。
ヒュンケルは判じかねてただフローラの言葉を待った。
 
「もう待つのはおしまいにするの。結婚するわ」
「……誰と」
「アバンではない誰かと、かしら」
 
ヒュンケルの眉がわずかにはねあがって、めずらしく顔には驚きが表れていた。
 
「なぜ今更」
 
たしかにアバンがこれまでフローラの手を取る機会がありながら、そうしなかったことはヒュンケルにも察せられている。
けれどそれは二人が使命に忠実すぎるほどに真摯だったからだ、と思っていた。
だが今となってはその使命もすべてをささげねばならないほどの、逼迫した時はすぎたはずだ。何故今になって。
 
「私がただ好きな人と一緒にいるだけで幸せを感じられる人間ならよかった」
 
フローラは笑った。
使命だから、じゃないわ。私はそうある自分に充足を得られるのよ。
けして愛する人間のためだけに生きられる人を否定するわけではないの。ただ、私は駄目だった。
 
「アバンが好きよ。今でも好きだわ。でも女王を彼のために辞めることはできないのよ」
 
フローラはすっとヒュンケルから一歩下がると、まっすぐに立った。
それまでまろい灯りのような輝きが、昔の記憶のままに、アバンとも似通った白に輝くように見えた。
 
「ずっと彼が欲しかった。いつか女王である自分を失うことなく、彼も得たかった。……たとえ彼の性情が女性に向けられることが難しいとしても、私は特別だったわ。違う?」
 
――― あなたは気付かなかった?
ヒュンケルは呆然とフローラを見た。そして苦い水を飲みこんだような顔になった。
 
「そんなことがどうして」
「ずっと前にアバン自身に打ち明けられたわ、幸せになってほしいからこんなロクデモない男を好きになっちゃだめだって。馬鹿ね、そんなの打ち明けた時点で手遅れなのに」
 
ほんとに私に幸せになって欲しいなら、誰かに私の幸福をゆだねるのではなくて、彼が変わるべきじゃなくて?
ますます憮然とした表情が表れた、珍しいヒュンケルに、察したフローラが笑った。ほんと師弟そろってどうしようもない甲斐性なしね。
身に覚えがあるのだろう、反論はなかった。
 
「それでも私はアバンにとっても例外だったと思うのは、けしてうぬぼれではないと思うけれど。
「もう待てないわ、女は現実に生きてるのよ、男みたいに夢ばかりにうつつを抜かすほどバカじゃないの」
 
だからこれは私からアバンへの最後のラブレターよ。パンチがきいてるでしょう?
これで私を選べないなら、ひとつの終りをあなたに告げましょう。
 
「ねぇ、ヒュンケル。アバンは私とあなたと、どちらを殴ってやりたいと思ったかしら」
 

 
城壁をひとり下って城への道を見ると、すでにそこにはアバンの姿はなかった。
視界の先では、レオナが立ち止まったままの位置で、フローラを見ていた。
フローラは背中にヒュンケルの視線を感じながら、小さな後悔にも似たうしろめたさを一瞬感じた。
饒舌に打ち明ける自分を、ヒュンケルはただ静かに受け止めていた。
誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。今になってやっとフローラはそう思い立った。
吐き出してしまいたい思いは、胸に秘めておくべきものだ。誰のためにも、自分自身のためにも言ったところでどうにもならない。
諦めたくなどないと叫んだところで、心ばかりはどうにもならない。
どんな駆け引きも茶番でしかないのだろう。
――― それでも理屈では終われないのよ。
物分りのいい女で終わりたくない、私の刃であなたに傷をのこして。
レオナの口からヒュンケルのことを聞いたときに、その時がきたのだ、と思った。
従者をベンガーナのヒュンケルのもとへ送って、彼を招いたのだ。そしてフローラの求めに応じてヒュンケルは来た。彼も何かを感じていたのかもしれない。
16年前に初めてヒュンケルとであった時の怖れを、フローラは忘れられなかった。
全身全霊。
その言葉をはじめて実感した。それは恋のような甘いものではなかったけれど。
それだけにフローラは居たたまれなかった。
――― 女王でなければ。
――― 私だって誰よりも彼を。
それが本音ではないことは、自分でも解っていた。
すべてをアバンだけに注ぐことは、自分にはできない。
そしてそんな自分を否定する気持ちもないのだ。そんな狭義な世界に生きるつもりはない、もっと広い場所で、たくさんの世界を感じて生きる、そのパートナーが欲しいのだ。アバンに片翼を負って欲しい。
けれどアバンはきっとこの目に夢中になるだろう。愛や恋でなくても。彼だけを見つめ、彼のために呼吸し、彼を殺すことだけに存在の意義を求める小さな子供に。
それが予想できるから、自分とはまるで違うヒュンケルを怖れた。
予想通りアバンはすぐに、『弟子』に夢中になった。
カール王国の最低限の復興に携わった後は『弟子』だけをつれて彼は去った。
ときおり立ち寄る時の話題も、自然に育成のはなしが増えた。
次ぎにフローラの元に帰ってきたアバンは、ズタボロだった。あれほど困難な魔王討伐の日々にも見せなかったほどの憔悴が、彼を覆っていた。
『ヒュンケルを殺してしまった』
涙は流してはいなかった、それがむしろフローラには恐かった。アバンは本当に壊れてしまうのではないか。表面が凪いでいるほどにその危惧はつきまとった。
彼を抱きしめて眠った。
そんなことを許してしまうほどに、アバンは傷ついていた。
フローラは抱きしめながら、最後にすがってきた場所が自分のところであったことに満足と、そしてそれほどの深い傷をアバンに刻んだヒュンケルへの羨望を感じていた。
アバンが再び目覚め、旅立ってゆくまでのその時期は、フローラにとって一番幸福な時だったかもしれない。
あの時にもっと深く、肉体的にも、世間的にも結びついていれば、いまこんな風にアバンを手放さずにすんだのかもしれない。
しかしあの頃の自分は何より傷ついたアバンを守りたかった。精神の結びつきがすべてを凌駕すると確信していた。
結局は自分もアバンも、独りで立つことに慣れすぎた人間だと知ることになったのだ。
10年以上経って死んだはずの子供に戦場で再びめぐり合った時、それが成長という変身をとげて、さらに憎しみとその暗黒を光りへと昇華させる、その輝きを目の当たりして思い知った。
変れない自分と、変ってゆく子供と。
変りつつある自分の思いと、変わることない青年の思いが。
たしかにすべてを終わりへと導くのだ。このいびつな円を。
 
城壁を降りる前にヒュンケルの頬に、フローラはのびあがってひとつキスをした。
何の策謀も、秘めた意図も、アバンとも無関係の彼をいたわる小さなしるし。
アバンを間にはさんで、それぞれが屈折した像を見つめていなければ、もっと違う出会いでいたら、自分はこの不器用で真摯な子供を愛したかもしれない。
それでもアバンがいなければ、出会うこともなかったのだろう。
ヒュンケルが立ち去る背中を見たくなくて、フローラは言葉を待たずに背を向けた。
今歩み去るヒュンケルを見れば、置き去りにされるような喪失感を覚えずにはいられないだろうと思った。
彼の反論はいつか聞こう。
その時は笑って彼らを抱きしめられたらいい。
 
たちすくむレオナの側まで来ると、混乱と悲しみとがないまぜになった目がフローラを見つめた。
自分はこの少女のことも裏切ってしまったかもしれない、とフローラは思った。それでもいつかはこの少女にも話せるかもしれない。あなたのおかげで私は変れたのよ。
今はまだ話せないけれど。
だからあなたの思いは、どうか通じ合えますように。
万感をこめてフローラは微笑んだ。
 

*      *      *

 

ハイマンは一瞬ぽかんと見上げると、次には盛大に吹き出した。
憮然とした面持ちで立つヒュンケルをそのままに、腹を抱えて笑っている。
 
「女に反撃されたな!」
 
ヒュンケルの左の頬にくっきりとした赤い跡が見える。指の跡ではないかと思われるでこぼこした部分もあり、誰が見ても女性にはたかれたと伺えるものだ。
こうもくっきりつくほどの力なら、腫れそうなものだが、それは打たれ慣れているせいか今のところ大丈夫なようだ。
いっこうに笑いを止めない様子にため息をついて、ヒュンケルは招かれる前に、ハイマンを押しやって部屋に入ると扉を閉めた。
そこまで見てハイマンがふと気付いて問いかけた。
 
「わざとはたかれたな。相手は誰だ」
 
ヒュンケルは世界でもトップクラスの戦士だ。並の女性の張り手が当たるような相手ではなかったし、当たったとしても痛むのは殴った女性の手の方だろう。
それがここまで跡がつくなら、殴られてやったということだ。
 
「レオナ姫」
 
跡をなぞろうとするハイマンの指を、眉を顰めて引いた。痛みも人並にあるらしい。
 
「レオナが?なんで彼女が出てくる、あの女賢者はどうした。おまえに入れこんでいたろうが」
「……」
「なんだ知らないとでも思ったのか、あれだけあからさまで」
 
ハイマンをよけて、勝手知った人の家、といった様子でソファーに腰掛けたヒュンケルは、ひとつため息をついた。
 
「……たぶん彼女らの代行ということなんだろう」
 
城壁でフローラを見送ったヒュンケルは、そのまま立ち去るべきか迷って、しかし次には城へと向かっていった。
ヒュンケルを呼んだフローラの用件は終わったと思っていいのだろうが、アバンのことも気になったし、何よりハイマンに会いたかった。
その中途で立っていたレオナに無言で思いきりはたかれたのだ。
レオナの目に浮かぶ混乱をみれば、多分詳しいことを知ってのことではないのだろうと思ったが、彼女がそうするのは当然のように思えたし、すでに動いていた手を痛めさせない為には、できるだけ力を抜いてその衝撃を受けてやるくらいしか出来なかった。
考えて見ればこんなに無防備な状態で殴られるのは、ほとんど子供の時分以来でこんなに痛いものだったかと気付かされた。
戦闘の時に受ける痛みとはまた違っている。
その痛みは手を振り上げたものの痛みなのだと思うと、いっそう気が滅入った。
 
「……自覚がないのか、いまスゴイ台詞をきいたぞ」
 
彼女らというからには、エイミのことだけではないのだろう。おとなしい顔をしていったいどうなっているのやら。
さすがのハイマンも呆れたような声を出した。
 
「まぁ、それでは城内もおちおち歩けんだろうな」
 
いいながらソファの前に回りこむと、ヒュンケルの顔を覗きこんだ。
 
「ああ、そうじゃない、おまえに会いにきたんだ」
「ああ??」
 
ヒュンケルの言葉に、あ然とした表情で、思わずハイマンは奇声を発した。
つい数日前に、あれだけ拒んでくれた相手にそんなことを言うのか。
ハイマンはヒュンケルのタチの悪さを初めて実感したような気がした。
いくらハイマンの一方的な気持ちとはいえ、もうすこし配慮があってしかるべきではないのか。
しかしヒュンケルは、ハイマンの奇声を別の意味に取ったようで、きちんと言いなおした。
 
「フローラ様の従者が迎えに来た。先ほどルーラで到着したばかりなのだが、用件が済んだので、戻る前におまえに会っておきたくてな」
 
ヒュンケルの無骨さを指摘したところで改善はまず見こめないだろうから、ハイマンが慣れる方がより現実的だろう。ハイマンはそのままヒュンケルの話しに乗った。
 
「なぜだ、何があった。まさか気分が変わって私の気持ちに応える気になったわけじゃあるまい」
「いや……」
「なんだ」
「……気持ちを整理したかった」
 
ヒュンケルは言葉を選ぶようにゆっくり答えた。そう、たぶんそれが一番近い。
己の腕に納まるものなどほとんどないことを、ヒュンケルはもう知っている。
それでもヒュンケルは何も選び取らずに生きていくことはできない。いきることを選んだ以上、また罪を犯すだろう。ヒュンケルの生きるということは、そういうことだ。
闇に生きる者にとってヒュンケルは限りなく光りに近い存在であり、光を当然として生きる者に彼はあまりに罪深い。
独りであらねばならないのなら、自分自身を失えばただの獣になってしまう。
後悔は甘い罠だ。
ハイマンはじっとヒュンケルを見つめると、ゆっくりとした口調で尋ねた。
 
「何を決めたのだ」
 
何かがあった。それはハイマンには十分に感じられた。
それは自分とは無関係ではない。ヒュンケルの「何か」はすでにハイマンにとっても無視できないものだ。
だがヒュンケルはもう何かを決め、そして決めた以上はそのことに興味を失ったようだった。口のはしを気持ち吊り上げるように笑うと、表情を変え返事をしなかった。
その変化にヒュンケルの気持ちが別に移ったのが感じられる。
ハイマンは軽い焦燥感を胸に隠して、ヒュンケルの膝をまたぐようにソファーに乗り上げると、襟元を締め上げてその色味に乏しい光彩を覗きこんだ。
 
「……誰のことを考えている」
 
目の前の自分ではない誰を。
ハイマンの言葉は、自覚のなかったヒュンケルを意識させたようだった。
わずかに目を見開くと、自嘲にも似た、彼にしては珍しい笑みに口元を歪めた。
 
「誰……か。そうだな」
 
遠目に見下ろしたアバンは、どこまでも平坦な感情の感じられない顔だった。
だがそこに確かに傷つけられた寂しさのようなものが、かえってヒュンケルには感じられた。
ヒュンケルもたいがいあまり感情の読めないと言われる無表情に近い顔をしているが、アバンもある意味同じだった。
意識と無関係にたたえられるほほ笑みなど、大差ない。
それが消えた顔だった。
こんな顔をフローラは見たかったのだろうか、と柔らかいからだを感じながら思い、そして確かにヒュンケル自身にしてもそう思うだろうと同情した。
万人にほほ笑みが向けられるのならば、この感情の抜けた出来そこないな表情も価値があるように思えた。
そしてヒュンケルはごく最近も、こんなアバンの表情を見たと気付いた。
知らないものが見れば冷静きわまりない、しかし実のところ感情の抑制に精一杯で笑みの抜けた顔。
それは胸と、そしてどこかに忘れかけた本能を叩いた。
ずくり、と背筋を這い上がる悪寒にも似た居たたまれなさは、胸にたどりつく頃には苦い熱に変わっていた。
 
――― そういうことか
 
どこまでも自分は逃れようがないらしい。あの日、すべてを奪われたあの時に、強引に運命に投げられた甘い瞳に。
自分を断罪し、慰め、癒そうとする誰にも似ないあの身勝手な掌。
じっと見つめるハイマンの目を見返して、ヒュンケルは吐露した。
 
「すべてなげだして、参ったとひれ伏してしまいたい気分だ……」
 
ため息がハイマンにヒュンケルの吐息の熱をしらしめた。
最悪の誘惑だ、ハイマンは眉をしかめた。
この男の「ひれ伏してしまいたい」相手はハイマンではない。それくらいは十分に感じられるのだ。
だがいつにない熱をはらんだ吐息と、間近に在る男のニオイにハイマンも感じるものがある。ひどい誘惑だった。
 
「それがなんだ、私はとっくにおまえに晒していると言うのに、お預けのままなのだぞ。これは誘っているのだろうな」
 
どうせまた拒絶されるのだが、問いかけずにいられない自分もたいがいに未練がましい。いや努力家だというべきか。
ハイマンのいくらか投げやりな口調に、ちろりとヒュンケルは視線をかえすと唇を舐めた。
 
「……そのつもりはなかった。欲がないわけではない、が」
「判っている、その欲は私のものではないのだろう」
「蜜色の」
「死ね、くそったれ」
 
ハイマンの雑言にヒュンケルがまったくだ、と笑った。
 
「あの手が俺を殺す」
 
鋼のような硬い光りをはらんだヒュンケルの、色味に乏しい眼差しの真剣さに、ハイマンは唇を噛んだ。
この馬鹿は気づいてしまった。いや思い出してしまったというべきか、自分自身の求めるものが何か。
これを怖れていたのだが、怖れていたというのは、すでにそうある予感があったからかもしれない。
「蜜色」の何かにハイマンは覚えがある。
この男とまるで逆とも言っていい、やわらかな琥珀色とも黄金いろともつかない目の人間。
ついせんだってけん制をしかけた男だ。
 
「あんな潔癖な男のどこがいいんだ」
 
不満がありありと感じられる声で言われたヒュンケルは、驚いたような顔でハイマンを見なおした。
だが次ぎには微妙な表情を浮かべる。
 
「何で男だと断定するんだ」
「つっこむところはそこじゃないだろう、何で相手に思い当たるのかというところじゃないか。え」
「誰だと思っているんだ」
「いい年をして、けったいな巻き髪をして、人を小ばかにしたような態度を崩さない、正義を振りかざす大勇者さまさま」
「……」
「なんだ、判らんのか。おまえの師で養父で仇の優男だ。……それをどうしようというんだ獣め」
「……否定し難いのだが、あんたの弁を聞くと酷い男に聞こえるな」
「馬鹿め、じっさい酷い男だあれは。あんなものを欲しがるな」
「俺よりはましだろう」
「最低比べをしている訳ではあるまい。あれはいつかお前を滅ぼすかもしれんぞ」
「だからだ」
 
ひどく真面目な表情でヒュンケルは答えた。
 
「だからあの男が欲しい。師で養父で仇だけでは足りない、全部が欲しい。いつか俺を裁くあの手がほしい」
「……どうかしている」
「昔からだ」
 
そう言う意味では、とっくに俺は正気じゃない。
そうしてうっそりと笑う顔は、普段は感じられない闇の匂いがするものだった。
ハイマンは震えそうになる手を強くヒュンケルの肩をつかむことで押さえた。
ここで認めてしまえば、もうこれは手に入らない。
アバンがヒュンケルとの関係に、踏み込むことはそうそうないだろうが、それでもハイマンの手に入らなければ同じことだ。
 
「あのお綺麗な男もお前と共に堕ちるかもしれない」
「それはない」
 
あまりに当然の決定事項のように答えるヒュンケルに、ハイマンは驚いた。
それは買い被りではないのか。ハイマンには器用さは感情の弱さとは関係のないことに思える。
生きるのに長けているものが、強いものだとは限らない。
 
「あの人は俺と共に堕ちるくらいなら、迷わず俺を切る」
 
そして目を細めた。
 
「どうしてだと思う? あの人はそれが本当に俺の幸福だと信じている。闇に落すくらいなら、光り在る世界での死を与えようとする。泣きながらでも俺に刃を突きたてる」
 
ヒュンケルは、自分の胸の下あたりを掌で押さえるような仕種をした。
ハイマンは気付かないことだが、そこには過去の記憶の跡がある。かつてアバンがもたらした傷を受けた場所だ。
 
「傲慢な話しだ」
「矜持とはおおむねそんなものだろう」
「そのために誰かを殺すのか」
「俺にとっては慣れ親しんだ世界だ」
「蛮族め」
「あんたのその言葉の使い方はまったく正しいな」
 
ヒュンケルは笑い、そっと両手でハイマンの頬に触れた。
 
「だからもう俺のことは願うな。俺が望むのは癒しでも道づれでもない」
「死だとでも……」
「そうじゃない。アバンと言う制約が俺を何より自由に生かす」
 
ハイマンは不思議なものでも見るようにヒュンケルを見た。添えられた掌のあたたかさが頬を伝わってくる。思ったよりもあたたかな手だった。
そっと顔を寄せると、手は押し止めることなくハイマンの動きを許した。
息を詰めて唇に触れた。かさついた男の唇が、自分の薄い皮膚をとおして伝わってくる。
少し離れて見たヒュンケルの表情は、酷く穏やかだった。
その静けさがせつない。
もうこの男がこのことで揺れることはない。そういう決意が過ぎ去った穏やかさだった。
もはや揺るがないからハイマンの挙動を許すのだ。
拒絶されながらも交わしたあの夜のほうが、よほど優しかった。
 
「私はきっとお前を惜しむ」
「ああ」
「エイミもか」
 
ヒュンケルは2、3度瞬いて、思い至ったというようなため息をついた。
 
「そうだな、彼女は俺と堕ちると言ってくれた」
「だが女は子供を産む」
 
ヒュンケルはその意味を取りかねたのか、視線だけでハイマンに問いかけてきた。
子供は”自身の血を引く、お前”だ。自身の肉で再構成した愛する男だ。
これ以上の存在はなく、そのためならば、あの女は共に堕ちると誓ったお前も殺すだろう。
なるほど、とヒュンケルは頷いた。そうかもしれない。
ヒュンケルは母親を知らないが、それは想像に難くなかった。
 
「だが俺は彼女を選べない、たとえアバンが得られないとしても。最後の部分は理屈ではないのかもしれんな」
「ヒュンケル、お前に理屈で動く殊勝さがあったか」
「……どうだったかな」
 
ハイマンは再び口付けた。舌で乾いた皮膚をなぞる。
これが「失恋」ということか。ぼんやりハイマンは思った。だがこの自身の気持ちが変わるわけでもないのだ。
得られないと判っていても、こうして触れ合い匂いを感じれば欲しくなる。
ざらりと削られでもしたような、不快感が胸に詰まる。
――― 泣きたいのかもしれないな。
手に入らないと判っているものを追い掛け回して、意味などあるのか? そう真実思っていた自分も滑稽だった。
往く場のない気持ちを抱きつづける自分も、あの女賢者も、目の前の馬鹿も、あるいはあの取り澄ました大勇者も。結局は不合理な人間なのだ。
 
「理屈ではない、か」
 
ヒュンケルに暴かれたものは多いが、これは止めかもしれない。
怖れつづけた事実よりも、その血よりも。ハイマンは間違いなく自分は「人間」なのだという実感を知らされた。
 
「そうか」
 
ハイマンは笑った。
 

 

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