不可視の海

10. 「結局はお前が悪い」 (by ・・・)


 
「アバンの話しを受ける」
 
ハイマンはヒュンケルに視線を向けることなく、視線の先にある暁けた光りにほの赤く染まった窓を見た。
カーテンが引かれた窓はその生地を透かしてなお、暗い部屋に射しこもうとしている。まぶたを閉じてなお瞳を焼く赤い血のすけた陽光のように。
ベッドに上体を起しただけの、起き抜けのままの姿勢。隣りに横たわったヒュンケルが起きているかどうかなど、はなから気にもとめていないような態度だった。
ならばひとりごとかというと、そうではないらしい。
その宣言は、決意であり、決別であり……やはり宣言というほかなく。それならばそれを誓うのはヒュンケルに対してにほかない。
 
硬い、しかしなだらかな高低を描いていた、横向きのヒュンケルの身体は身じろぐ様子もなかったが、静かに瞼が開かれそしてまた下ろされた。
 
「そうか」
「……そうだ」
 
一言返された言葉に、やはり短い応えが返された。
そのそっけなさもけして不快なたぐいのものではなく、ヒュンケルはうっそりと笑った。
 
「そうか」
「あの男の期待に応えるのは不本意だが、私はこのパプニカになくてはならない存在になる。たとえば」
 
そこまで淡々と続いた言葉は一端途切れ、ゆっくりとハイマンはヒュンケルに顔を向けた。
瞼を閉じた横たわったままの姿を穏やかに眺める。
 
「たとえば、私が人でなしだと解った時には、もうそれくらいで切り捨てられないほどに。深く、深く」
「ああ」
「それくらいの図々しさが必要だと、今更だが実感した。お前のようなろくでもない男を得ようとするならな」
「……」
「まぁ、あの男の期待に応えると思うとなんだが、ひとつ貸しを作ったと思えば悪くない」
 
最後は人の悪い笑みを浮かべて、身をかがめてヒュンケルの乾いた唇に触れるだけのキスをかすめた。
 
「……俺はお前のものにはならないぞ」
「野暮なことは言うなヒュンケル。お前の手を離してやれたとしても、こればかりは放しようが無い。私にもな」
 
いくらかなりと譲歩の気持ちを持ち得ただけ、自分も随分と年をとったものだ、とハイマンは思っていたがそれは口にしなかった。
いや、諦めることになれ過ぎた自分がこうして何かに執着し、自ら舞台にあがろうとしている。それは若いころにはなかったものだ。
もしも若いころにヒュンケルと出会ったなら、あるいは今とは違う位置にいたろうか。
だがすぐにハイマンは考えを止めた。
若いころのハイマンに今のようにヒュンケルを受けとめることが出来なかったろうと同じように、なにより若いヒュンケルにハイマンを動かす何かを持ちえていたかは疑問だった。
ならば現在というこの時、重ねた時間に意味があるのだろう。ヒュンケルにとってはあの男のために重ねた時間であっても。
再び目をあけてハイマンを眺めたヒュンケルは、口を開きかけてつぐみ、ひとつため息を落した。
 
「物好きな」
「世の中存外物好きな人間は多いものだ」
 
そう笑うハイマンは悪い顔ではなかったので、しばらくはそのふっきれたような、なにかを思いついたような表情をヒュンケルは眺めていた。
やがてそれも足りたのか、ベッドから起きると身支度を整えた。いつもと変わらぬ所作は、いつもと変わらずそっけないほどに簡単なものだ。
唐突な訪問と宿泊のために何も用意されていないが、それを気にする様子もない。
顔を洗い、口をすすぐと、さすがにシワにならないよう寝る前に脱いだ上着を着込んだ。髪などはかるく指がすいただけだ。
もう少し身なりに手間を払えば、それなりに見てくれのいい男だが、頓着のなさがそれを目減りさせている。
眺めるハイマンはいまだベッドのなかから声をかけた。
 
「参政の件、了承したとアバンに伝えろ」
「何故俺が」
 
即座に返された言葉には、心底嫌そうな響きがある。
 
「きっかけが出来る。私からの心優しい配慮ではないか」
「そういうのが余計だというのだ、心にもないことを」
「当然だろう、私ばかりが口惜しい目にあうのは業腹だ。お前たちもせいぜい荒れろ」
「十分荒れ模様だ、これ以上ややこしいことにしたくない。自分で言え」
「お前言え」
「自分で言え」
「言え」
「……まさか自分で言い出しにくいんじゃあるまいな」
「……」
「俺はもうベンガーナに戻る。次ぎの仕事も明日から控えている、ジラフのところへ顔を出さねばならない。フローラ様にキメラの翼も頂いているからな」
「逃げるのか」
「お前が逃げるな」
「薄情者」
「今更」
「なんで気持ちを変えたか聞かれるではないか。お前に色仕掛けでたぶらかされたというぞ」
「無茶をいうな」
 
ヒュンケルはしらけた目で遠慮なくハイマンを見た。
この王城のどこに40過ぎの神経質そうなおっさんを、コワモテのガタイのいい男がたらしこむと思う輩がいるんだ。
思うところを察したのだろう、ハイマンが人の悪い笑みを浮かべた。
 
「大勇者くらいは騙せるかもしれんと思わんか」
「好きにしろ」
 
結局さして気の長い方ではないヒュンケルは、つきあいきれなくなったようで、捨て台詞を残してとっとと退出して行った。
 
「好きにねぇ」
 
あくびをひとつ漏らしたハイマンは、再び暖かな寝床に身を静めた。
 

 

朝の澄んだすこし湿り気を帯びた空気を吸いこんで、ヒュンケルは扉の外側でしばらく立ち止まった。
レオナにはやはり一言挨拶を入れておくべきだろうか、と考えて無意識に昨日はたかれた頬を親指でなぞった。
腫れもせず、もう痕もない。我ながらたいした身体だと苦笑した。
アバンに会おう。
ひとつため息をつくように、身の内にこもった体温を逃した。レオナもフローラも、今会うべき相手ではない。彼女らにとってもしらじらしいだけだ。
ゆっくりと進路をきめて歩き始める。アバンはたぶんもう執務室にいるだろう。
ヒュンケルがまだこのパプニカに滞在していたころも、アバンはもうこの時間には活動をはじめていた。夜は遅く、朝も早い。いつ眠っているのかと思ったものだ。
自分もまたそう思われているとは思っていないヒュンケルは、アバンの言葉を思い出して目を細めた。
 
『居眠りが得意なんです』
 
立ったままでも、ほんの数秒でも寝れるんですよ。
冗談なのか本気なのか今一歩不明ないいぐさは慣れたものだ。自分はなんと返事をしたのだろうか、ヒュンケルは思い出そうとして足を止めた。
ああ。
渡り廊下の朝日のなかに立つエイミにひどく納得した。
彼女は変わらず美しい。陽光に褪せることなく鮮やかなバーミリオンの色合いが、彼女のもつ光りだった。熱砂の風。
そしてかわいそうに、とはじめて思った。彼女の恋情にそんな感慨をもったことはなかった。
それは自分のなかに無い感情への無理解だったのだろう、と思う。
彼女が自分とどこか似通っているという同情にも近い気持ちを、戦後過ごすなかで感じるようになったが、彼女の自分へ向ける恋情をほんとうに知っていたかというと、それはひどく漠然としていた。
肉をなぞる快感を、かたちを知ってはいても、そこになにか意味を持たせることをヒュンケルは長く実感として知らなかった。
つい数刻前に自分はアバンを抱けると思い至るまで。
エイミに微かな憐れみを感じるのは、けして彼女を侮るのではなく、むしろ数分後に自分が彼女と同じように痛めつけられることへの、予感の嘲笑に近かった。
 
「ヒュンケル。どうしていいか判らないの、あなたを諦めたくない」
 
焦燥に焼かれた彼女は、ヒュンケルが傷つけるまでもなく十分に痛手を受けていた。
ただ一途さだけがそこに彼女を立たせている。
 
「……あなたにこう言うべきだった。『愛している人がいる』」
「嘘」
「俺もついさっき自覚した。馬鹿だな」
「イヤ」
「エイミ、それはあなたではない。だから……」
「……いや」
「『俺のことは忘れた方がいい』」
 
自分にこんな風にエイミを傷つけていいわけがなかったが、ほかにどうしようもなかった。
本当に酷い男だと思う。本当はエイミが忘れようが、思いつづけようが、もはやヒュンケルにとっては大差はなかった。
ならば彼女は忘れて新しい場所へ行くべきだろう。ヒュンケルのためでなく、エイミ自身のために。
エイミが手を振り上げて、迷うように震わせる。
激しい怒りにも似た感情が黒く大きな瞳を濡らしているが、そのしずくが溢れることはなかった。
そのうつくしさが痛々しく、そしてヒュンケルに喜びをもたらした。
その目に口付けたい愛しさは、しかしいとけないものを慰めるだけの感情で、それをヒュンケルは耐えた。
エイミは上げた手をヒュンケルに振り下ろすことなく、胸元で握った。
 
「ありがとう。それは本当に俺の中にあるあなたへの気持ちだ」
「最低だわ……」
 
振り下ろすことないつよさと、気高さと。
再び歩き始めエイミの側を過ぎながら、自分はアバンの気持ちをこんな風に受けとめられるだろうか、と思う。
 
「……それなのにやっぱり好き」
 
アバンのもたらす傷を。
背後につぶやく声となにかが堰をきって溢れた、震える気配を感じながら、ヒュンケルには彼女のつよさが羨ましいと思った。
 

*      *      *

 

ジラフは昨夜の気配を止めない地下室へと降りた。
ヒュンケルにというよりも、第三者にとうとう知れた秘密に、気分はけしてよくはない。
いつか来る日を想定していなかったわけでもはないが、ヒュンケルの存在はあまりにイレギュラーで、それらのどれにもはまらない状態だった。
――― 殺すべきだったか。
薄暗い室内を微かに水が流れる音だけが響く。
ジラフは一脚だけ用意された簡素な椅子にかけながら、胸中でつぶやいた。
だがすぐに打ち消す。いったいどんな方法であの男を手にかけることができるというのか。
ジラフはこれまで清濁をとわない手段をとってはきたが、それにも彼自身の定める一線があった。
たしかにザムザの本来の役目とその要請をみたしてもきた。
しかしジラフ自身の利害の達成のために、命を奪うことでなしたことはひとつとしてない。
自分がのぞんで今の職業を選んだわけではないが、これまでの経験からジラフにとって「商品」は求められると同じく、自ら向かうものだと感じられた。
それを超えて、あるいは曲げてまでジラフは「商品」を動かしたことはほとんどない。
そのためにザムザの求める要請を満たしきれなくなっても。
そんなジラフにとって「暴力」はまったくの素人に過ぎない。
言ってみれば「暴力」のプロであるヒュンケルにはとても通用するものではないのだ。かといって「鼻薬」が効くような人間でもない。
ヒュンケルを動かしうるものは、本音だけなのだ。酷く確実性のない、無計画な動機だがその可能性に期待するしかない。
ヒュンケルがジラフを告発するか。
エナ=ハイマンの秘密、本人すら知らずにいるそれを暴くのか。
――― それとも罪を共有することを選ぶのか。
ジラフは五分と見ている。あるいはそれ以上。しょせん「暴力」が武器の戦士にしては、ヒュンケルは許容がすぎた。それを優しいというのかは、ジラフには迷うところだった。
ただ正義感ゆえに、告発しながら擁護する、という方法を取らないとは限らない。
断罪と赦し。飴と鞭は世の道徳の偉大な遂行手段だ。
どちらにしても期限の決められていないいつかの判決は、ジラフを滅入らせた。
いまやジラフもハイマンも、ヒュンケルの心ひとつで破滅がまっている。
ヒュンケルの出方を待つよりほかになく、耐えて待つことが今出来る最良のことだった。
ザムザが勇者たちに倒されるより少し前、ジラフは急激に増すザムザの要請に応えきれなくなっていた。物資、人材、情報。
あるいは自分に科した一線をこえれば、応えきれたかもしれなかったが、ジラフはそれをしなかった。
そのころのザムザは慎重な本来の性格を忘れるほどに、実験や軍事に傾倒していっていた。
自身の肉体を実験体とするほどに。
そしてザムザ自身が動くことで、かつて懸念していたとおり、目論みは明るみになりザムザは半ばで命を落とすことになった。
ジラフはザムザの最期をみることはなかった。最期の瞬間はいったいどんな顔をしていたのか。想像もつかない。
自らのオリジナルであり、ルーツである、親とも兄弟とも言える存在であったが、彼を理解しきれることはなかった。おそらくザムザもそんなことはジラフに求めていたのではないだろう。
ザムザがジラフに求めたのは、自分が持ちえなかった父親との関係の再現ではなく、開放だったのではないだろうか。彼が死んだと知った後、この薄暗い部屋で思ったのはそんなことだった。
ぼんやりと栽培している植物のプラントを眺めて、それでもあの人の最期を見たかった、と考えた。それは叶えられようもない、少ないジラフの本当の望みのひとつに加わった。
ジラフの視線は無い人の面影を求めて習慣のように書架へむかい、今は隙間が出来ているはずの部分で止まった。
 
「馬鹿な」
 
そのままの姿勢で凝視した。ある。ヒュンケルに与えたはずの、あの、本が。
 
「……」
 
ジラフとザムザと、そしてエナとを繋ぐ唯一の証拠である古びた書つけだ。
いっとき見つめて次ぎには勢いよく立ちあがって、本を手に取った。間違い無かった。
 
「……はっ…は…」
 
がたりと音をたてて椅子に腰を落とした。
安堵と失望のないまぜになった、おかしなため息のような笑いが漏れた。
なかった事にするつもりなのか。
それはヒュンケルにとってもジラフにとっても一番無難な選択肢だったはずだ。しかしジラフはその可能性を考えていなかったことに驚いた。
すでに自分のなかに、あの青年のかたちが出来ていたのだ。ある種の信頼関係のようなものが。
それゆえにそれは無いと思いこんでいた。
いや、こうしてこの本を目の前にしても、まだ自分は疑っている。
ジラフは改めて室内を見渡した。
なんらヒュンケルの存在を残すような跡はみられない。だがふとジラフは目の前の机上をにらんだ。
ほとんどなにもない机上には、その端にきちんとまっすぐに万年筆が置かれている。
それ自体は異質なことではない。それはジラフの愛用のもので、それは定位置だった。
ある予感とともにジラフは古い革の冊子を手に取った。
端のやや黄ばんだ紙が年代を感じさせる。ゆっくりとページをめくりながら、過去の記憶の断片と共に、字面を追った。ややクセのある、しかし測ったように小さく几帳面な文字。
それがやや字間が広まり、字体もゆるんでくる。そのころにはザムザの傾倒が始まり、書きつけも記すペースが減っていた。
そしてそれは1頁だけ書き手を変えた。
険の無いやわらかい曲線の文字は、他とちがって人間の文字。別れの言葉。
そこで書きつけは途切れる。
しかしそれで終わりではない。空白のページを2枚めくると文字が数行現れる。それがこの書付のほんとうの終りだった。
この腐りかけた肉を私は愛したのか。
そこに魂があるというのなら、なぜ彼女は私に語りかけないのか。
何故私が滅ぼした無数の者たちは、私を呪い滅ぼさないでいるのか。
私は愛し合ったものの声も聞こえず、私を呪ったものの声も聞こえない。
魂に不滅が約束されているのなら、私がこのせかいで身を捧げるものは何のために
唐突に途切れている言葉は、それまでの几帳面な字体に比べて、ずっといびつで感情的だった。
何度も見た、見なれた終わりだ。
何故それ以降、この書付が開かれなかったのか、それは少しだけジラフにも察せられた。
ザムザは自分で思うより、そして彼の秘密の妻であった人が思うよりも多分その不在が悲しかったのだろう。彼の妻が知ることを願った「愛しい」ということよりも、なお大きく彼に穿った暗い穴。
何度見返しても、答えなど得られるはずのない問い。
その空白の真中に、かつてはなかった文字が並んでいた。
 
望む者のうえに
 
無骨な、けして見にくくはないが、へたくそな字体だった。
幼稚でいっそ馬鹿にしているのか、と思えるその言葉を眺めてジラフは泣いた。
ザムザの死を知ったときにさえ乾いていた目だった。
 
ならば彼らは今も、私のうえにあるのだろう。
ただ静かに。責めもせず、裁きもせず。……笑うこともなく。

 

*      *      *

 

ヒュンケルは執務室の扉の前で足を止めた。
中からアバンの気配が感じられない。
逃げられたか、とふいに思った次ぎの瞬間に、ヒュンケルに向かって乱暴な意図をもって開かれた。
避ける間のない衝撃に、鈍い痛みが腕に走るがすかさず足で扉を固定して閉じられないようにする。
 
「アバン」
 
まただ。ヒュンケルは内心舌打ちした。とうに力量をしのいだはずだというのに、どう言うわけかこの人の気配を読むのが苦手だ。
どこにいようと存在を感じるのに、アバン自身が隠そうという意図をもつと、とたんに読めなくなる。これはいったいどういう仕組みだろう。
馴染んだ整髪料の香りを感じないことに改めて見ると、いつものいかれた髪型ではなく、寝起きのままのようないくらかクセのついた髪が見える。
逸らされたまま、ヒュンケルを見ようとしないアバンに焦れた。
 
「アバン」
「呼ぶな」
 
扉をはさんだあやうい拮抗の下から、硬い声がヒュンケルを押し止めた。
 
「……私を呼ぶな」
「アバン」
 
無視して繰り返す呼び声に、逸らされていたアバンの顔が上がる。うつむけられていた表情は何かを剥ぎ落したように見なれないものだったが、悲しみなどとは無縁のものだった。
烈しい感情のむきだしになった顔。ほとんど敵意といってもいいほどの。
ヒュンケルはその表情を見とめて、わずかに目を開くと次には表情を緩めた。
次ぎの瞬間、視界のはしに白い影がひらめくと同時に頬に衝撃が走る。わずかに遅れて鈍い痛みが頬骨に沿うように広がり、白いそれがアバンの拳であることに思い至った。
ふたたび振り上げられた腕を鷲づかむと、ヒュンケルはそのままもつれるように室内に押し入る。
いつの間にか腕を握りこめるほどに大きくなった自身の掌と、アバンのもはや大きく感じられなくなった身体にある種の喪失感を覚えたが、もう先ほどのように隙を見せはしなかった。
無言のままお互いのわずかな身体と身体の空間で、気だけは押し殺すように、しかしありったけの力でせめぎあうもみ合いは突然途切れた。
ヒュンケルの拳がアバンの頬をうつ、互いの骨だけに伝わる鈍い音と共に。
わずかに乱れた呼吸だけが残った。
 
「……いったい何を考えているこの馬鹿弟子が」
「あんたはもうわかっているんだろう、今俺の顔を見たからな」
「私だって何もかもがわかるわけじゃない!」
「俺はわかった」
「何を」
「俺が本当に欲しいものを」
 
レオナの時のようにアバンに打たれてやるつもりなど、ヒュンケルはかけらも持っていなかった。
だが隙を晒してなおかわせるほど、隔絶した力量差があるわけではない。アバンの拳はレオナのそれとは違った実際的な打撃の痛みだった。
これは確実にしばらく残るだろう。
だから等しい力でアバンの頬を打った。どうしようもない、最悪の告白だという自覚がヒュンケルにはあったが、それを内心で嘲った。
なんて俺にふさわしい。
 
「あんたとあって俺ははじめて、憎むということを知った。
「触れて迷うことを知った」
 
あの薄暗い、しかしやさしさに満ちた閉ざされた楽園から追われて、生きる理由を与えられた。ひどくいびつなものだったが。
 
「あんたに刃を向けたときに、これ以上の『裏切り』はないと思っていた。おなじほどに、あんたから与えられるものも、もはや無いと」
 
ヒュンケルは掴んだままだった両腕を引き寄せると、アバンの拳に唇をかすかに触れさせた。
 
「先生。
「けれど俺はもっと酷い裏切りをした。そして、あなたからまだ誰も与えられなかったものを欲しいと思っている」
 
アバンは奇異なものを見るような目で、ヒュンケルを見つめた。
 
「裏切った? 何のことを言っているんです。フローラのことを言っているなら、彼女は私の所有物ではない。彼女には彼女の意思がある」
「そのことは関係ない。あんたが殴りたいと思うのが、俺でよかったというくらいだ」
「……」
「そこはあんたにもわからないか」
 
ヒュンケルは笑い出した。アバンの腕を抱きこんだままで、やがて声をあげて笑った。
以前こんな風に笑ったのはいつだったか、はっきり記憶に無かった。
 
「アバン、あんたに口付けたい、抱きたいと、俺は思ったんだ」
 
ゆっくりと、区切りながら言葉を吐いた。
正確にいえば『この触れる手が、唇が、あの人だったら』という、衝動的な連想があったといった方が合っていたが、わざわざそんな風に口にするつもりはなかった。
忘れかけたぬくもりが、より本能的なものを揺さぶった。
ハイマンと出会わなければ、あるいは弟子のままでいられたのかも知れなかった。だがそれが幸せだったともヒュンケルにはさして思えなかった。
こんどははっきりと瞠目するアバンに、ヒュンケルは内心だけで詫びた。
本当にあんたは運がない。弟子にこんな暴言を吐かれるなんて。
すまない。
あんたの誇れる弟子でなくてすまない。すまない。
それを言葉にしなかったのは、ヒュンケルの覚悟だった。詫びて、自分だけが気休めに負担を手放し、アバンにすべてを委ねることはしたくない。
詫びる気持ちは本当にヒュンケルの中にあったが、それを口に出すくらいのものなら、はじめからこんな風に吐露したりはしない。
自分は自身の気持ちまでも裁いて欲しいわけではないのだ。己で負う。アバンには彼自身のヒュンケルに対するこれまでの気持ちを打ち壊し、選び取ってほしいだけだ。
それがヒュンケルを損なうものであるなら、それは甘んじて受けよう。
エイミやフローラと違って、みっともなく八つあたりくらいはするのかもしれないが。
それでもアバンが振り上げる手の先が、自分であることにヒュンケルは望みを繋いだ。
こんな風にほほ笑み以外の表情で、自分を迎えたアバンが。
なんと言うべきだろうか、「愛しい」というにはあまりにいびつな気がしたが、「憎んでいる」というものではもうない。
ただ胸につまる、静かな興奮と痛みが、間違いないとヒュンケルに訴えている。
 
「間違えているか」
「……間違えているべきでしょう?」
「どうして」
「苦しくはないのですか、ヒュンケルあなたは」
「わからないな」
「私にはあなたを正しい道へ導く義務があります。……果たしきれなかった義務が」
 
たしかにな。ヒュンケルはまた笑い、アバンは唇を噛んだ。
 
「それで何が正しいんだ。俺は何処へいくべきだと。誰を ――― 愛せよと?」
 
アバンが再び驚きの混じった眼差しをヒュンケルに向けた。
ヒュンケルとしては法外といっていいほどの言葉を、これだけ向けられながらそれは全く思いつかなかったとでも言うような顔だった。
 
愛している?
 
それはほとんど唇の動きだけで、アバン自身にむけられ、ヒュンケルに問われたものではないようだった。
 
「俺の中にある正義と、あんたの中の正義が完全に重なることはこれからもない。もうとっくに俺が望むあんたの手は、そういう導く手ではない」
「それが私への『裏切り』だと」
「あんたは俺の殺意を知っていたのだと、今では俺も知っているから。俺が本当に憎んでいたのは、心に殉じられなかった自分だと認められたから。あんたもそれを見透かしたからこそ、俺を憐れんで赦しただろう。
だがこの熱はあんたの予見の範疇ではあるまい」
「……」
見慣れないものを見るようにヒュンケルを見つめていたアバンは、やがて表情を曇らせて視線を逸らせた。
まるで彼自身の内側にある何かを殺すように、細くため息にも似た深い吐息をもらした。
 
「いったいどうしろと言うんですか。仮にあなたの望むとおりにしようとして、何が望みなんです」
「少なくともそんな誰にでも吐くような台詞をあんたに言わせないことだな」
 
ヒュンケルは軽い苛立ちがのぼるのを、押さえずに表情に浮かべた。
感情を表面に出すのは慣れなかった。無意識に表情に出すまいとする自分を、常に意識しなければならない負担はあったが、どうしても必要だった。
常に受容しようとする姿勢は、アバンの美点でもあり、教育者としての利点でもあったが、弟子という立場を飛び越えようとするヒュンケルにとっては、もっとも邪魔な壁だった。
ヒュンケルの欲しい彼は、そこに隠されていた。
アバンはヒュンケルの苛立ちを正確に感じ取ったようだった。
困惑の刷かれた表情でしばらく立ちつくすと、ほろりとつぶやいた。
 
「ヒュンケル、あなたに言っていませんでしたが、というか言うまでもないと思っていたんですが。……私は男なんですけれど」
 
ヒュンケルは本気でもう一発ほど、殴っておくべきか検討し始めた。

 

*      *      *

 

アバンは暗い浜辺を波打ち際に沿って、ぽつり、ぽつりと歩いた。
黒い海はその海底を暴かれることを望んでいるのだろうか。
しょせんそんな怖れは、己へのいいわけにすぎなかった。
暴かれると感じるのは、隠したい自分があるからにほかならず、ヒュンケルはただまっすぐにアバンを求めているにすぎない。
昔も今も。
変わったのは自分だ。ただ、ただ、名前にも立場にも無縁にアバンを求めるヒュンケルを、純粋に喜ぶだけだったかつての自分。正義という大儀にはばまれることなく断罪の刃を向けるヒュンケルに、ある種の慰めを得ていた自分。
それだけでない意味が在りうるのだと、気づいてしまった今の自分。
だがまさかヒュンケルが、そんな風に欲望のままに接することがあるとは思っていなかった。
フローラとヒュンケルの2人を見たときの衝撃。
フローラを手放したくないと感じ、ヒュンケルに……正直に言えば「裏切られた」と思った。
ヒュンケルが言っていた「フローラを奪われた」という意識はなかったが、自分以外にあの強烈な思いが向けられる人間が、いるかもしれないということに傷ついた。
なんて身勝手なことだろう。
朝にヒュンケルが自分を欲しいと言った時に、まるでそんな自分を見透かされたような怖れを持った。
本当にヒュンケルのそれが望みなのか、彼は自分の隠された欲望を察しただけなのではないのか。
 
アバンはふいに立ち止まると薄く笑った。泣き出しそうな笑いだった。
はたして自分はほんとうに、あの一途な弟子にそんな感情をいだいていたんだろうか。
わからなかった。
ただ養父としても、師としても、ある種逸脱した感情をもっていたのは確かだった。
いつも誰かの望みを自分の力にしてきた。
それが自分の使命なのだと思った。それは間違いではなかったと今でも思う。
公の自分が個の自分でもあった。
それなのに自分はたったひとつの愛情がわからない。
この気持ちをどこに当てはめるべきかは判っている。世の中のだれにも歓迎されない場所へ、愛弟子をつれていくことなど、するべきではないのだ。
たとえ自分はもう何もあの子に与えてやれるものがないのだとしても、少なくとも拒絶することはできる。
だのに。
それでいいのかと、自分を責める声が囁く。
それは本当は自身の保身のためなのではないのかと。
お前の知るあの子供が、拒絶をうけて、思いをかえるような性情だったか、と。
単にお前が楽になりたいだけなのだ。正しい自分を守りたいだけだ。
そしてまた、愛を乞う、あの手から奪い去り、それが正しいことだとあの子供を孤独へ追いやるのだ。
 
朝はさんざんな目にあい、執務を大幅に遅刻した挙句結論は出なかった。
あわや再び殴り合いに発展しそうな小競り合いと、自分たちでも半ば意味の判らない罵倒を繰り返し、判ったのは自分たちがいかに意固地な人種かということくらいだった。
食事もとらず、執務も遅れて不審に思われないはずもなかったが、だれもこんな不穏な雰囲気に声をかける者はいなかったということだろう。賢明だった。
ヒュンケルにもベンガーナへ戻らねばならない理由があったらしく、「夜にまた来る」という捨て台詞で立ち去った。
仲間と認めた者には、果てしなく寛容で甘い男だったが、どういうわけか自分はいつもその範疇にないらしく、容赦がなかった。
もっとも「そんなに私が閑に見えるのか」と、悪態をついた自分も教育者らしからぬことは自覚がある。
けっきょく城内で会うのにはあまりに周囲への配慮に足りないということで、港で会うことにはなったのだ。
そしてアバンは今、遠くに港の明かりを眺めながら、確実に浜辺伝いに遠ざかっていた。
どうせ気を隠さない限り、ヒュンケルはアバンの所在を知る。
せいぜい探せばいいのだ。
今日1日はまるで執務に身が入らなかった。
それでも全くこなせないことはない。だが思考はすぐに、先ほどまで考えていたような内容を堂堂巡りした。
そのなかでも、「子供の頃とは状況もちがい、多様の愛情を得ることができたのに、なぜよりによって私なのか」という1点でアバンはヒュンケルを責める資格があると気づいたが、「俺が一番に望んだからだ」というアバンにとって何のなぐさめにもならない一言で、片付けられうることにも気づいてげんなりしただけだった。
 
――― ああ、もうひとつ気付いたことがあったな。
 
アバンは静かにくりかえされる波音に耳をすませた。
灯りをもたない周囲は、海と大地との境目さえあいまいにしていたが、暗闇のなかでその音だけはアバンに海の存在を知らせていた。
ハイマンをパプニカにつれてきた。そしてアバンには伺えない場所で、ヒュンケルは何かを行い、そしてそれは変化への何かだった。何かを壊し、促した。
ヒュンケルの傷つく様を怖れていたが、それはアバンの杞憂だったのかもしれない。
彼は硬い性情に似合わぬ、しなやかな魂をもっていた。
アバンはゆっくりと振りかえった。
少し前から一定の距離をおいてよりそう白銀の影に。
暗闇のなかけぶるように違う色をもつ彼が、痛ましく、そして愛しい。
浮かんだほほ笑みは先ほどとは違い、アバン自身思っていなかったほど安らかだった。
ヒュンケル、最後にお前は。
 
「私を壊すのかもしれないな」
 
守ろうとしたこの世界のように、弟子たちのように、ハイマンやアバンの知りえぬ誰かのように。
自分がいつか導いた、傷ついた誰かのように。
自分もまた再生できるだろうか、目の前の不器用な男とともに。
 

 

アバンは静かに立ち尽くす影に、ゆっくりと手を差し伸べた。
 

 

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