不可視の海
幕 / 見えることの無い風景
「終わったよ」
馬車の扉が開かれて覗いたのは予想にたがわぬ人物だった。
『けしてここから出てはいけません、いいですね姫』
緊張した声で扉を固く閉ざした人物ではない。けれど彼女にとってよく知った男だった。
人が一生を強制的に終わらせるには短くも、それを見る彼女にとっては長い悪夢の時間。そしてあらゆる音が途絶えて、すぐ近くの波の音だけが狭い空間をつつんだ。
そして彼女の手を取る男は数刻前に別れを告げたはずの男だった。
けして裏切るつもりも、見捨てるつもりもなかった。
ただこの身体に芽生えたもののために、彼女が選んだものだった。
「殺したの」
目の前の男を愛したことを、何ら後悔していない。
それはこんな酷い仕打ちをしたこの瞬間でさえ、思う。そんな自分を愚かだと思い、そして自分を守る役目のために命を落とした騎士に涙した。
母国のパプニカから派遣されるベンガーナへの外交官でもあり、パプニカからベンガーナに嫁いだ彼女の家系の補佐でもある役職にある騎士。
どちらかと言えばあまり好まれない任辞を受けて、何人もの騎士が彼女や彼女の母親に仕えたが、そのなかでも誠実であったと思う。
地味でけしてこの役職に満足していたわけではないだろうが、それを彼女らと接する態度にだしたことはなかった。
突然のモンスターの襲来に、彼女を守るため扉を閉ざし、従者の指揮に馬車を出た騎士。
彼は彼女が愛した男を知らない。
それが彼も知るベンガーナ屈指の商人であり、しかしその正体が魔族であることも、己が仕える姫君がそれらを知った上で愛したことも。
今この一行を襲来するモンスターが、その魔族のさしがねであることも。
「お前はこの騎士の子供を産むんだ」
「……知っていたの」
「俺は医師でもある」
初めて出会い、知ったのは偶然だった。
魔族である男が素性を隠し、ベンガーナで商人として生きているのが何故なのか、彼女には窺い知ることはできなかった。
だが影だけは肌で感じた。けしてこの男は人間に友好的ではない、ただ隠れ住むためにここにいるのではない。
それでも惹かれた。何故かはわからない。
それは男も同じだった。
彼女を口封じに害することもなく、むしろ同属の……父親からも彼女の存在を隠していたようだった。そうして逢瀬を重ねた。
そのころの男はすでにベンガーナの王室の御用達を勤めており、その周囲に出入りすることはごく自然だった。
はじめの頃の男はどこか疲れたような痛みを抱えていた。それは男の父親との関係にあったようだった。
『俺はいつか捨てられる』
なんの脈絡もなく、ふいにつぶやいた男の声は、直接彼女の肌を振るわせた。
肩を抱いた腕に力を込めて、その尖った耳に口付けた。
次第に男は彼女との関係の中で、何かを振りきったようだった。
父親への振りきれぬ愛情を受け入れたようだった。
それが良かったことなのか、彼女にはわからない。
それでも幸せな日々だった。
男にはよく似た『息子』と称する少年と暮しており、隠されながらも家族のような優しい感情をかわした。
それを終わらせたのは皮肉にも、男との子供を身ごもったと気付いたときだった。
もし生まれた子供が魔族の特徴を備えていれば、すべては露見し、迫害されることは目見えていた。
せめて父親が誰か知られることは避けたい。
産まないことなど考えなかった。どんな境遇へ落ちようとも、彼女は守るつもりだった。
そのためにもパプニカへゆくことを心に隠し決めて、男に別れを告げたのだ。
「お前も俺の子供もけして傷つけさせない。俺の元で産むんだ」
「どうしてこんな」
「そのためには『人間の父親』が必要だ、誰にも疑いを抱かせない、人間が」
あの騎士は愛する姫君と、その2人に与えられた子供を守るために、命を落としたのだ。なんとういう美談。陳腐な現実。
彼女は差し出された手を取った。
いつか裁かれる日がくるのかもしれない、いやくるべきなのだろう。
それでもこの抱きしめる腕にすべてをゆだねる自分を、言い訳するつもりはない。この手を取った瞬間に彼女は男と罪を共にすることを選んだのだ。
ただ、悲しかった。
愚かで、あさましく、美しい。
「……何も心配しなくていい、すべては俺がやったことだ。もう終わった」
「いいえ」
ザムザ……。彼女は男の名前をつぶやいた。その名は彼女だけに告げられた約束だった。
閉ざされた暗い空間で、抱かれたまま波の音を聞く。まるで深い海の底にいるようだった。男と少年と生まれてくる子供と。ただ静かに海の底で暮らせたらどんなにいいだろう。
「いいえ……始まるのよ……」
夜明けはまだ遠い空にあった。
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