『長月』 1・日常 大学の食堂は、いつでも騒がしい。 プラスチック食器の触れ合う音や、調理場からの水の音、学生の話す声。 そのそれぞれが、重なりあって、独特の雰囲気を作りだしている。 午前中の講義を終えた僕は、一人学食に来ていた。 特別に美味いというわけではないが、何よりも値段の安さが貧乏学生を引き寄せる。 ご飯一杯80円、味噌汁一椀60円。 ただし、味噌汁は鍋の底をすくわないと、実が入らないという、悲惨な目にあうのだが。 「何、もう講義終わったの?」 声をかけられて顔を上げると、同じ学部の佐藤が立っていた。 佐藤はそのまま、定食の乗ったトレーをテーブルに置き、僕の前の椅子に腰をおろす。 「教授が用事あるとかで、いつもよりも早く終わったんだよ」 「へー。あの教授がねー、珍しいこともあるもんだ。」 「まぁな」 地理学概論の教授は終了時間キッチリまで講義をすることで有名なのだ。 おかげで、学生に評判が悪いことこの上ない。 「ところでさ、お前社会経済論のノート取ってる?」 佐藤の言葉に、僕は思い切り眉をしかめた。 「お前で、今日3人目だよ。その台詞言うの」 「まぁまぁ、そう硬いこと言わずに。俺、これ落とすとヤバイんだよ。俺を助けると思って!」 「いいけど、高いよ?」 味噌汁を片手にニヤリと笑った僕に、佐藤は負けじと笑い返してきた。 「・・・・タダ酒飲ましちゃる」 「りょーかい。手を打った」 そのまま、そろそろ始まる前期試験のことなどを話していたのだが。 「ところでさ、お前、夏休み実家帰ってないんだってな」 佐藤のそんな言葉に、僕の箸が止まった。 「・・・・バイトが忙しくてさ」 口を濁した僕に、佐藤は少し眉を上げたが、特に突っ込むこともなく 「そっかー。九州だっけ、お前の出身。ま、帰るのもめんどくさいよな」 「・・・僻地みたいに言うなよ」 思わず口をへの字に曲げてしまった。 地元をバカにされたような気がしたのも事実だが、それ以上に家を出るときのことを思い出したのだ。 大学入試。 僕は地元の国立と、今通っている関東の大学に合格した。 「関東の大学に行きたい」 親にそう告げたとき、あまりいい顔をされなかった。 家を出るとなると色々と物入りになる。 それでも、僕はこちらに出てきた。 どうしても、あの場所を離れたかった。 黙ってしまった僕に気を使ったのか、佐藤はことさら明るい様子で 「悪い悪い。ま、気にすんなよ」 顔の前で手を合わせると、また試験について話始めた。 緑色の黒板の前では、まるでサンタクロースのような白髪の教授がお経のような話を続けている。 それは学生たちに心地よいまどろみを与える効果があるようで、教室のあちこちで舟を漕ぐ姿が見うけられる。 僕はぼんやりと佐藤の言葉を口の中で反芻していた。 夏休み、帰らなかったんだって、な。 帰らなかったんじゃない。 帰りたくなかったんだ。 その言葉を、佐藤に言うのはためらわれた。 いや、佐藤だけではなく、誰にも言うことはできなかった。 恥じていたわけではない。 口に出すのが、僕の中で、とてつもなく重たい出来事になっていたからだ。 思い出してしまう。 思い出したくないことまで、思い出してしまう。 僕はぎゅっとまぶたを閉じた。 まぶたの奥に、白い病室が浮かんで、消えた。 |
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