Eat with you on the weekend

8. ありがとう、幸せだとわかる。


 
荒い呼吸であるのに、ひどく満ち足りて。
このまま眠ってしまいたい。
汗でぬめる肌がふれあい、抱きとめられて、てのひらが背をゆっくりと行き来するのに不快感はなかった。その熱も性行為のあとのいろんなものが交じり合ったにおいも。
ほとんど開かないまぶたを強制して、自分を抱き込むヒュンケルの顔を確かめると、アバンはそっとあごを上向けた。
意図が伝わったらしく、もうすっかり覚えさせられた唇が降ってくる。
髪に、こめかみに、鼻筋、鼻を軽くかじられて吐息だけの笑いが漏れる。それから唇に。

「ありがとう、ヒュンケル……愛していますよ」

唇が呼吸をもとめて離れたあいまに、そっと囁いた。
背を行き来していたてのひらがとまった。わずかに瞠目した表情に喜びを感じる。
ああ、この目が好きだ。
自分だけを見つめてきた目だ。
どうしてこんな存在が与えられたのだろう。こんなにも焦がれる熱が、自分だけに向けられている。今も昔も。
立場も運命もなにもかもが異質なふたりであったのに。

「泣かなくっても、もう、離しませんから」

傾いていたからか右側からだけひとつ、落ちたしずくを指でぬぐう。
きれいな目だ。純粋だった。
その目に初めて憎しみを与えたのも自分だった。
あの闇の中で、やさしいモンスターたちに守られていた。あの胎内を破られて初めて出会ったとき泣いていた。この澄んだ目が濡れるのを見たのはあのとき以来だった。

「……それはあんたじゃないか? いまさら逃れられないと気づいたのか」

中断していた唇が、今度は目元に降ってくる。どうやらいつのまにか、自分も泣いていたらしい。
笑うのどが詰まった。

「生きていてくれてよかった」

互いになんど死線を踏んだだろう。生きて戦いの終わりを迎えられるとは、思ってもいなかった。

「それもあんただろう。俺は死んでも逃すつもりなどなかったからな」
「なんだ、あつかましいな。同じ場所へ行けるつもりなんですか」
「どんな善人のつもりでいるんだ。……いなくても追うさ。ずっと追ってきた。俺の人生だ」

生きていて良かった。つぶやくと、そうだろう、と笑う声が応える。
死ななくてよかった、これ以上あてもなく追わせ続けることにならなくてよかった。応えられてよかった。声の届く場所に帰ってこれてよかった。
とうとう涙腺が壊れたように、アバンは自制心を手放して喘いだ。驚くヒュンケルに抱き寄せられて、その腕の中で鼻をすすりあげて盛大に泣くあいだ、ずっと撫でられたてのひらがひどく安心した。
ああ、またひとりぼっちにしてしまわなくてよかった。

「憎んでいた。同じくらい愛している」

その感情を教えられたのが自分でよかった。アバンは笑った。






「鼻水もついてるかも」

落ち着いて腕をといたヒュンケルの胸元はだいぶん濡れていた。ぐずぐずと鼻をならしてアバンは枕に頭をのせたまま視線だけを上向けて、起き上がったヒュンケルをながめた。
掌で胸元をぬぐいながら、いまさらだろう、と肩をすくめるヒュンケルは別段気にした風でもなかったが、タオルを探してベッドから降りた。

「やっぱりついてる?」

備え付けの洗面台を教えると、俺じゃない、と声が返ってくる。
絞った濡れタオルをもって戻ったヒュンケルはアバンを拭いはじめた。
そこでやっとアバンは自分の惨状に我に返った。
あちこち舐められたあげく、自分の放ったものはべったりとやや乾きはじめて腹を汚している。そして恐る恐る意識を向けたあらぬところも濡れた感触がある。

「うう〜〜!」
「動くな」

汗をぬぐわれ、より濃い体液をぬぐわれると、ヒュンケルの指が背後に回った。

「ちょっ、もう、無理」
「中のものを出すだけだ」
「ぎゃ〜〜〜!!」

ばか!へんたい!ひとでなし〜ぃ!と本気でアバンは抵抗を始めた。

「そのままにしておくと腹がゆるくなるかもしれんぞ」

気持ち悪くなっていないのか。とまるで気兼ねなくたずねるヒュンケルにアバンは憎しみの目を向けた。

「あなたにはいろいろ言いたいことがあります!我慢してるけどっ!!」
「知ってると言ったと思うが」

1度だけだったし、2度目の分だし、それくらいなら大丈夫か? などと検証し始めるヒュンケルにアバンは殺意を感じた。

「一応経験上なんだが、俺のときとは状況がかなり違うからな。正直どんなところかよくわからない。別にあんたの嫌がることをしたいわけじゃないんだが」

この惨状とかなり違うというのは、どんなシュチェーションだったわけ?
急速に殺意はしぼんだが、いたたまれないような気分は二乗されたアバンが、弱弱しく尋ねた。

「あなたの……その、経験は聞いた方がいいですか」

情事の前のやりとりで、どうやらヒュンケルが同性と、しかも成人するよりずっと前に不本意な関係をもったことがあるらしいことは察せられた。
だいぶお互いに差し迫っていたので、それ以上突き詰めなかったが、アバンのなかでそれはとげのように残している。
過去の傷かもしれないその出来事を、掘り起こしたくはなかったが、ヒュンケルの傷を知らないでいることもアバンには不満に思われた。
おかしな独占欲だとも思う。自分以外の知らない誰かがつけた傷を、容認できない。
きっとそれが一番の原因だと思うと、ためらわずに聞くことは出来なかった。

「……おかしな話かもしれんが、本当に心をともなわないものは、ただの怪我と変わらないんだと、いまさらだが思い知った」
「どういうことです」
「餓鬼なりにプライドを傷つけられたし、不快な思いしかなかった。そのあとの体も最低だった。だがそれだけだ。もうほとんどぼんやりした記憶だ」

怪我をしたということや、それにまつわる出来事を忘れてしまうという訳ではないが、そのときの細かい記憶や感情は希薄だ。それはそのほかの戦闘や事故と変わらない位置に整理されている。

「おかしなものだが、あんたに守られていた。あんたへの憎しみだけが絶対だった。
だからそれは、実際他の傷と同等のものだ、というだけなんだろう。経験として軽んじることはないが、たぶん、あんたが心配しているような意味での傷にはならなかった」

アバンは瞬いた。

「……なんだか、私の存在の重要性とあなたの愛の深さが感じられますね」
「……そういう話だったか?」

苦笑いながらふたたび伸びたヒュンケルの指を、アバンは拒まなかった。不機嫌なうめきを枕に吸わせていたが、中を確かめる動きにも、羞恥心にも耐える。
ヒュンケルはてばやく何度か乾いた指でかきだし、ぬぐい、また繰りかえして処理を終えると、枕に半分埋めたアバンの赤い頬にキスを落とした。

「もういいですか?」
「ああ」

ベッドがきしんでヒュンケルが離れたのを感じて、視線をもどした。

「風呂に入りたいですね」
「大丈夫なのか」

王城の風呂は共有だった。いつでも使えるようになっていたが、当然ながらいつ誰がはいってくるかもわからない。
訪れていたとも知られていないヒュンケルと、普段こんな時間につかわないアバンが、いきなり風呂を使っていたら奇妙なのは間違いなかった。
そこまで考えてアバンはがばっ、と体をおこして、ちいさく悲鳴を上げるとまたベッドになついた。

「どこか痛むか」
「いえ、そんなでも……ってそうじゃなくて」

自分も汗をぬぐってきたらしい、こざっぱりした風のヒュンケルが戻ってきてベッドへもぐりこんできた。

「いま何時ですか」
「……9時5分」

首をめぐらせて、ちょうどヒュンケルの背後に備え置かれた、アバン作の奇妙な形の時計を眺めて答えた。

「食事」
「腹がへったのか」
「そうじゃなくて、誰か呼びに来たんじゃ……」

今日は書記官たちも帰してしまっているのだ。執務で食堂でとらないことも多いが、そうでないことはわかっている。だれかが呼びに来ているはずだった。

「かもな。だが鍵は閉めてある」
「来ていたんですか!?」
「どうかな、気づかなかった」

そこまで言ってヒュンケルがくつくつと笑い出した。

「何がおかしいんです」
「はじめてだ、気づかないなんてな。死んでいるな」

軽口のなかに、これまでの過酷な生が垣間見えて、アバンはそっと横たわるヒュンケルの髪を梳いた。

「少し休んだら俺の宿にいこう。風呂が使える」




ドアの表にアバンの字で「就寝中」と書かれたメモが貼られ、数時間後には「外出中」と変えられていた。

 

 

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