THANATOS
2
たそがれ時、子供たちが五、六人建物から出てきた。声高に屋内にかける別れの挨拶に、こたえる姿がひょいと扉からのぞく。
「暗くなる前に帰るんですよ、日の入りの時間はあっという間なんですから。気をつけて」
笑い声と返事が、それこそあっという間に路地に消えるのを笑って見送るのは眼鏡をかけた温和そうな男だ。
子供たちを見送っていた視線が、向かい側の別の路地へとつづく階段に向かう。
「来ていたんですか、ヒュンケル。中に入ればよかったのに」
「子供たちの相手は俺には荷がおもいんですよ。先生」
「それで気配まで消していたんですか。あきれた子ですね」
ひょい、と無表情のまま肩をすくめて、ヒュンケルは立ち上がった。軽く誇りを払って荷物を肩にかけると、やっと男 ----- アバンの元に降りてくる。
家に迎え入れ荷物を受けとりながら、冷えた手にそっと眉をひそめた。
「だいぶん寒くなってきているのに。関節が痛みませんか」
「やれやれ、すっかり年寄りになった気分だ」
地上の命運をかけた戦いの中で、戦士だったヒュンケルは、たびかさなる激戦をこえて生き残ったが、その体はもはや回復しきれない傷みをかかえていた。
『戦士』は廃業せざるおえない程のものだったが、ヒュンケル自身に未練はなかった。ただ、このような状態になってまだ生きている、という状況そのものが、彼を驚かせていた。
戦いのなかで生まれ、戦地で育まれた。彼の周りも、戦うことを生存の理由にしているものばかりであった。
自然ヒュンケルも『戦士』の道を選んだが、それ以外の道などというものには思い至ったことがなかった。
そんな自分が、戦いの後の世界に、闘う術ももはやもたない体で生きている。
世界というのは驚きで満ちているものだ、と、素直にヒュンケルは思った。
暖めようとするように、離れずにとどまるアバンの手を引き寄せて、ヒュンケルはその指先にくちづける。
けして女性のようには細くない。
あまり頓着しないせいで、乾燥してやや荒れている。中指にはペンだこがあり、てのひらは ------ これは意外にやわらかい。
驚くほど多岐な武器をこなす手とは思えないが、これが達人の手というものかもしれない、とヒュンケルは触れるたびに思う。
堪能した指先を開放して、気持ちのぞきこんだアバンは、ねだられる視線に苦笑を浮かべている。
蜜色の瞳がレンズ越しに見える。この甘い色が、とくにヒュンケルは気に入っていた。自分の体のどこをとっても、こんな風にあたたかくやわらかな色を見つけることができない。
それがゆっくりと隠れるのを見つめて、ゆるされた唇にくちづけた。
二人が師弟の枠を超えたのは、二年ほど前のことだ。
何がきっかけだったか、はっきりとは覚えていない。ただ、再会したあと、お互いに強く意識していた。もちろんそれは欲望などとは違うものだったが、誤解と裏切りと、そしてあまりに強い執着が、長い時間がふたりのあいだには横たわっていた。
どこから手をつければいいのか、とりあえず手はとりあったが、そのまま途方にくれていたと言ってしまっていいだろう。
どちらも別の意味で感情を隠すのが上手く、ことによっては自分自身をすら、だましおおせてしまう程の、自己抑制の強いふたりにとって、新しい関係を築くまでに再会から三年が必要だった。
故国に戻り再建に力をつくした時期を過ぎると、アバンはカール王都から程近い町に移り住んだ。寺子屋のようなこじんまりとした私塾をひらき、時折不足する医者がわりにもこなす。
フローラと結ばれ、王位につくと思われ、また請われていたアバンがひとり隠遁生活を送ることには、ずいぶんと惜しむ声があった。
それでもアバンは変わらず、どういった取り交わしがあったのか、フローラも引き止めなかった。
戦いの終焉とともに見失った少年を探す仲間たちは、世界に散り、それぞれの故郷での役割も負いつつ、その探索をあきらめはしなかった。
そんな仲間たちのよりどころのような役割も、アバンの住まいは果たすようになった。ある種の宿屋のような交流の場だ。
一同に会するような機会はなかなか無いが、たがいに訪れては情報を残していく。
ヒュンケルが旅立ったときには、戦友であるラーハルトと、ヒュンケルを慕う賢者エイミが一緒だった。
しかしながら、アバンが開いた私塾に訪れたヒュンケルは、ほとんどがひとりだった。初めて訪れたときに、ラーハルトが一緒だっただけだ。
アバンは問わなかったし、ヒュンケルも特に語らなかった。ただ幾度目かに立ち寄ったときに、「どうしてもぬぐえない執着がある」ともらした呟きが、アバンの耳にやけに響いた。
しいて言えば、それがきっかけだったのかもしれなかった。
NEXT *
INDEX MENU *
BACK