THE BOUNCE 2002年2月号

THEY'RE BACK AND THEY CAN'T BE STOPPED...
1tym
"WE GON' MALE YOUR BODY ROCK"

2001年11月11日 www.1tym.com オープン、12月12日 『Third Time Fo' Yo' Mind』発売、2002年1月10日早朝TeddyとDanny帰国。翌日1月11日初インタビューを兼ねて初放送を録画するm.net「HipHop The Vibe」撮影、1月12日 公式3集カムバックステージである「バウンス 創刊2周年コンサート」、そしてSBSを通して公衆波で報告…。
1TYMのブランク期間がおよそ1年6ヶ月に達したが、カムバックへのカウントダウンが始まった去る2,3ヶ月の間、1TYMのメンバー達はもちろん、彼らをマネージメントしているYG Entertainmentもやはり目が回るほど忙しい日々を過ごした。3枚目のアルバム 『Third Time Fo' Yo' Mind』が公開されるまでの作業状況とアルバム発売以後のカムバック過程を見守ってきた人達にはあまりにも頑なにまで感じさせた4人のメンバーの意思調律過程に多少ぞっとするかもしれない。しかし1998年11月にデビューアルバムを発売してから今まで、1TYMが新しいプロジェクトを公開する度に良くも悪くも歌謡界とヒップホップ界両側からイシューを呼び起こしたのは、全てその気難しい調律を経た成果物の為である。その成果物に満足/不満、それぞれの評価があるが、否定することができない事実の一つとして、今は1TYMは韓国ヒップホップの現在の状況を説明することは不可能になったというのだ。この視点で1TYMとそのファン達に一種の転換点になる『Third Time Fo' Yo' Mind』の公開前後の彼らに起こった話を整理したいと思う。

「新しくやって来る1TYM。彼らの進む世間の状況。高い僕の理想」

YG EntertainmentのC.E.Oであるヤンヒョンソクのソロデビューアルバム『悪魔の煙』に収録された9番目のトラック「Light, Camera, Action」の一部分だ。「新しくやって来る…」
1998年の夏まででも“1TYM”という名前が「既に存在しているが、まだ存在していない」ものだった。
(もちろんヤンヒョンソクのアルバムが発売される以前にグループのメンバーはジヌションの『The Real』アルバムを通じて既に申告式を済んだ後で、それを通して様々なヒップホップファン達の間でもTeddyとDannyという見知らぬ名前の2人のラッパーに関する話がざわざわ出てはいたが、『The Real』のブックレットを注意深く見た人ならよくご存知のように、彼らは“MF NewGroup”という、今ではめんくらいような名前で紹介されていた)
しかし1998年11月のデビューアルバム『1TYM For Your Mind』が正式に発売され、出演した公開放送の各種歌番組を通じて、視聴者達は本当に失笑を禁じえない光景を目撃し始めた。まだ幼くも見える4人の男達が舞台で白いタオルを振り回して、彼らに熱狂するファン達は皆頭に白いタオルを被って座っている現象。しかも彼らの(メディア出演時に歌手名と曲名を)紹介する言葉を聞くと「1TYMの1TYM」というのだ。もうこれは消防車が「火の用心」を歌ったというか、1TYMの「1TYM」はまた何と。
まさにこの時からだったようだ。ヒップホップに対して全く知らない、いや、ソテジワアイドゥルの『Come Back Home』を通して聞いた潰れた声こそがヒップホップだと思っていた多数の大衆による「1TYM=ヒップホップ」という位置付けがされていたと同時に、自分達だけの空間ではヒップホップを楽しんできた自称マニア達には「1TYM=ヒップホップを商業的に利用している上っ面だ」という汚名を着せられたのだ。このような現象を考えてみると、1TYMのデビューは国内大衆達にヒップホップ音楽と文化が本格的に紹介された重要な始点だということもできる。アメリカでは、いや、ヒップホップを楽しむ人達の間で存在する既に平凡なそれ(タオルを持って出てきたり、ラッパー自らの名前で曲を作ること、または自分達の名前が大きく書かれた服を着て出てくること)が国内歌謡の舞台を通じて正式に初登場したという訳なのだ。同時に1TYMは「ヒップホップ」という音楽を掲げてデビューした名で、以後国内のオーバー/アンダーグラウンド音楽界で活動を始めた(または知られ始めた)無数の多くのヒップホッパー達で噂になり始め、前に言ったように多少の極端にまで見えるあだ名でないあだ名は以後1TYMが活動することにあたって時には得が、また時には実になりもした。
これらに対する評価はデビューアルバム活動を終わらせた直後発売されたYG Familyのプロジェクトアルバムである『Familinum』を通じても相変わらず食い違っていた。しかしここで考えてみよう。一部のマニア達が言ったように1TYMがそんな上っ面でしかないというなら、どうして彼らがこの上っ面のヒップホップグループの音楽が聴いてもらっている理由は何なのか。どんなに見下してみても?何をどんなに間違って作ったのだろうとけなしてみても?もしかしたらダンスとバラードが両分された国内音楽界の息苦しい現実の中で「ヒップホップ」が立つ場所をどのようにしてでも築いてもらうものが必要で?ひょっとすると1TYMがその荷を背負えるほどの可能性があるかをこっそり見る魂胆があったとか?

 2000年、1TYMの2枚目のアルバム「2nd Round」が発売された頃、バウンスが行ったインタビューを通じて、オ・ジンファンがこんなことを言ったことがあった。
「今回のアルバムにはレコーディングのスタイルや声にメンバー別に個性をはっきりと収めた思います。カラーがですね」 レコーディングのスタイルがどうなのか、確認してみることができなかったので、その部分を除いても、声にメンバーそれぞれの個性とカラーを収めきったという言葉に対して、また考えてみよう。一枚目のアルバムアルバムではTeddyを除いた3名のメンバーが歌とラップを半々くらいで駆使したことで、メンバー別のカラーと個性を論じるのに多少難しい点があったことも事実だ。1TYMのデビューアルバムの全体的なカラーを問われると、確かに分からない。しかし2枚目のアルバムからTeddyはメインラッパーとしての比重をより高くし、彼だけのイメージを作り出し、Dannyはラップはもちろん『One Love』を通じてボーカリストとしての位置を築く為に努力した跡がありありと見え、少なくない時間の中で悩んだことが見受けられるソン・ベッキョンの歪曲された声とこの世で一番独特の声を持った男の一人であるオ・ジンファンのエレクトロニクスらしい(こんな形容詞は存在しない。しかし、オ・ジンファンの声にはすっきりとした冷たい感じのエレクトロニック系の音楽が浮かんでくるのは避けようのないことだ)イメージはまたそれなりのカラーを探している過程を見せていた。どんなミュージシャンでも2枚目のアルバムが自分のカラーを見つけるために苦心しなければいけないアルバムであることを1TYMはまた証明してみせたという訳だ。

 そしてそれは音楽的な面でもやはり同様であったPerryとQなど既存のYGの音楽を担当してきたプロデューサー達中心で作られていた。1枚目のアルバムとは違い、「2nd Round」は彼ら以外にもTeddyとソン・ベッキョンが前面に出た初めてのアルバムとしてタイトル曲であった『One Love』と『クェジナチンチン』、やはりTeddyの作品だったのだ。Teddyは「その時はどんな音楽を作ることも、負担のようなものを感じることがなかったです。初めてだとそうじゃないですか。失敗をしても寛大に見てくれることもあるし…」と回想するが、実はこのアルバムを通じてTeddyはその言葉が色褪せるくらいの好評を得た。単にチャートで1位になったからというだけでなく、大部分1TYMというと両目から火花を出して、さんざんけなしていた人達までもが「1TYMにあんな能力があった?」と言いまくっていたのだ。それははじめグループに入った時からプロデューシング部分に一番大きな関心を持っていたソン・ベッキョンの場合も全く同じだ。
特にソン・ベッキョンは一番好きなミュージシャンであるJamiroquaiの音楽スタイルをそのまま再現した『救済不能』が放送を通じて紹介される機会を持つことができなくても、「僕はヒップホップ以外の他の黒人音楽にもっと魅力を感じています。Funk、Soul、Jazz、そしてそれらを再調合した音楽全て…。いずれはヒップホップではないほかの音楽をやるようになると思います。Fantastic Plastic Machineというグループの音楽がすごく好きなんだけど、彼らなりに黒人音楽をベースにしている全く新しい音楽を試してみることも可能ですし。」と言うくらいに、彼がヒップホップ以外の音楽に持った関心はすごい。2集アルバムの最終トラックに収録された『君と僕 僕達は永遠にひとつ』という曲はやはりそのような脈絡で理解できるようだ。

 しかし「2nd Round」は1TYMに成し遂げなければならない大きな課題を提示した問題作だともいえる。まずTeddyとソン・ベッキョンはプロデューシングに手を合わせてその成果物を公開した以上、次のアルバムでその作業を突然止めることはできなくなり、リードシンガーで前面に浮き彫りになったDannyはラップと歌の間で適当なバランスを維持する必要に迫られ、ダンサー出身のメンバーで振付担当という言葉をいつも背負っていたオ・ジンファンは、更に音楽的な役割でグループのカラーを決める時が来るだろう。そしてもう一つ、様々なプロデューサーが参加するなど、互いに行ったり来たりしていた2枚目のアルバムの方向性の入り乱れ様はやはり要解決事項だ。『クェジナチンチン』を通じて言ったように、踊りたい時は踊って、ラップをやりたい時はラップをやって、歌いたい時は歌うことが彼らのいう自由だとしてもだ。音楽をやる人達にはこんな問題は全てアップグレード対象であるということだ。。1TYMにもそれは全く同じなのだ…。

 


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