1 1TYMメンバー達の出会い

98年11月14日。僕達はこの日を忘れる事ができない。初めてのテレビ出演の日だった。96年末から歌手の夢を抱いて準備をしてきたソン・ベッキョン、オ・ジナン、97年3月には歌手になるとアメリカからやって来たTeddyとDanny。僕達4人が集まってから2年近く後になって初舞台に立った感激の日だった。

実際1TYMが誕生するまでには曲折が多くあった。歌手になるつもりで集まったが、すぐに歌手になれるのではなかった。もちろんある程度の覚悟をしてはいたが、これほど大変なことになると思ってはいなかった。
2年近く練習をしながら、人知れず涙を流したことも多く、正直言ってやめたくなる時も多かった。アメリカに家族と友達がいるTeddyとDannyは寂しさで涙を流すことも多かった。また、本当に自分達が歌手になって、舞台に立てるのだろうかという思いに悩まされることも多かった。

そんな僕達が舞台に立つようになって、どれほど嬉しかったことか。必死で年末年始を過ごしてきて、いつのまにか自分達の歌『1TYM』が順位に上がっていた。メディアに登場する回数も多くなって、ラジオからも僕達の歌がよく流れた。ステージに立てば僕達の名前を連呼しているファン達の姿も目立つ位増えているのも感じる事ができる。今ではステージに立つ毎に嬉しくて「もう僕達も歌手になったんだな」と思えて、自分で自分を誉めるくらいだった。
この渦中に思いもよらず日刊スポーツにスターストーリーを連載することになった。僕達ももうスターストーリーを連載する程になったんだな…。初めて話が来た時はあまりに驚いて転がり落ちそうになった。まだ歳も若いし至らないところも多いが、僕達の率直な話を洗いざらいするつもりだ。

僕達が初めて会って、このようになるまでの話はリーダーの僕(Teddy)の口を通して伝えよう。

僕達4人が初めて会ったのは97年3月だった。ソン・ベッキョンはすでに所属事務所「ヤングン企画」でオーディションを通じて事務所に来ていて、オ・ジンファンは同じ事務所に所属しているJINUSEANのダンシングチーム『ハイテク』のメンバーとして活動していた。ここに僕とDannyがアメリカからやって来た。
僕とDannyはアメリカにいた頃からの友達で、作曲をしている先輩の助けもあって僕達が作ったデモテープを通じてヤン・ヒョンソク兄さんに抜擢された。先輩がかねがね仲良く付き合っていたヤン・ヒョンソク兄さんと電話で話している時に、僕達2人が作った曲が聞こえたのだ。ヤン・ヒョンソク兄さんは「この歌が誰の歌だ?」と聞いて、その先輩が「後輩達が作ったデモテープにある曲だ」と答えた。

何日か後にヤン・ヒョンソク兄さんがアメリカに来てオーディションを受けた。その場でOKをもらって、アメリカで整理を終えた後1ヶ月度に韓国に来ることになった。
初めて事務所に行った時ぺっきょんに会った。その時は誰が僕達と一緒のグループになるかも分からない状態で、僕達が最後まで生き残ってこのグループに入れるかも分からなかったのだ。
ぺっきょんに会った時僕達2人はびっくりした。小さい身体だがしっかりとした姿だったぺっきょんは、僕達の前でダンスや歌の実力を見せてくれた。SOLIDの『終わりでないことを(クチ アニギル)』という歌を歌いながらダンスをしていたのだが、すごく上手くて、僕達が緊張した。
僕達は以前ヤン・ヒョンソク兄さんに「実力のないメンバーとは一緒のグループでやりたくない」と堂々と言った事があった。しかしぺっきょんの実力を見た瞬間に嘆声が思わず出た。

ぺっきょんを見て驚いてからしばらくて、次にじなにに会った。JINUSEANのダンシングチーム『ハイテク』で活動していたじなにやはりダンスの実力がずば抜けていた。僕(Teddy)とDannyは「これは半端じゃないな」という表情をするばかり。
それではぺっきょんは僕達に会ってどう思ったのだろうか?ぺっきょんの口を通して聞いてみよう。

ぺっきょん:みんなは不確実な状況だった。僕が1TYMというグループに入ってはきたけど、最後まで生き残れるかは誰も分からないことだった。その当時も何人かのメンバーが入って抜けていった。
そのような渦中に今回はアメリカから2人が新しく入ってきた。ついに2人の仲間が事務所で生まれて、実力を知った瞬間ひどく驚いた。R&Bやヒップホップ音楽をやる友達を韓国でも沢山見てきたけど、これほど上手いのは初めて見た。何かが違うという感じを強く受けた。その瞬間「こうなると僕が切られるのではないか」という警戒心も生まれた。

じなにはどう思っていたのか?じなにの口を通じて聞いてみよう。

じなに:ぺっきょんは前から会っていた。身体は小さいけれどしっかりとした姿が気に入った。普段嫌な仕事を引き受けてしてきていて、評判がよかった。韓国であまりいない雰囲気を持っていていた。

そうして出会った直後にグループの整理が始まった。しかし既に話した通り、全てが不確実な状況だった。ヤン・ヒョンソク兄さんが「最後まで生き残る者が1TYMのメンバーになると公言していた為だ。
97年当時でもメンバーが7人になった。何人がドッと入って来て、ある瞬間に抜けていって、誰がいつ抜けることになるか分からなかった。
その為にいつも精神的に緊張状態だった。ヤン・ヒョンソク兄さんが望んでいた部分はまさにそのような点だったようだ。お互いにいい意味で競争を煽って、少しでもいいグループにしていこう、という。しかし当事者達である僕達にとっては死ぬような思いだった。
将来に対する不確実性の為に家族達にもろくに話ができなかった。じなには契約書にサインするまでご両親に歌手になるという言葉さえ言うことができなった。なんとない気持ちで歌手になると言った後に切られたら何と言えばいいのか。
僕(Teddy)やDannyは家族がアメリカにいて、韓国には友達がいなくてとても寂しかった。お腹が空いたり身体が痛い時には家族が思い出された。そうなってもいろいろ話を分かち合う友達もいなかった。

毎日続く練習はむしろ心を楽にした。夜12時に終わらようとすれば早く終わるはずだった。「12時過ぎると足もなくなるけど、いっそ明け方まで練習して始電乗って家に帰ろう」と日が昇るまで練習することが多かった。身体が辛くても、そんなことは十分に耐えることが出来た。
しかし心の辛さは半端でなかった。いろいろな事が重なって人知れず涙を流すことも多かった。ここで不安定な生活がいつまで続くのか分からないという不安感が一番耐えがたいものだった。
じなには両親に歌手になるという言葉も言い出せずに1年余りを準備に費やした。この期間じなには毎日明け方まで練習で夜が明けてから家に帰る生活を繰り返した。そんなある日両親が聞いた。「お前、もしかして女の子と同棲しているんじゃないの?」
事実をすっきりと吐き出したかった。「僕、歌手になる準備をしています」という言葉が喉までこみ上げてきたが、すぐに押し込めた。もしかして切られた場合両親ががっかりすることが嫌だったのだ。

そんな僕達が遂に昨年11月デビューすることになった。11月14日胸をドキドキさせながら初舞台であったMBC『音楽キャンプ』へ向かった。放送10分前。胸が爆発しそうだったが、耳を疑うような話を聞いた。元々この番組は生放送なのだが、突然収録放送に変わって、2週間後に放送されるというのだ。金剛行旅客船初出航特別放送の為にこのようになったのだ。
なんということだ。テレビに出ると僕達全員が家に電話したのに、これは一体…。僕達は気抜けしてしまった。それでも録画はその日にあって、ちゃんとやろうとステージに上がった。しかしよりによって僕達の前の歌手がバラード歌手でドライアイスをたっぷり使ったのではないか。ドライアイスがそのまま溶けてなくて、ステージはスケート場のように滑った。
歌が始まるか始まらないうちにまずDannyが転んだ。瞬間僕達みんなはただ緊張するだけ。そうしてみんなダンスの腕前を見せる事もできないまま初舞台の幕が閉じた。あとあとまで無念が残る舞台だった。

それでは僕達それぞれの話を披露しよう。



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