4 ぺっきょんの話

僕が生まれた所は79年4月12日、チョンボク チョンウプだった。母の実家が近所にあって、不思議な事に当時そこで親戚と集まって遊んでいた事を覚えている。まだ2歳にもなっていなかったというのに。
僕の家族は僕が3歳位の時にソウルに引越して来たのだが、引越して来たのは僕と妹の教育問題を心配した母のアイディアだった。当時裕福でない事情にも拘わらず、母は僕と妹の2人の兄妹の教育に関心が強かった。

子供の頃の性格は内向的な方だった。外に出て友達と交わって遊ぶよりも家で閉じこもって一人で遊ぶ方が楽しかった。ブロック遊びをしたり機械いじりを楽しんでいた。特にラジオや家電器具は手にすると解体して組立て過程を通じて知性を解いていった。
そのおかげで壊れた機械が1つや2つではなかった。父が大切にしてるオーディオに手をつけた事があった。国産品ではなく注文生産で販売している高価な製品だったのだが、それをバラバラにしたのだ。カセットテープが回っているのが珍しくて、バラバラにしたあげく、故障してしまったのだ。恐くなってとりあえず見た目だけでも何もなかったように見せようとして、偉そうに全く知らないふりをしていた。もちらんすぐにバレて怒られたけど。おかげで今では一般的な家庭用品は僕が修理をする係だ。

教育熱心な母のお陰でいろいろな塾に通うようになった。ピアノ、美術、算数塾など小学校に入る前から沢山の塾に通った。それだけでなく、小学校に入ると学校が終わってからの習い事もかなりたくさんした。母は一つでも多く覚えて欲しいと考え、努力していた。
そんな中、一度ピアノの学校に行かず他の所で遊んでいて、父に見つかったことがった。父は「男ならテコンドーを習わなければダメだ」と母に「他の塾は全部やめて、テンコンドー場に行かせろ」と言った。
母はそんなことは出来ないと強行して、そのままピアノを習わせた。結果的に母の判断が正しかった。今、僕が音楽の道に入ったのもやはり幼い頃から培った音楽的素養のお陰ではないだろうか?
ピアノの学校だけは5年くらい通った結果「チェロニ40」は簡単に弾けるくらいの実力になった。それには僕の血筋には音楽的才能が流れていたようだ。母方の祖父が時調(韓国固有の固定詩)や歌をしている、チョンブク ジョンウプ一帯では有名な人だ。その血筋が今僕にまで繋がってるようだ。
今も僕が2歳の時に『愛国歌』を歌っているのを録音したテープがいる。今聴くと音程はほとんどめちゃくちゃだけど、拍子は合っている。2歳の時にそれくらいなら相当な音楽的素養だと自負している。

子供の時よく外に出て遊ぶ方ではなかったが、たまに出ると家の付近から離れて、よく遠くまで行った。小学校(シンジュン初等学校)の時はヤンジェドンの南部ターミナルの近くに住んでいたのだが、友達2人と一緒にパンピョまで歩いて行ったり、ウミョン山に入って午後遅くになって帰って来たりした。
わざわざ普段は行かない所、バスが行かない所によく行った。その時はそんなに歩いて行っても疲れる事がなかった。お陰で家がどこだか分からず迷ったことも多かったが。

中学校(ソチョ中学校)に入学した頃から平凡だった僕の生活が急激に変わり始めた。小学校の時までの僕とは全く違う生活が僕を待っていた。一番大きな変化は父が亡くなった事。胃がんで亡くなった。
その当時も父が亡くなったという事がどういう事なのかよく分からなかった。単にその時は悲しかった。しかし父が亡くなった後、全てが変わり始めた。
お金を稼いでいた父が亡くなるとすぐに食べて生きていく事の必要性が迫ってきた。そうして母が外へお金を稼ぐ為に出た。平穏に保っていた家庭がその時から急激に壊れ落ち始めた。

学校が終わって家に帰っても誰もいなかった。母は仕事で外に出ていて、妹は母の実家に行くことが多くなった。家に帰って来てもする事もないし、面白くなかった。その頃から友達と付き合い、外に出るようになった。元々友達と交わって遊ぶ方ではなかったが、仕方なく友達と付き合うようになったのだ。
少しずつ勉強からも遠ざかり始めた。中学校に入学するまでは純真な学生だった僕がトラブルメーカーに変わり始めた。僕を止める事ができるものは何もなかった。
そうして出歩くようになって2年生の時からは学校にもちゃんと行かず、家出もするなど本格的な不良学生になり始めた。いつの間にか友達も僕と同じような奴らになっていた。僕の家や家の近所の空地、建物の屋上などで仲間内で集まって酒を飲み、タバコを吸ったり不良のやることをずっとしていた。
性格は少しずつダメになっていき、母のため息は多くなるばかりだった。しかし僕は悪いという気持ちになるよりは「僕をこんなふうにしたのは誰なんだ」という恨みだけが募っていた。

僕の不良じみた行動は年々ひどくなっていった。学校を無断欠席をしたり家出をするなどの行動は修まらず、中3の時遂に事故を起こしてしまった。友達と一緒に恥さらしなことをやらかし、警察でまで引っ張られたのだ。
幸運にもそのまま釈放されたが、母の厳しく叱責された。母は僕が悪さをやらかしていたのは知っていたが、そのまでだったということはその時まで知らなかった。ひどく叱られた。そして僕に対して失望したということを何度も言った。
しかし僕は全く反省していなかった。叱られながらもむしろ更に維持が出てきて、話も聞いていなかった。「僕をこんなふうにしたのは誰なんだ」としか考えられなかった。

その時僕を止めようと必死だった人がいた。中1の時に担任だったイ・ビョンイン先生だった。僕は悪さはいっぱいしたけど、それでも先生達に恨まれてはいなかった。元々愛想のいい性格で言葉づかいもよくて、嫌われている方ではなかった。それで先生達は僕を見て「お前はどこに行っても飢え死にすることはないだろう」と言っていた。
イ・ビョンイン先生は僕をとても心配してくれた。僕がトラブルを起こすと家に来たり、母と電話で僕の進路に対してとても心配してくれた。
先生の導きもあって、時にはちゃんとしたこともあった。その時40位だった成績が15位まで上がった事もあった。しかしそれはほんの少しの間だった。すぐに友達と集まって、勉強から手を引いた。試験を受けないことも何度もあった。

お金に困って中2の時に新聞配達をして、毎月稼いだお金8万ウォンを小遣いとして使って、中3の時はガソリンスタンドで働いて1ヶ月に20万ウォンずつ稼いだお金を母に渡して、僕の小遣いとしても使っていた。

入学式の後の最初の3日間無断欠席して、4日目になった日学校に行くと既に有名人になっていた。入学生の中で始めての家出生徒だったのだ。問題児として烙印を押され、友達からは仲間外れにされた。僕はやはり別に友達と付き合いたい気もしなくて、そのままに放っておいた。
僕はバンド部にだけ関心があった。母からは許しをもらっていなかったが、音楽だけがその当時の自分にとって唯一の関心事だった。

高2の時、また家出をした。その時は自分の問題ではなく友達の問題だった。友達はみんなやはり両親に音楽をやると家で許しをもらおうとしたが、許しを得る事はできなかった。僕も友達の両親に電話をして許してほしいと説得したが無駄だった。
友達の両親達はそのせいで僕を未だに好きではないようだ。現在も電話をできないほどだ。その時は友達の為に一緒に家出をした。
その時の家出では光州まで遠征した。当時20万ウォンを持って出かけたのだが、すぐにお金は底をついた。寒くて空腹だった。どうしようもなくお腹が空いて、食べられる物であれば何でも食べた。
ある時は川岸に座っていると水質検査をしに来ている船が見えた。船で来た人達は川岸で水質検査をするのに引き上げた水に一緒に混じっている魚を捨てて行った。僕達はすぐにその魚を拾って火で焼いて食べた。
よっぽどお腹が空いていたのだろう。あっという間に食べ終わってしまった。これは実話だ。今考えてみると本当にそれでよかったのかと思うけど、その時はそうだった。

そうした苦労もあって始めた音楽は唯一僕の心を楽にさせてくれ、僕の命の全てと言えるものだ。

度重なる家出。光州まで家出して戻って来た後、絶対に学校を中退しようと決心していた。母をなんとか説得し中退届けに判を押した。実際、説得ではなく母が諦めたのと同じだが。
その時心が向いていたのはバンド部だけだった。僕がサックスを担当していたのだが、その楽器を購入する為に母のカードをこっそり持ち出してサックスを買った事もあった。後になってそれがバレて叱られ、ガソリンスタンドで6ヶ月間働いてそのお金を返した。その当時は学校を中退して音楽をやりたいという思いしかなかった。
しかし学校では僕の中退届けが受理されなかった。担任の先生はもちろん校長先生までが毎日のように家に電話をかけてきて、僕に学校に来るように説得した。そうしてまた学校に行って、行くとまた中退届を出して。そうして中退届だけで7回も出した。

結局学校に行かずに家にずっとおとなしくいた。その時からコンピューターMIDI音楽にはまり始めた。コンピューターが作り出す多様な音、多様な和音に魅了され、毎日それだけをやっていた。
その頃から友達も遠ざかり始めた。僕が外に出る事がないから当然遠ざかり始めた。その時から家で悪さもすることなく過ごすようになった。

そうして96年12月にヤン・ヒョンソク兄さんに会った。友達の知ってる人など6〜7段階を経てやっと会い、オーディションを受けられるようになったのだ。しかしすんなり落ちた。今考えてみるとあまりにも貧弱な準備しかしていなかったように思える。とにかくとても悔しかった。次は本当にうまくやれそうに思われたが。その時からずっと電話連絡をして、ヒョンソク兄さんに迷惑をかけた。しかしヒョンソク兄さんはまたオーディションを受けろという言葉をかけてはくれなかった。だからといってすぐに引き下がる僕ではない。ストーカーのようにずっとうるさくつきまとって、遂にまたオーディションを受ける事になった。

初めてのオーディションを受けた時よりも少しはいい状態だった。自分なりに準備をしたからだ。それがよかったのか「事務所に来て、練習をしなさい」という言葉をもらう事ができた。しかしこの時まで僕が歌手になれる確立は1%もなかった。最初は練習もろくにする間もなく、ありとあらゆる嫌なことを引き受けてやっていた。
そんな中TeddyとDannyが合流して、最後にじなにが合流して1TYMとなった。1年余り準備していて、身体的にも精神的にも負担が多く、言葉では言い表せない程だったが、1TYMを少しでもよくする為のものだったと思う。

ヒョンソク兄さんに会ってからは家ではもっと喜ばれた。学校に通っていた時こそ問題を起こしていたが、その時から悪さはしなくなったからだ。そして僕が歌手契約を結ぶととても喜んでくれた親の顔を見て、それまでよく悪さをしていたなぁ、という思いがよぎった。

殆ど10年間笑いのなかった僕の家庭が今では僕のおかげで和気藹々としている。僕がテレビに出演して新聞記事になった日などは家族が集まり、その話でお互いに会話をした。
そうして思う。もうもちろん悪さをすることはないけど、これからももっと一生懸命頑張って、ずっと苦労していた親の助けになりたい。最高の1TYM、最高のソン・ベッキョンになるように最善を尽くそうと思う。

これからも期待してくださいね。


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