2 トラブルメーカー じなにの話

僕が生まれたのは78年7月6日、上には2歳上の兄がいた。

僕が生まれた当時、家は少しうるさくなり始めた。大企業に勤める父と母、そして兄。このような4人家族はそれなりに平穏な暮らしをしていたが、幼い時に僕の性格が言葉通りやかましかった為だ。いつも走り回って遊ぶのが好きだった。ガキ大将を引き受ける程だったが、そのせいで隣町の奴等と血みどろの(?)戦闘もよくしていた。
その頃は石を使ってケンカすることもよくあったが、その時に負った傷が今でも僕の体の至る所に勲章のように残っている。大人達は「あんまりやりすぎると顔が変になるよ」ととても心配していたが、幸運にも今の所大丈夫だ。それほど目立つ傷もなく、頭に縫った痕だけがその当時の熾烈な戦闘を思い出させてくれる。
兄と同じチームを組んで隣町の奴等とケンカもしたが、兄とケンカをする事も多かった。僕がいきなり何をするか分からないような性格だった為に、母はいつもひどく心配していた。

大きい事故に遭った事もあった。小学校(リラ初等学校)1年の時頃だった。ヨイドに住んでいた時だったのだが、通りを渡った所に住んでいる親戚の家に兄と一緒に行っていた。母からは万が一を考えて兄に「弟の手をちゃんと掴んで行って来なさい」と、僕には「お兄ちゃんの手をちゃんと浮かんで一緒に行って来なさい」と念を押した。
僕は「はい!」と大きな声で答えた。そして家を出るとすぐにつないだ兄の手をいきなり解いて、先に親戚の家に行くと走り出した。兄はひどく驚いて手を放してしまった。得意げに走って横断歩道を渡ろうとした時だった。
兄の手を振り払って走って横断歩道を渡ろうとした瞬間だった。車が走ってくるではないか。止まったが遅かった。僕は車にぶつかり2メートル程宙に浮いた。運転手のおじさんもびっくりして走って来て、兄もどうしていいか分からないでいた。
しかしなんとも幸運なことに何事もなかった。打撲傷を負った程度で怪我もなかった。運転手のおじさんはそれでも病院に行ってみようと僕を掴んだが、僕は振り払って親戚の家に走って行った。
病院に行くのが嫌だったし、兄の手を振り払って走った為に事故が起きた事を母が知ったら怒られることが分かっていたのだ。
結局兄が母にこの事実を話して、その日の夜ひどく叩かれた。しかし幸いにも今の所その事故で身体がおかしくなっていない。今考えればぞっとする瞬間だ。九死に一生を得た僕はまさに運が強い奴なのようだ。

とにかく幼い頃、僕はたくさんのトラブルを避け楽しく遊んだ。リラ初等学校に入学したのだが、そこは様々なスポーツをさせてくる所だった。
母が僕がスポーツをすることを望んでいたのだが、その時はスケート、スキー、水泳などたくさんのスポーツをやった。スポーツをして友達や先輩達と一緒に引き締めてやった事も、今考えれば楽しい思い出だ。
そうして楽しい小学校での生活を過ごし、バンポ中学校に入学した。同じ小学校に通っていた友達はバラバラになり、バンポ中学校に進学した友達は殆どいなかった。
始めは全く馴染めなかった。他の生徒はみんな近隣の小学校を卒業してここに来ていてお互いよく知っていたが、僕はそうではなかった。しかも僕を集団で仲間外れにし始めた。当時僕は背も小さく、いろいろからかわれた。
中学校に進学してすぐに僕の「いじめ時代」が始まった。友達は僕がリラ初等学校を卒業したというと「お前がどんな金持ちの家の息子なんだ」と嫌味を言われた。

こんなことではダメだと思った。
「以前の活発な自分に戻らなくては」
そうして言い争いを仕掛ける友達に見返ってケンカをした。そうする事何回か。時間が過ぎるとケンカを仕掛けてくる生徒が減った。その頃には僕がわざわざケンカを仕掛けるまでになっていた。叩かれる事も多かったが、僕を無視する生徒はいなくなった。
次第に自分に対する生徒達の目つきが変わり始めた。幼い時はケンカをして更に仲良くなる場合も多いのだが、僕がそうだった。ケンカをして後に付き合い始めるということだ。友達が増える毎に痛みもあった。先生には問題児というレッテルを貼られ、そのおかげで母がしょちゅう学校に呼ばれたのだ。

そうして時間が流れていき、僕の生活は友達と時には群れをなして遊ぶ事が多くなった。中3の時だったか?当時僕の友達は自分の足の幅よりもはるかに幅が広いズボンを履いて通った。自分達はヒップホップズボンだと考えていたのかもしれないけれど、僕が見るには単に大きいズボンだった。そんな服を着て通う友達が珍しかった。密かに羨ましかったようだ。時間を置かずに僕もそういう服を着て通い始めたのだから。
そんな友達と交わりながら黒人音楽に接し始めた。友達の家を転々としながら彼らのダンスに 合わせて踊り始めた。つまり僕はヒップホップというものを音楽よりダンスでまず接し始めるようになった。

友達と一緒にビデオを観ながら ラップを学び、ダンスを真似ていた。そんな中友達の一人が「こうやってやるのではなく、練習室に通いながらちゃんと一回やってみよう」と提案した。 その友達は練習室に集まってダンスをする人たちと彼等が行くクラブをよく知っていた。
彼に付いて行って みるとそこにはみんなダンスに夢中になっている人達だけが集まっていた。彼らは学校にも通っていなかった。僕は学校に通いながら、授業が終わると練習室に 行って合流した。自分なりにダンスが上手くなったと思う頃には遂に僕達はイテウォンのムーンライトに進出した。

ムーンライトとは場内でダンスに目覚め踊る人達の集合場所。

特に明け方5時30分はヒップホップタイムといって、別に時間が設けられていた。 初めて見た瞬間からはまっていた。ダンスはもちろん衣装、スタイルなど全ての面で彼らは僕達と違った。彼らに比べたら僕らは完全に田舎者。

そこのステージは誰でも立つ事はできなかった。上手い人達が僕と悠々に実力を誇るのだ。 僕達は何ヶ月も見物だけをしに行った。到底僕達が加わる余地はなかった。「わぁ」という感嘆の声を張り上げながら片隅で見ているだけだった。

ヒップホップタイムが終わるとみんなは近所のマンハッタンレストランに行った。 朝ご飯を食べながらあれでもないこれでもないと話を分かち合っていたのだ。

ムーンライトは当時当然目立っていたグループはJINUSEANのバックダンシングチーム「ハイテク」だった。彼等が中に入ると踊っている人達は道をパッと開けて彼らの周囲を円で囲んだ。もちろんみんなは驚嘆しながらその場にいた。 まさにその瞬間から彼らは僕の偶像になった。
ハイテクを遠くでただじっと見ていた。 そんな中偶然にも友達がハイテクにいるのを発見した。すぐにその友達にせがんだ。
練習だけでもいいからどうか自分をハイテクに紹介してもらえないかと。その友達は始めはダメだと首を振ったが、僕が何回もせがんだ末、遂に紹介してもらった。

初めて事務所に行く日。 申告式といって、歌を歌う時間があった。故ユ・ジェハの『愛している為に(サランハギテムネ)』を歌った。当たりがよかった。 その後ヤン・ヒョンソク兄さんは思い出す度に「じなに、お前の歌を聴きたいから準備しろ」と歌を歌わせた。

しかし事務所に行った僕が何ヶ月間かした仕事は掃除だった。 僕はやはり始めからダンスを習えるとは期待をしていなかった。何ヶ月か経った後、ダンスを少しずつ習い始めた。 そうしてダンスが楽しくなってきた頃、ヒョンソク兄さんが僕に歌手をやってみるのはどうかと提案した。
僕は「歌手よりもダンスが好きだ」と拒否した。しかしヒョンソク兄さんと話をしているうちに、歌手へと進路が変わった。そうして1TYMのメンバーになった。ダンスグループはやりたくなかったけど、1TYMがヒップホップを専門に掲げているグループという事で、ひときわ気に入った。

1TYMメンバーとして契約してからようやく両親に話をした。母は「お前がダンスをやると聞いてとても心配していたけど、ダンスよりは歌手の方がいいわ」と言い、最近は本当に助けてくれる。僕が芸能人になる事を不満に思っていた父も最近は僕の仕事をとてもよく理解してくれる。両親の為にももっと一生懸命努力するつもりだ。


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