3 Teddyの寂しいアメリカ生活

当時僕が通っていた学校に韓国人は友達のソンウォンと僕しかいなかった。その学校は黒人も殆どいなくて、しかもアジア系がいなかった。ニューヨークでも環境がよい所にある学校に僕を行かせようということで、その学校に行く事になったのだ。今思えばその学校は陰険な人種差別がひどい所だった。
しかも僕はアメリカに来て間もなくて英語が下手で一人ぼっちだった。ソンウォンがいたけど、二人で遊ぶにも限度があった。やることがない。つまらない。学校が終わって家に閉じこもって音楽を聴く他にする事が殆どなかった。最近、その頃聴いていた歌に聴いていたら、母は「その歌、消して」とうんざりとして身震いを起こしていた。

ソウルがとても恋しかった。友達にとても会いたかった。ソウルでは遊ぶ時はとことん遊びながらも勉強はちゃんとやっていたけど、ニューヨークでは遊ぶ事もできないし、勉強もしっかりできなかった。腹が立った。だけどそんなはざまで自分が何も出来ない事に更に腹が立った。
僕とソンウォンはその学校でいわゆる“いじめ”に遭っていた。学生達だけでなく先生達も陰険に僕達を無視する、そんな学校だった。僕は次第に言葉がなくなり、元気を失っていた。こんな僕を見て父は非常に心を痛めていた。

そんなある日だった。遂に僕が暴力を振るう事件を起こしてしまった。体育の時間だった。その日は野球をする日だったのだが、一人が僕に道具を持って運動場に来いと命令するように言うではないか。何も言わずに道具を持って行った。

野球が終わり道具を片付けるように言われ、全て片付けた。全て片付けるとすぐに先生が自転車を持って来いと言った。自転車を持ってとぼとぼ歩いて行った。
先生が言った通りに自転車を持って行っている時に後ろで文句を言う声を聞いた。英語はまだよく分からなかったが、文句をいう言葉をどうして分からないなんて事があるのか。
それまで我慢していたことが一瞬にして爆発した。完全に理性を失ってしまったのだ。ロッカールームへ行かずに振り返ってそいつの元へ走って行き、握りこぶしを振るった。その瞬間そいつはどうしていいか分からなくなり、どうしていいか分からず動かずにいて僕のパンチを受けた。倒れたそいつをめちゃくちゃに殴った。

そいつは学校で人気がある生徒だった。顔立ちもよく運動もでき、学校の女子からも一番人気があった。3分位殴ったようだ。しばらく殴ってから我に返った。その後は後悔し始めた。振り返って行こうとすると先生が僕を掴んだ。僕はその手を振り払ってロッカールームに戻った。ロッカールームには全校生が殆どみんな出て来ていた。ケンカするのを見る為にみんな走って出て来たようだ。僕が戻るや否や道ができ、野次が飛び始めた。
女の子達の野次もよく聞こえた。「あんたなんて嫌い(I don't like you)」
まるで僕を動物のように見ていた。

停学を食らった。停学期間の間はひどく悩んだ。もちろん母の心労がなによりも辛かった。停学になったという事実は別に気にならなかったけど、その学校へまた行かなければいけないという事がとても嫌だった。アメリカの学校は授業のほぼ大部分がプレゼンテーション形式で、僕が発表する度に笑いものになるのは確かだった。

結局転校した。そこでも僕を温かく迎え入れてはくれなかった。僕の噂が全て広がっていたのか、みんな僕を仲間外れにした。

辛い中学時代を過ごし僕が転校した高校はリッチウッドハイスクールだった。そこは幸い韓国の友達も多く、黒人、ラテン系も多かった。中学校の時とは全く違う世界だった。
そこには先輩達もいた。韓国から来た先輩達と一緒に遊び、黒人の人達とも気が合った。先輩や黒人の人達の中には不良もとても多かった。中学校の時の恨みが酷く心のしこりになっていたのか、高校生の時はその中学時代の悲しみを打ち消す為に過ごした。
その当時ケンカもしまくった。今考えるとそこまでする必要があったのかと思うけど、その当時は自分にはとても切実な問題だった。

その時は母をかなり悩ませていたようだ。それでも母は僕が元気に通う姿を見て胸をなでおろしていた。

そうして高2の時にロスアンジェルスに引っ越した。父が会社を辞め、ロスアンジェルスで事業を始めたのだ。ロスアンジェルスに渡って来てからとても心が躍った。学校に行ってみると学生の80%が韓国人ではないか。ニューヨークから来た僕とロスアンジェルスにいる子達とはスタイルがかなり違っていた。ロスアンジェルスの子達は短い髪に端正なスタイルで、僕はニューヨークの黒人のヒップホップスタイルだったのだ。みんな宇宙人を見るように僕を見ていた。

僕を喜ばせてくれたのはフィリピン出身のジェイソンだった。彼はやはりヒップホップが好きだった。ある日彼が僕のところへやって来た。昼休みだった。そうしてヒップホップに関して話を分かち合い、音楽をかけてダンスを始めた。僕も一緒に踊った。
そうしてジェイソンとは心が通じる仲になった。彼には韓国人の友達がたくさんいて、彼を通してその韓国人の友達を紹介してもらった。初めて彼らが集まっている所へ行った日、Dannyに会った。何人か集まっている中心にひどく険しい顔でDannyは静かに腕を組んでいた。チラッと見ると後輩達に食べ物を買って来いと命令していたりするなど、組織のボスのように振舞っていた。
もちろん後輩達にお金をあげる訳でもなく食べ物を買いに行かせた。
Dannyが僕に言葉を伝えた。「ちょっと使ってみよう」
どういう意味かとたずねてみると、その時僕が帽子をかぶっていたのだが、それが珍しかったのかかぶってみたいということだったのだ。その後僕達は1日たりとも逃すことなく毎日会って、音楽を聴き、歌を歌い、踊りを踊った。
Dannyは情報が早い性質で、ビデオ店で韓国歌謡のビデオやトップランキングプログラムビデオが出ると僕に連絡し、それを借りて観た。そんなビデオを観ながら僕達も早く韓国に行って音楽をやりたいと思っていた。

当時ユ・スンジュン兄さんともロスアンジェルスで仲が良かった。スンジュン兄さんとは音楽的な話をたくさんした。スンジュン兄さんは他の先輩達と仲良くすることもなく、ひらすら音楽、残りの時間は運動をしたり教会に出掛ける規則的な生活をしていた。運動とはもちろんバスケットボールだった。
音楽をやるといっても騒がしくする訳でもなく、自分が計画した通りに一人で努力するスタイルだった。そんな兄さんから学ぶところは多かった。

そうして身近で過ごしていた兄さんがある日韓国で歌手で成功したのを見て、僕達はとても羨ましく思った。そうして僕達も韓国に行き、歌手にならなければという思いが激しく打ち寄せてきた。アメリカは韓国とはとても遠い距離で、歌手になりたいという思いは強かったが、地理的な距離と同時に遥か遠くに感じられる所だった。

Dannyと一緒に毎日韓国歌謡のビデオを借りて観ていたある日のことだった。目が見張るようなグループが現れた。他でないJINUSEANだった。一瞬にして心がひっくり返るような印象を受けた。僕達がやりたい音楽がまさにそういう音楽だったからだ。

あまりにも心残りだった。僕達が巣子知れも先に行っていればよかったのに・・・。当時は本当に残念に思われた。そうして眺めていたJINUSEANの先輩が今では同じ事務所に所属している。人の運命とは本当に分からないものだ。

当時僕達が親しく付き合っていた作曲家の先輩がいて、その先輩と一緒に歌を作ってもいた。その日もその先輩を訪ねて僕達が作ったデモテープをかけたまま遊んでいて、電話が来た。後で知ったことだが、ヤン・ヒョンソク兄さんからだった。作曲家の先輩と電話で話していて、後ろでかかっている音楽が何の音楽かと聞いて、事情を説明するのに一回会おうということになった。
もともとアメリカに来る用事はあって、その時に会おうということになったのだ。そして他には連絡するのはやめようということになった。いわゆる内密にしておこうということだ。そわそわする気持ちで待っていたが、思ったより早く来た。ヒョンソク兄さんは泊まっているホテルの部屋で僕達を呼んでオーディションを始めた。そして1ヶ月も経たないうちに、アメリカ生活を整理して韓国に渡って来て今に至る。今、自分の話をしながら思い出す人はやはり母だ。大切に育てた息子があっという間に飛び出して、気苦労も多かったことだろう。そんな母の為にももっと一生懸命やるつもりだ。韓国に来た時は一番になるという覚悟で来た。今その夢を叶わせる為に出る時だ。


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